2026年8月30日説教「互いに重荷を担いなさい」松本敏之牧師
箴言3:27~29
ガラテヤの信徒への手紙6:1~10
(1)『世界がもし100人の村だったら』
今から25年ほど前、2002年に、『世界がもし100人の村だったら』という小さな本がベストセラーになりました。これは、不思議な経緯で誕生した本でした。この本が普通の本と違っていたのは、インターネットのメールで世界中を駆けめぐり、その中で内容も少しずつ加筆・訂正・削除を加えて、書き替えられながら、だんだん形を整えていったということです。ですから原著者が誰であるのかはっきりしません。もっともわかったところで、最初にメールに打ち込まれた時から、随分形を変えてしまっておりますので、あまり意味のないことかも知れません。
どこかの村や町で語り伝えられてきた話を誰かが書き留めたものを、民話、あるいは民間伝承と言います。英語で言えばフォークロア、スペイン語やポルトガル語ではフォルクローレです。それにちなんで、インターネットで書き伝えられながら成長し、形を整えてきた話をネットロアと言うそうです。この本を出版した池田香代子さんは、解説の冒頭で、「インターネット・フォークロア“ネットロア”は、グローバル時代の民話である」と書いています。どういう内容かざっとご紹介いたしましょう。
「世界には63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう。」(2026年の世界人口は80億人を超えていますので、当時とは違ってきている部分もあるでしょうが、比率的にはそう大きくは変わらないように思います。)
100人のうち、52人が女性で、48人が男性です。
30人が子どもで、70人が大人です。そのうち7人がお年寄りです。
90人が異性愛者で、10人が同性愛者です。(これも今では、同性愛者だけではなくLGBTQとして記載されるでしょう。それにしても同性愛者、またLGBTQの方の比率が私たちの印象より多いのではないでしょうか。)
70人が有色人種で、30人が白人です。61人がアジア人です。13人がアフリカ人、13人が南北アメリカ人、12人がヨーロッパ人、あとは南太平洋地域の人です。
(これも現代では、アジア人、アフリカ人の比率がもっと増えていることでしょう。)
33人がキリスト教、19人がイスラム教、6人が仏教を信じています。5人は木や石などすべての自然に霊魂があると信じています。24人は他のさまざまな宗教を信じているか、あるいはなにも信じていません。
17人は中国語をしゃべり、9人は英語を、8人はヒンディー語とウルドゥー語を、6人はスペイン語を、6人はロシア語を、4人はアラビア語をしゃべります。これでようやく村人の半分です。あとの半分はベンガル語、ポルトガル語、インドネシア語、日本語、ドイツ語、フランス語などをしゃべります。
いろいろな人がいるこの村では、あなたとは違う人を理解すること、相手をあるがままに受け入れること、そしてなによりそういうことを知ることがとても大切です。
また、こんなふうにも考えてみて下さい。村に住む人々の100人のうち、20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです。
すべての富のうち6人が59%をもっていて、みんなアメリカ合衆国の人です。74人が39%を、20人がたったの2%を分け合っています。
すべてのエネルギーのうち20人が80%を使っていて、80人が残りの20%を分け合っています。
75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがあります。でも、あとの25人はそうではありません。17人は、きれいで安全な水を飲めません。
もしあなたが銀行に預金をもっており、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっているようであれば、あなたはいちばん豊かな8人のうちの1人です。自分の車をもっているならば、あなたはいちばん豊かな7人のうちの1人です。
村人のうち1人が大学の教育を受け、2人がコンピューターを持っています。(これも現代ではもっと変わっているでしょう。)けれど、14人は文字が読めません。
もしもあなたがいやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに信仰や信条、良心に従って何かをし、ものが言えるなら、そうではない48人より恵まれています。もしもあなたが空爆や襲撃や地雷による殺戮や武装集団のレイプや拉致におびえていなければ、そうでない20人より恵まれています。
1年の間に、村では1人が亡くなります。でも1年に2人赤ちゃんが生まれるので、来年、村人は101人になります。」
(2)9・11の事件以降
まだもう少し続くのですが、ここで切りましょう。池田香代子さんは、解説でこのように述べています
「このネットロアと、2001年9月11日に始まった一連のできごとは、決して切り離せないだろう。ある種の世界意識のようなものが覚醒し、もはや天文学的なまでにひらいてしまった貧富の差に危機感を覚え、このネットロアのなかにその目を静かに、しかししっかりと見開いたのではないだろうか。」(引用終わり)
