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2026年11月1日説教「復活の主に出会う」松本敏之牧師

ホセア書6:1~3
ルカによる福音書24:36~43

(1)永眠者記念日

11月第一日曜日は、日本キリスト教団では、聖徒の日あるいは永眠者記念日と呼ばれています。キリスト教会では、随分古くから(8世紀頃)、殉教者たちなど聖人を記念する日として、11月1日を諸聖徒の日(All Saints’ Day)と定めてきました。そしてその翌日の11月2日を諸霊の日あるいは万霊節(All Souls’ Day)と呼んで、特に歴史に名を残さずとも、信仰をもって死んだ人たちを記念する日と定めてきました。

ちなみにハロウィンというのは、この諸聖徒の日の前夜祭として、死者の霊がお墓から出てくるという世俗的なお祭りです。その意味でキリスト教と全く関係がないわけではありませんが、悪霊を追い払って収穫を願うという古代ケルト起源のお祭りです。聖書とは関係ありません。

鹿児島加治屋町教会では、この日ではなく、8月の里帰りの時期にあわせて召天者記念礼拝をまもっています。ちなみにブラジルでも、11月2日はフィナードスの日(死者の日)として、国民の休日にもなっていますので、家族そろってお墓参りに行きます。私は、今から35年前、1991年の10月末にサンパウロに到着しましたので、教会の人に連れられての最初の外出がこのお墓参りでした。北半球と反対ですので、サンパウロあたりでは、ちょうど日本の5月初めのゴールデンウィークのような季節です。墓地全体が色とりどりの春の花で飾られます。お墓に供えられた花を盗んで、また墓地の入り口で売るという貧しい人たちもいると聞きました。不謹慎なようでもあり、リサイクルで合理的なようでもあります。「神をも恐れぬ不届きな行為」とも言えますが、貧しい人が生活のためにやっているならば、まあ神様もお許しになるかなと思います。なんともブラジルらしいことです。

鹿児島加治屋町教会では、召天者記念礼拝は先ほど述べたように8月ですが、永眠者記念日である11月第一日曜日に、平川町にある教会墓地において墓前礼拝を行っています。年に一回、ご遺族が教会墓地に埋葬されていない方もお墓に集まりましょう、と呼びかけています。今からでも大丈夫ですので、ぜひご参加ください。本日は、それにあわせて、5月に召天された山口典子さん(山口眞弓さんの義母さん)の納骨を行うことになっています。

(2)礼拝の原点

さて、私たちはルカ福音書を続けて読んでいますが、本日の箇所は、復活の主イエス・キリストが弟子たちの前に現れたことを記している箇所ですので、永眠者記念日、墓前礼拝の日にふさわしい箇所が与えられたと思います。

物語は、エマオにおいて、クレオパともう一人の弟子が主イエスと出会い、喜び勇んでエルサレムへ戻り、11人の弟子たちにそのことを告げたところから始まります。そこへ、イエス・キリストが現れるのです。

「こう話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」24:36

ヨハネ福音書で復活のキリストが弟子たちの前に現れた時にも、ほとんど同じことが記されていました(ヨハネ20:19)。もともと同じ資料が用いられたのだろうと言われます。ヨハネ福音書に書かれていることを、後代の人がここに挿入したとも言われます。

ここに教会がある。ここに礼拝の原点がある、と思います。私たちの礼拝においても、ここに主イエスが共におられなければ、礼拝の意味がありません。主イエスがここに共におられて、私たちに「平和があるように」と告げてくださること、それが礼拝です。ですから、礼拝の終わりに「平和のうちにこの世へと出て行きなさい」と派遣の言葉を告げるのです。あれは、単に牧師がそう言うのではなくて、主イエスの代わりに、告げているのです。本当は、主イエスがそのように告げて、私たちを送り出してくださるのです。この時も、弟子たちに、平和を告げるために現れてくださったのでした。

(3)幽霊ではない

ルカ福音書では、そこでの弟子たちの反応が記されています。

「彼らは恐れおののき、霊を見ているのだと思った。」24:37

幽霊だと思ったというのです。この反応はちょっと不思議です。なぜならば、クレオパともう一人の弟子は、すでにエマオで復活のキリストに出会っていますし、シモン・ペトロもすでに復活の主に出会っていたからです(24:34)。それだけ、復活の主に出会うことは、それほど信じがたい出来事であったということでしょうか。

それに対して、復活のキリストは、彼らを叱責しながら、信じさせようといたします。

「そこで、イエスは言われた。『なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。私の手と足だ。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」24:38~40

「手と足をお見せになった」というのも、ヨハネ福音書とよく似ています。ただヨハネでは、「手と脇腹をお見せになった」でしたが、ルカでは「手と足」になっています。ヨハネのほうでは、槍が突き刺さったところをお見せになったけれども、ルカでは、足の釘跡をお見せになったのか、それとも、弟子たちが「幽霊だと思った」というので、「幽霊には足がないけれども、私にはある」ということでしょうか。

そこで弟子たちは、ようやく喜ぶのです。しかし「喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がった」(41節)というのです。主イエスはさらに「ここに何か食べ物があるか」と言われます(41節)。

そこで弟子たちは、焼いた魚を差し出すと、主イエスは、それを取って、彼らの目の前で食べられたというのです。幽霊ではなく、本当に、肉体をもって復活されたのだということを告げようとされたのでしょう。

