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2021年1月3日説教「ヨセフ一家の逃避行」松本敏之牧師

マタイによる福音書2章16~23節

(1)不安な年明け

あけましておめでとうございます。
新しい年、コロナ禍にあって、今年はどんな年になるのだろうと、不安な思いで迎えられた方も多いのではないでしょうか。
昨夜のニュースでは、首都圏の感染拡大に歯止めがかからず、東京都知事、神奈川県知事、埼玉県知事、千葉県知事の4人が、政府に「緊急事態宣言」の発令をすみやかに検討するよう要請したことが報じられていました。政府はまだ決断できないでいるようですが、「事態は待ったなし」で、首都圏の医療崩壊は時間の問題のように思えます。 私は、この年末年始、兵庫県姫路実家に帰省する予定で飛行機の切符まで手配していましたが、結局、断念して鹿児島でおとなしくステイホームいたしました。

(2)ヘロデの幼児虐殺事件

さて今日は、日本基督教団の聖書日課であるマタイ福音書2章16節から23節をお読みいただきました。ここに記されている話はクリスマス直後の出来事ですが、ベツレヘム周辺でも大きな不安が広がっていたことが記されています。
前半の18節までについては、すでに12月7日に取り上げてお話しいたしましたが、簡単に振り返っておきましょう。
それは、「ヘロデの幼児虐殺事件」と呼ばれる残酷な話です。東の国の占星術の学者たち(新しく発行された聖書では「博士たち」に戻りました)が、黄金、乳香、没薬の贈りものをもって、生まれたばかりの救い主キリストを礼拝しにやってきましたが、彼らは救い主の生まれた場所を探し当てる前に、エルサレムへ立ち寄り、ヘロデ王を訪ね、こう言っていました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。
それを聞いたヘロデは、「もしかすると自分の地位がおびやかされるのではないか」と不安になり、「その子のことについて、何かわかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って、情報を得ようとしました。もちろんそれは、嘘であり、彼らから、その赤ちゃんの居場所を聞き出し、殺そうと企んだわけです。
しかし彼らは、その救い主を見つけて、礼拝した後で、夢で「ヘロデのところへ帰るな」とのお告げを聞き、別の道を通って、自分たちの国へ帰っていきました。そのことを知ったヘロデは激怒いたします。そして、「二歳以下の男の赤ちゃんを一人残らず殺せ。皆殺しにせよ」という命令をくだすのです。
しかし、ヘロデ王は、どんな力をもってしても、イエス・キリストを見つけだして、殺すことはできませんでした。神はあらゆる手段を用いてイエス・キリストを守り抜かれました。

(3)ヨセフの果たした役割

その時、幼子イエスを守るために、大切な働きをしたのが、マリアの夫ヨセフでありました。このヨセフに対して、主の天使は三度夢で現れました。
最初は有名な夢です。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎(たい)の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ1:20)。

ヨセフは黙々とその命令に従いました。
二度目にヨセフに現れた天使はこう言いました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(マタイ2:13)。

いくら産まれたばかりの赤ちゃんがかわいいと言っても、その子は自分の身から出た子どもではありません。故郷を離れて、異教の地エジプトへ逃げて行くために、ヨセフはどれほど大きな犠牲を払ったでしょうか。
エジプトの地で、主の天使は、もう一度(つまり三度目ですが)、ヨセフの夢に現れてこう告げました。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」(マタイ2:20)。彼は、再び妻マリアとその子イエスを護衛して、戻ってきます。イスラエルの地に帰って来た時、まだヘロデの息子アルケラオがユダヤの地を治めていると聞いたので、危険を避けてガリラヤのナザレという町に落ち着きました。
印象深いことに、マタイはヨセフについて語ったすべてのところで、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」というようなことを記しています(15節、23節)。マリアの受胎をヨセフに知らせた有名な場面でも、こう述べていました。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」(マタイ1:22~23)。
マタイは、そのように旧約の預言を引用することで、すべてのことは神の意志によって進められたと言おうとしたのでしょう。

(4)ヨセフはどういう人物であったか

ヨセフは、マタイ福音書では最初にだけ登場します。2章の終わりで、無事にマリアと幼子イエスをナザレに戻した後は、もう出てきません。ルカ福音書では、12歳のイエスの「神殿詣で」というところで、一度出てきます(ルカ2:22)。
そういうところからして、このヨセフはイエス・キリストが成人する前に、世を去ったのであろうと言われます。もしもそうであったとすれば、ヨセフの生涯は、イエス・キリストの母となったマリアを守り、彼女から生まれた幼子イエスを受け止め、その命を守るという課題に捧げられたと言ってもよいでしょう。
ヨセフとは、どういう人物であったのでしょうか。興味深いことに、妻の名前から先に紹介される男性というのは、彼一人だけです。普通は、「アブラハムの妻、サラ」というふうに夫から紹介されますが、彼だけは「マリアの夫ヨセフ」(マタイ1:16)と紹介されます。
またヨーロッパの絵画では、しばしば老人として描かれます。ヨセフとマリアの間に性交渉がなかったことを強調するために、生殖能力のない老人としたようです。去年の教会と幼稚園のカレンダーの絵は「聖家族」でしたが、「どれがヨセフかなあ」と探した方もあるのではないでしょうか。年齢のつり合いから言えば、左端に描かれている青年のような人物がヨセフかなと思った方もあるかもしれませんが、そうではなく、少し禿げたような老人がヨセフなのです。そういうふうな伝統があるのです。
しかし、私は、そういう理解の仕方はどうかなと思います。福音書には、イエスには何人も兄弟姉妹がいたということが書かれています(マタイ13:55など参照)、それはヨセフとマリアの子どもたちと考えるのが自然ではないでしょうか。もっとも、この兄弟姉妹も、カトリック教会を中心に、「実はいとこである」という理解があるようですが。そこまで無理しなくてもいいのにな。普通に、イエス様には弟、妹がいっぱいいたということでよいように思います。

