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2020年8月9日説教「永遠の命」松本敏之牧師

永遠の命

ヨハネによる福音書17章1~5節

(1)召天者記念

毎年、鹿児島加治屋町教会では、8月第二日曜日を年に一度の「召天者記念礼拝」として特別な形で礼拝を守ってきました。お盆の帰省シーズンにあわせて、最も大勢の人たちが集まりやすい時期にあわせてのことです。しかし今年は、新型コロナウイルス感染症予防対策として、国全体で「里帰りも控えましょう。」「大勢の人が集まるのを避けましょう」という呼びかけの中、私たちもそれをとりやめ、普段の、しかも縮小形式の礼拝として、この礼拝を守っています。いつもはロビーに、召天者の方々のお写真を並べ、特に直近の1年間に召天された方々のお写真は礼拝堂の前方に並べて記念しております。この1年に関して言えば、5人の方々が召天されましたが、その方々の記念は来年の8月に行うことを予定しています。

(2)大祭司の祈り

ただ説教に関しては、もともと召天者記念礼拝を想定して、聖書箇所を選んでいましたので、そのつもりでお話しさせていただきます。ヨハネ福音書17章は、全体が「大祭司の祈り」と呼ばれます。イエス・キリストがここで弟子たちのために、大祭司として父なる神に執り成しの祈りをなさるのです。イエス・キリストの祈りは、福音書のあちこちに記されています。主の祈りがそうですし、有名なゲツセマネの祈り(マタイ26・39他)もそうです。十字架上の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23・34)という祈りを数えることもできるでしょう。しかしそれらはすべて断片的な短いものです。その意味で、この祈りは、1章全体におよぶ長いものであり、イエス・キリストの祈りを知る上で、貴重なものと言えるでしょう。これは「大祭司の祈り」と呼ばれます。それは、ここでイエス・キリストが弟子たちのために、祭司の中の祭司、大祭司として、父なる神様に執り成しの祈りをしてくださっているからです。16章までは弟子たちに対する別れの言葉でした。これまで弟子たちに向けていた目を、今度は神様に向け、神様に向かって語り始められる。今度は人間の側の代表として、神に向き合っておられるのです。大祭司としてというのは、そういう意味であります。

(3)キリストの三職

ちなみに旧約聖書では、神と人間の間に立つ職務として、預言者、祭司、王という三つがありました。神の言葉を人間に取り次ぐ預言者、人間を神に執り成す祭司、神に代わって人間を治める王、この三つです。預言者が神から人間に向かう方向の仕事であるとすれば、祭司というのは、人間から神に向かう方向の仕事であると言えるでありましょう。イエス・キリストというお方は、この三つの職務、預言者、祭司、王の三つを兼ね備えた方として、私たちの世界に来られました。まことの預言者、預言者の中の預言者、言葉の中の言葉、神の言葉そのものが肉となった(受肉)お方です。祭司の中の祭司、大祭司。祭司というのは、犠牲の供え物をして、執り成しの祈りをしていましたが、イエス・キリストは動物の犠牲ではなく、ご自身の体を唯一無比の犠牲の捧げものとして、人間のために執り成し、十字架に向かわれた方であります。そして王の中の王、(キング・オブ・キングズ)として、私たちのまことの支配者となられたお方であります。このところでは、そうした言い方をすれば、これまで預言者として語っておられたお方が、祭司として神に向き合われたと言ってもいいでしょう。もちろんここでもなお、預言者としてその言葉を通して、私たちに父なる神の御心を伝えておられるのは言うまでもありません。

(4)時が来ました

イエス・キリストは「時が来ました」と厳かに祈り始められました。これまで「私の時はまだ来ていない」と言われていましたし、福音書記者ヨハネも「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と記していました。(ヨハネ2・4、7・6、7・30、8・20など)。しかしその後、12章23節では、「人の子が栄光を受ける時が来た」と厳かに語られました。そして続けて、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12・24)と言われました。主イエスが栄光を受ける時というのは、死ぬ時に他ならなかったのです。そして、それがいよいよ実現しようとしているのです。イエス・キリストは、こう祈られました。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(1節)。少しわかりにくい言葉です。父なる神が栄光を受けるために、父が遣わされた子(イエス・キリスト)が栄光を受けなければならない。子なるイエス・キリストが栄光を受けることによって、父なる神に栄光が帰せられるというのです。そのようにして父なる神が本当に神として立てられるということでしょう。しかし、それは「栄光を受ける」という言葉から思い浮かべられるような華々しいことではなく、実際には、先ほど述べたように、十字架にかかって死ぬことを指しています。それを通してでしか、神に栄光が帰せられないのです。そのことをイエス・キリストは、ここで心して受けとめておられたのです。しかしそれは人の目には隠されていました。人の目に「今こそ」と思えても、神にとってまだその時ではないこともしばしばありますし、人の目に早すぎると思えても、神にとっては、「今」ということもあります。物事に成果が表れない時など、私たちはいらいらしたり、失望してしまったりすることがあります。しかし神様が必ず、よい時を定めておられると信じて、今自分にできること、与えられたことを一生懸命励むことが大事であると思います。

(5)イエス・キリストを知ること

「あなたは、子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」(2節)。前半の言葉は、子(キリスト)が父なる神によってまことの支配者として立てられたということでしょう。そうであるがゆえに、キリストは、すべての人に永遠の命を与えることができるようになりました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。この言葉は、後の時代に、イエス・キリストの言葉として挿入されたのであろう言われます。イエス・キリストが、ご自分のことを指して「イエス・キリストを知る」と言われるのは不自然ですし、ヨハネ福音書記者にしても、普通は「イエス」と言い、「イエス・キリスト」という言い方はほとんど出てきません(例外は1章17節)。また文体も少し違うようです。ただいずれにしろ内容的にいえば、神を知ることとイエス・キリストを知ること、それこそが永遠の命だと、ここで宣言されているのです。

(6)永遠の命を信ず

初代の教会から、信仰告白のリレーのバトンのように受け継がれてきた「使徒信条」の一番終わりに、「永遠の命を信ず」という箇条があります。『ハイデルベルク信仰答』は、このところの解説で次のように語っています。

「問58 『永遠の命』という箇条は、あなたにどのような慰めを与えますか。
答    わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、
この生涯の後には、目が見もせず耳が聞きもせず、
人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、
神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。」

私たちは今、イエス・キリストに連なることによって、永遠の喜びの始まりを感じています。前倒しに、今、この生を生きている間に、イエス・キリストを知り、神様を知る喜びを与えられています。今、すでに感じているものが、この生涯の後には、もっと完全な形となる。私たちの「目が見もせず耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような」という表現は、この世に存在するどんなものをも、はるかに超えているということでしょう。私たちの持っている語彙(言葉)は限られていますし、私たちが想像できるイメージも限られています。ですから永遠の命についてもすべてがわかるわけではありません。しかしやがて来るべき終わりの日には、それらすべての覆いが取り除かれて完全な祝福を受けるというのです。私たちは親しい人の死に直面した時に、悲しみの淵に立たされます。立派な信仰をもった人が突然亡くなるような時には、「どうしてこの人がこういう死を迎えなければならないのか。この人の信仰は一体何だったのか。どうして助けてくださらなかったのか」と割り切れない複雑な思いをもつこともあります。ぽっかりと穴があいてしまったような空虚感が募ります。むしろそうした時に、神様の「時」を思い、そして神様は私たちの思いを超えて、きっと最もよい時を備えてくださったのだという信仰をもつことによって悲しみやつらさ、空しさを乗り越えていく力が与えられていくのではないでしょうか。

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