この出来事は、エマオでの出来事と長さこそ違いますが、形式はよく似ています。

つまり、復活のイエスが現れ、弟子たちは、彼をそれとは認めなかったこと、そこで彼らは不信仰を叱責され、食物が差し出され、彼らは驚きと喜びの反応を示すのです。ただしエマオの物語では、主イエスが弟子たちに聖書を教えることが先にありましたが、こちらの話では、この後に出てきます(44~47節)。

そのように形式は共通するものがありますが、言おうとしていることは異なります。本日のほうのテキストでは、「復活の主は肉体をもって現れた」ということを言おうとしているのです。

(4)復活と霊魂不滅は違う

聖書は、復活をどうとらえ、どう語るのか。それはギリシア世界の「霊魂不滅」のようなこととは異なっています。それは体を伴った復活だというのです。

主イエスが、自分が肉体をもって復活したことを証明するために差し出したり、皆がいる前で魚を食べたりして見せたことは、二つのことを印象的な仕方で示しています。

それは第一に、キリスト教の信仰は、ギリシア世界の霊魂不滅の見方とは違うということです。つまり、ギリシア世界では、魂あるいは霊と言うものが最初から存在していて、生まれる時にそれが体に入って、死ぬ時に神に帰るようなこと、人間の命の不滅の要素が存在するとは考えていないということです。むしろ、福音は、主イエスが本当に死んだ後で、神さまは主イエスを死から復活させたと教えるのです。私たちの希望は、〈福音の中心〉となるこの事柄を肯定することによって養われていくのです。

ルカはここで、他の一般的な人間の復活については語ってはいませんが、永眠者記念日である本日、そのことも、あわせて考えてみたいと思います。

(5)身体のよみがえりを信ず

死んだ後で「体をもって復活をする」ということは、私たちにもわかりにくいことです。

キリスト教会が代々受け継いできた信仰告白である「使徒信条」の中に、「われは……身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」というフレーズがあります。「永遠の生命を信ず」というのは、魂のこととして、何となく信じられるけれども、「身体のよみがえりを信ず」というのはわからない、受け入れられないという方は多いのではないでしょうか。「それは物理的にありえないことだ」と。確かに死者の復活は科学で証明できるものではありません。「私は科学者だから、復活など信じない」という人もあります。実は、死んだ人が復活するというのは、当時の人々にとっても大きなつまずきでありました。

パウロがアテネを訪ねた時のこと、アテネの人々は、珍しいパウロの話を興味深く聞いていましたが、最後にはこうなりました。

「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」使徒17:32

この反応は一般的な日本人の反応に似ているのではないでしょうか。「キリスト教はいいことも言っているけれども、復活は受け入れられない。」

(6)愚かな人だ

パウロも、復活のことを一生懸命伝えようとしました。パウロが復活について詳しく述べているのは、第一コリントの15章です。そのままお聴きくださってもいいですが、よかったらお開きください。コリントの信徒への手紙一15章、新約聖書の314~315ページです。

まずイエス・キリストの復活から語り始めました。3節以下を読みます。

「最も大切なこととしてあなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロ)に現れ、それから十二人に現れたことです。」Ⅰコリント15:3~5

そしていろんな人たちの上に現れて、「最後に、自分にも現れた」と語りました。

少し飛ばして、「キリストが死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(同12節)と問い、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(13節)と述べ、キリストの復活と、他の普通の人々の復活が関係あるのだということを示そうとします。そして、「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました」(同20節)と、高らかに宣言するのです。

しかしパウロは、これを聞いた人たちの疑問、つまずきを想定しています。35節です。

「しかし、死者はどのように復活するのか、どのような体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。」コリント一15:35

「そう、そこが聞きたかった」と思う人もあるでしょう。しかしパウロは、その問に対して、「愚かな人だ」と一蹴するのです。

「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を与えられることはありません。あなたが蒔くものは、後にできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は御心のままに、これに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」コリント一15:36~38

当時は、種が地面に落ちて、そこから芽が出ることは「復活」と捉えていました。ですから、主イエスも「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)と言われました。

(7)パウロの復活論

パウロは、人間の肉、獣の肉、鳥の肉と、それぞれ違うという説明し、天上の体もあれば、地上の体もあるとも言います。いろんな体があるのだと。そしてこう言うのです。42節。

「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活し、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです」コリント一15:42~44

言葉を変えながら、それをいろいろと論証しているようですが(36~49節)、これら一連の言葉は、現代人の私たちが期待する現象の説明にはなっていないように思います。では、「愚かな人だ」と言うパウロのほうが、現代人の私たちよりも愚かなのでしょうか。

いや実は、パウロは、「そんなこともわからないのか」と言って、相手を煙に巻くのではなく、むしろ、やや開き直って「そんなこと、わかるわけがないではないか」と言っているのではないでしょうか。

つまり復活の後の世界は、私たちが想像しうる領域をはるかに超えているということです。死者の復活を説明する語彙も知識も、私たちは持ち合わせていないので、所詮それは無理な話だということです。そこでは私たちの「ものさし」では測りきれないことが起こる。

だから、たとえという形で、はるかかなたをぼんやりと映し出すような説明しかできないのです。それゆえに、「神は、御心のままに、これに体を与え」られる(コリント一15:38)ということこそが一連の応答の要点と言えるでしょう。それは、その当時から二千年経った今も、本質的には同じことでしょう。

私たちにはそれがどういう体であるかわからないけれども、「今よりはるかにまさった体が与えられる」という約束が与えられているのです。私たちはそれで満足すべきであり、同時にそれで十分なのではないでしょうか。

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