今日の世界は、実は一つの村のように運命共同体なのなのです。あっちが倒れれば、こっちも倒れる。今の日本は世界の国々なしには成り立たちません。「世界の国々」という時に、私はアメリカであるとか、ヨーロッパ諸国であるとか、私たちの視野に大きく入ってくる国々だけではなく、意識的にそうしない限り、なかなか私たちの視野に入ってこないアジアの貧しい国々を、主に思い浮かべています。私たちの隣人は、すぐ目の前にいる人だけではなく、世界中の各地にいるのです。つまり、今の私たちに密接なかかわりのある人が、この空間を超えて世界のありとあらゆるところにいるのです。
インターネットというのは、隣人が世界のありとあらゆるところにいるということを実感させてくれるものです。ブラジルにいる人とも、アメリカにいる人とも、私たちはクリック一つで簡単に交信することができますし、同じように世界中のニュースを自分の好きな時に、好きなように取捨選択して、見ることができます。あるいは個人レベルで発信しているホームページも世界中どこからでも見ることができます。
私たちの世界では、あの9・11のテロ事件以降も、ずっとさまざまな戦争、紛争が起きて来ました。今も起きています。私たちはどうしてこのような痛ましい、また理解困難なことが起きるのかを、反省すればする程、この地球村という運命共同体のことを考えずにはいられないのです。
(3)「隣人を愛する」律法の具体的指示
さて、私たちはガラテヤの信徒への手紙を読み続けてまいりましたが、ガラテヤの信徒への手紙は、第5章から「私たちはいかに生きるべきか」という倫理について語っています。5章の13~14節には、こういう言葉がありました「愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。「隣人を自分のように愛しなさい」。先ほどの「100人の地球村」のお話も、まさにパウロが記したこの「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を、私たちが今日的に受けとめるためのお話である、と言えるのではないでしょうか。
6章の1節は、5章25節の「霊によって進もう」という言葉を受けて始まっています。ここからさまざまな教えが連ねられていますので、ざっと説明しながら概観していきましょう。それほど難しいことが書かれているわけではありません。
「きょうだいたち、もし誰かが過ちに陥ったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正しなさい。」ガラテヤ6:1
当時、洗礼を受けてクリスチャンとなった人のことを、「霊の人」と呼んでいたようです。誰かが何か悪いことをしているならば、注意するのは当たり前のことでしょう。しかし目的は相手を立ち帰らせることであって、相手を頑なにさせることではありません。四角四面に正義を振りかざして相手を裁くのではなくて、「柔和な心で正す」ということが求められています。
そしてそれに加えて、パウロは、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい」と言っています。ここで具体的に何を誘惑と考えているのかは、二通りの可能性があります。一つは、前半で触れた人と同じ「罪を犯すこと」。この場合は霊の人であっても、同じ罪を犯すことがあり得るということであります。もう一つの誘惑は、忠告する場合に、「傲慢な態度を取ること」です。相手を裁いてしまうことです。私はその両方でありうると思います。悪魔はありとあらゆるところに誘惑を用意しているからです。
2節では「互いに重荷を担いなさい」と言います。これも「霊によって歩んでいるならば、そうしなさい」ということです。「悲しみは共に担うことによって半分になり、喜びは共に担うことによって二倍になる」ということわざを思い起こします。私たちはそのようにして、共に歩むのです。パウロはそのようにしてこそ、「キリストの律法を全うすることになる」と言います。
「キリストの律法」というのは、実は聖書の中でここにしか出てこない珍しい表現です。イエス・キリストは、私は律法を廃棄するためではなく、完成するために来たのだ、と言われたこと(マタイ5:17)を思い起こしますし、同時に「重荷を担いあう」ということで言えば、イエス・キリストご自身が、私たちの重荷を担ってくださった方であることを思い起こさせる言葉でもあります。主イエスは、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われました。またそして続けて、「私は柔和で心のへりくだった者だ」(マタイ11:29)と言われました。これもパウロが「柔和な心で正しなさい」と言っていることに通じるものでしょう。
(4)自分を誇る、大切にする
3節、
「何者でもないのに、自分を何者かであると思う人がいるなら、その人は自らを欺いているのです。」ガラテヤ6:3
これは、誰でも自分自身を吟味してみれば、誰も自分を誇ることができないことがわかるということでしょう。パウロ自身は数え上げればきりがない程、たくさん誇るべき事をもっていましたが(フィリピ3:4~6参照)、それを誇らずにそう言っているのですから、他の誰も誇ることができないのは、もちろんでありましょう。