(5)大嶋果織さんの理解

NCC(日本キリスト教協議会)教育部主事であった大嶋果織さん(現在は群馬の共愛学園前橋国際大学教授)は、「福音と世界」という雑誌に「聖書の中の男たち」という論考を連載しておられましたが(2001~04年)。「聖書の中の女性たち」という本は、よくあるのですが、彼女の場合は、「聖書の中の男たち」です。そこで、フェミニストの視点から想像力豊かに、聖書に登場する男たちを、次から次に、ばさばさと切り捨てるというか、批判されました。たとえば「アブラハム、女を利用してサバイバル」「ダビデ、基本を知らない男」などです。その大嶋果織さんが、「どうしても欠点を見いだせなかったほとんど唯一の男が、このヨセフです」と、ある研修会で語られたことが印象的でした。「他の男は皆ダメ」。
大嶋さんは、その研修会の直後、「可能性に満ちたヨセフ」と題する興味深い文章を、「キリスト新聞」に書いておられましたが、そこで、コンラート・フォン・ゾーストという15世紀のドイツの画家の「キリストの生誕」(Conrad von Soest, The Birth of Christ, 1404)という絵を紹介されました。それは、ほほを膨らませ、一生懸命火を吹いて、粥(かゆ)を炊いているヨセフでした。そして次のように述べられました。
「妻子のために這いつくばって粥を炊いている男として描かれても、ヨセフはまったく気にしないだろう。……ヨセフは『男の沽券』とか『権力』とか、そのような父権的価値からもっとも遠いところにいる男なのである」(「キリスト新聞」2012年12月8日号)。

(6)バルラハの「逃避途上の休息」

またヨセフの逃避行を描いた芸術作品としては、私は、エルンスト・バルラハ(1870~1938、ドイツ)の、「逃避途上の休息」(Ernst Barlach, Ruhe auf der Flucht)という木彫りの作品が好きです。週報にも紹介しておきましたが、こういう作品があります。これは、20世紀のものです。
真ん中に上半身裸のマリアがいて、マリアは幼子イエスを膝にのせ、両手で囲うようにしっかりと幼子を守っています。そしてその背後でヨセフが右手をマリアと幼子の上に伸ばし、あたかも親鳥が翼を広げてひな鳥を守るように、マントで二人を覆っています。ヨセフの優しい表情が印象的であります。

(7)聖クリストフォロスの伝説

聖書の中のヨセフは、一言もしゃべっていません。マタイ福音書1章、2章に何回か出てくるのですが、全くしゃべっていないのです。彼の姿はただ「信仰の服従」という一語に尽きると思います。美しい姿です。神の救いの計画は、このヨセフの信仰の服従を通して、前進していきました。
私たちにも、このヨセフのような信仰の服従が求められているのではないでしょうか。もしもそうしようとするならば、ヨセフが背負ったような犠牲を伴ってくることもあるでしょう。イエス・キリストが後に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と言われたとおりです。しかし私たちは、犠牲を払って主に従っていく時に、それによって逆に、私たち自身が支えられるという経験をするのではないでしょうか。
聖クリストフォロス(英語ではクリストファー)の伝説をご存じでしょうか。クリストフォロスは川の渡し守でしたが、たまたま一人の少年を背負って川を渡ることになりました。しかし一歩一歩進むうちに、どういうわけか、少年がずしりずしりと重くなっていくのです。彼は水をかぶりながら、足をふんばって何とか川を渡り切りました。クリストフォロスがふと後ろを振り返ってみると、そこはものすごい急流でありました。その時、彼は悟るのです。もしもあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されてしまっていたに違いない。その少年こそキリストであり、その重さは世界の重さであった。そういう伝説です。クリストフォロスの絵画や彫刻も、ヨーロッパの美術にあります。子どもを背負って、足元では水の流れがあるような、そういう像をご覧になったことがある方もあるのではないでしょうか。
クリストフォロスは、「少年を運ばなければ、守らなければ」、と必死の思いであったでしょうが、そこで逆に不思議にも、神のよき力に守られていたのです。ヨセフもきっと、何度もそのような経験をしたに違いありません。どんなに厳しい現実の中にあっても、それらはすべて神がご存じであり、私たちはその神のみ手の中を歩んでいくということを心に留めたいと思います。

(8)神の呼びかけに従っていく

コロナ禍の不安の中で始まった2021年ですが、私たちは神様の守りのもとにあることを信じながら、平安のうちに歩みだしたいと思います。また私たちは、ただ何もしないのではなく、神様は私たちを用いて、ことを起こされる方でありますから、ヨセフが神様の呼びかけに従っていったように、私たちには何が求められているのかを謙虚に尋ねて、その求めに従っていくものでありたいと思います。それに従う時に、クリストフォルスがそうであったように、私たちも、そこで私たち自身が守られ、強められていく経験をするのではないでしょうか。

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