4節の「自分だけには誇れるとしても、他人には誇れなくなるでしょう」というのは、おもしろい言い方だと思います。自分では、「私はなかなかのものだぞ」と思うことができても人には通用しない、ということでしょう。ただし「誇る」という言葉はギリシャ語では「喜ぶ」というのと同じ言葉です。ですから、ある聖書(柳生直行訳)では、「誇るに足ることがあったなら、自分だけで喜べばいいのであって、人の称賛を得ようなどと思ってはならない」と意訳していました。自分のいいところは自分で認めて、神さまに感謝していればいい、と読むこともできると思います。つまり自分で喜ぶことは認めているのです。私は、それはある意味で大事なことではないかと思います。そうでなければ、私たちはだめだ、だめだということで落ち込んでいくかもしれません。
私はこのパウロの引用においても、もともとの旧約聖書の律法においても、「〈自分のように〉隣人を愛しなさい」、と言われていることには、それなりに意味があると思うのです。これは、「自分を愛する」ことを前提としています。ある人が、「自分を愛することのできない人が、人を愛することができるか」と言いました。そのように自分を大切にすることを忘れないで、他の人も大切にするということではないでしょうか。
「100人の村」の話の続きにこういうことが記されています。
「もしもこのメールを読めたなら、この瞬間、あなたの幸せは2倍にも3倍にもなります。なぜならあなたにはあなたのことを思ってこれを送ってくれた誰かがいるだけでなく、文字も読めるからです。けれどなにより、あなたは生きているからです。昔の人は言いました。巡り往くもの、また巡り還る、と。だからあなたは深ぶかと歌ってください。のびやかに踊ってください。心をこめて生きてください。たとえあなたが、傷ついても傷ついたことなどないかのように愛してください。まずあなたが愛してください。あなた自身と、人が生きてあるということを。」
この言葉も、まず私たちが自分を振り返って、それが肯定されているということを受けとめています。
(5)自分の重荷と人の重荷
「おのおのが自分の荷を担うことになるのです。」ガラテヤ6:5
「自分の荷を自分で担う」ことと、先ほどの「互いに重荷を担いあう」ことは、一見、矛盾するように見えるかもしれません。しかしそうではないでしょう。2節の言葉は、決して人に重荷を負わせてよいということではありません。私たちは時々、教会においても、会社においても、重荷が大きくなり過ぎることがあります。
そんな時、「あの人は言うだけで何にもしてくれない」という不満がわき上がってくることもあるかもしれません。しかしそのような時は、パウロの言葉流に言えば、「霊によって歩んでいない」のではないでしょうか。それぞれが、個人個人として自分自身の重荷を負いながら、交わりに入り、また隣人の重荷を負ってあげる心構えが大切でしょう。
「神は、侮られるような方ではありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。倦むことなく励んでいれば、時が来て、刈り取ることになります。」ガラテヤ6:7~9
これは「終わりの日のことを覚えて、今の時を過ごせ」ということでしょう。「肉に蒔く」「霊に蒔く」というのは少しわかりにくい表現です。「肉に蒔く」というのは、自己中心的に生きるということでしょう。「霊に蒔く」とは、その反対に愛をもって他に仕えることであり、パウロの言葉を用いていえば、「善を行う」ということ、そして「互いに重荷を担う」ということです。
(6)まだ間に合います
パウロは、最後の10節で、このように言っています。
「それゆえ、機会のある度に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」ガラテヤ6:10
ここに2種類の人々を掲げています。「すべての人に対して」「特に信仰によって家族になった人々に対して」。これは、教会の交わりでしょう。私たちは今、このパウロの言葉を、100人の村のネットロアを重ね合わせてみる時に、これを逆にして、言ってみてもよいのではないかと、思います。「それゆえ機会のある度に、信仰によって家族になった人々に対して、そしてそれだけではなく、すべての人に対して、善を行いましょう」。
「機会のある度に。」私たちには今、「時」が与えられています。いつかその「時」が終わる日がやってきます。それは私たちひとりひとりの人生においてもそうでありますし、私たちの歴史においても、神さまは終わりの日を備えておられる、と聖書は語っています。「時のある間に」神さまに立ち帰りましょう。
「100人の村」のネットロアの最後の言葉を引用して、終わりたいと思います。
「もしもたくさんのわたし・たちがこの村を愛することを知ったなら、まだ間に合います。(まだ間に合います)。人びとを引き裂いている非道な力からこの村を救えます、きっと。」
そう書いています。私たちは、今目の前には見えないけれども、深いところでつながっている「隣人」を自分のように愛し、まだ間に合う間に、愛し合い、互いに重荷を負い合う、「地球村」共同体を形成していきたいと思います。