2026年8月2日説教「平和、寛容、誠実」松本敏之牧師
イザヤ書32:15~20
ガラテヤの信徒への手紙5:13~26
(1)熊本地震
7月28日に、熊本で大きな地震がありました。鹿児島でも少し揺れましたが、熊本ではとても大きな被害が出ていることがニュースなどで報道されて、あとで大変な地震であったことを知りました。日本基督教団九州教区でも、熊本地震救援対策本部が立ち上げられ、活動が始まったようです。日本基督教団でも、ホームページで熊本地震救援対策委員会が立ち上げられたことが出ていました。私たちも、その動向を注視しながら、できることをしていきたいと思います。募金なども始まるのではないかと思います。
(2)日本基督教団・在日大韓基督教会「平和メッセージ」
さて、日本では8月は平和を祈る月として定着し、日本基督教団でも8月第一日曜日を平和聖日と定めています。また鹿児島加治屋町教会では、この日に鹿児島ユネスコ協会との共催で、礼拝後に「平和の鐘を鳴らそう」というプログラムを組んでいます。
鹿児島加治屋町教会では、年度初めに、その年度の年間主題を定め、週報の表紙に記しておりますが、今年度は「主よ、守りたまえ、平和を」という主題を掲げました。この言葉は、私の説教で歌います「このこどもたちが」という賛美歌(371番)の1節の最後のフレーズです。またこの平和聖日礼拝において、年に一度、日本基督教団の「戦責告白」(第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白)を唱和するようにしています。
さて毎年、日本基督教団と在日大韓基督教会は、平和聖日にあわせて、「平和メッセージ」を発表していますが、今年のメッセージが、日本基督教団のホームページに出ていました。在日大韓基督教会との共同メッセージですので、とりわけ日本国内の外国人の人権の問題を大事にしていることが一つの特徴かと思います。本文は、詩編65編6節~9節の引用に続いて、本文は〈隣人を自分のように愛しなさい〉〈コリアン・ジェノサイド〉〈情報過多時代〉〈戦争への道〉〈祈り-それでも、わたしたちは生きる〉という5つの部分から成り立っています。今日はその中から、その中から、〈隣人を自分のように愛しなさい〉と〈戦争への道〉、そして最後の〈祈り〉の部分を、朗読して共有させていただきたいと思います。
(3)〈隣人を自分のように愛しなさい〉
ヘイトクライムのひとつである排外主義は、現政権(2025年現在)において、その様相を国家的レベルで増幅していると言えます。2025年度末で在留外国人数は400万人を超えています。その多くはアジア地域からの移住者です。また海外からの観光客も増えています。この国の暮らしは、様々な背景を持った人びとによって彩られています。しかし、その彩りを単色に塗りつぶす力は一層強くなり、「外国人」を排除しようとする現政権の心中が透けて見えるような出入国管理及び難民認定法改悪は、排外主義を人びとの心の中に植えつけようとする意図が垣間見られます。さらに国旗損壊罪は、誤謬の上にある国旗が排外主義を心の奥に刻印する役割を果たすでしょう。このような世にあって、主イエス・キリストが最も大切だと諭した掟である「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12:31)を強く我が身に刻むのみです。
(4)〈戦争への道〉
世界中で戦争が絶えることがありません。ある日突然、他国を攻撃することに徐々に慣れてしまっている世に、強い危惧と恐怖を覚えます。攻撃の先で多くの無辜の人びとの命が奪われ、暮らしを破壊されているのです。しかし、これは平和憲法を持つわたしたちにとって、対岸の火事のようなことではありません。この国は、戦争の出来る国へと、あからさまに動こうとしています。
現政権は高支持率を背景に憲法改正を明言しています。国家の暴走を抑止する憲法から「国民」を拘束する憲法へと、憲法のあり方を根幹から変えようとする姿勢は、平和憲法の象徴である9条のなし崩し的な解釈変更と言える、殺傷能力のある武器輸出の決定からもうかがい知れます。あるいは、国家情報局を内閣に設置しようとする動きは、戦争に反対する声を封じ込めることを容易にします。
今こそ、断固として戦争に反対する道を平和の主と共に歩まねばなりません。
(5)〈祈り — それでも、わたしたちは生きる〉
主よ、傲慢なわたしたちは、あたかもこの世界を支配できる者のように振る舞い、隣人を蹴落とし、友を谷底に突き落とし、仕方ないとうそぶいて、あなたを欺いて生きる者です。しかし、それでもわたしたちは、「あなたのしるし」(詩編65:9)の前であなたによって生かされた命を生きる者です。どうぞ愚かな私たちに、あなたの美しい喜びの歌を響かせてください。
わたしたちは、あなたの美しい歌を共に歌い、踊り、食し、笑い、泣き、寄り添い、愛することを求めます。不安な夜を過ごす者たちに、あなたのぬくもりが届くように、わたしたちは祈り願います。あなたが必ず、わたしたちの祈りを聞き入れてくださることを信じる者とさせてください。
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この「平和メッセージ」、クリスチャンらしい視点で大事なことを訴えていると思います。他の部分も、各自でぜひ読んでいただきたいと思います。
(6)肉と霊
さて、私たちはガラテヤの信徒への手紙を続けて読んでおります。今日の箇所で14回目です。この第5章と第6章は、第三部としてキリスト者の倫理、つまりイエス・キリストによって新しくされた者はいかに生きるべきかということについて語っています。その中でも13節、14節は、キリスト者の倫理として非常に重要な言葉です。
「きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされているからです。」5:13~14
「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、先ほどの平和メッセージの中にも出て来ました。旧約聖書レビ記19章18節の引用です。この後、16節以下で述べられることの原則が、すでにこの言葉の中にあらわれています。パウロは、13節で「肉を満足させる機会とせず」という言葉を使っていますが、16節以下にも繰り返し、「肉」という言葉が出てきます。
「私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」5:16
誤解のないように申し上げておきますと、パウロがここで「肉の欲望」と言っていますのは、いわゆる肉欲、つまり性的欲望のことではありません。パウロは「肉」という言葉を、「霊」と対立するものとして用います。17節ではこう言うのです。
「肉の望むことは、霊に反し、霊の望むことは、肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」5:17
「肉」というのは、神さまから離れた人間の、自己中心的な衝動のようなものです。それに対して「霊」というのは、反対に、神さまに私たちを従わせる原動力のようなものです。神さまに向かっていくように私たちを導く力が「霊」で、それに背いて離れさせようとする力が「肉」と言ってもよいかも知れません。
パウロは、この「肉」に従って生きるとどうなるか、逆に「霊」に従って歩むとどうなるかということを、19節以下と22節以下に、二つのリストにしています。しばしば前者が「悪徳表」、後者が「徳目表」と呼ばれます。それぞれ少し見てみましょう。
(7)肉の行い‐悪徳表
まず「肉の行い」の方は、全部で15の事柄があげられています。これは大体4つに分類できるように思います。
第一のグループは、「淫行、汚れ、放蕩」という、いわば性的な事柄です。
第二のグループは、その次の「偶像礼拝」と「魔術」の二つです。これは、宗教的な事柄にかかわっています。偶像礼拝とは、まことの神を神として拝まずに、自分で作った神を拝むことです。人間は自分に都合のいいような神を作って、それを拝みたがるものです。しかしながらそれは本末転倒である。そんなところに本当の神はいない。聖書は旧約以来、そのことを何度も何度も語っています。「魔術」というのは、手品やお楽しみのマジックが戒められているわけではありません。それよりも何か不思議なことを見せて、あたかもそれが神さまの力であるかのようにだまして人を引き寄せることです。そういう意味では宗教はこれに多々かかわることがあります。
第三のグループは、そのあとの8つ、「敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、ねたみ」と列挙されています。量からしても、内容からしても、パウロはこれが一番の問題であると考えているように思われます。ここにあるのは、人をおとしめて、自分中心に生きようとする事柄すべてであると言えるでしょう。それは、当時のガラテヤ教会の中にもあったことでしょうし、今日の世界、そして教会の中でも起こることです。
もちろん、このことは、全くお互いに批判してはならないということではないでしょう。建設的な批判をし合い、お互いに高め合うのは、大切なことです。しかし何が批判であって、何が非難であるかというのは、実際には紙一重であり、なかなかデリケートです。しかしながらこのようなところでこそ、先ほどの13節、14節のところにあった言葉、「愛をもって互いに仕えなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい」と言う言葉を、常に覚えておかなければならないでしょう。
第四のグループは、「泥酔」、「馬鹿騒ぎ」があげられています。お酒を飲むことそのものが禁じられているわけではありません。何か言い訳をしているようですが、確かにそうなのです。お酒に酔っぱらって、むちゃくちゃなことをすることが戒められているのです。日本ではお酒を飲んだ時は、何を言っても何をしても許されるというような風潮がありますが、そんなことはないと思います。いくら酒を飲んでいようとも、自分の言動には責任がついてくるものです。
さて、こういうふうに説明するだけでもつらくなるような罪のリストというのがここで語られていますが、そういうふうに肉の行い列挙したあとで、今度はそれに対比させて、「霊の結ぶ実」を列挙しています。
(8)霊の結ぶ実‐徳目表
この「霊の結ぶ実」の方は、全部で9つ掲げられています。こちらは「肉の行い」のようにきっちり分類するのは難しいのですが、それでもこの九つを三つずつ位に分類できるかも知れません。
第一は、「愛、喜び、平和」です。これは、神様から与えられる賜物そのものです。「愛」は5章に入ってから繰り返し語られてきましたが、その愛自体が賜物、霊の結ぶ実りです。それは、喜び、平和と並べられていることで、より明確になっていると思います。
第二のグループは、「寛容、親切、善意」の三つです。これは人とどのように接するかということです。第一のグループが神さまから与えられた心の状態であるとすれば、この第二のグループは、それをどう人に示していくかということではないでしょうか。悪徳表の、「敵意、争い、嫉妬」などの項目の反対の事柄がここで挙げられています。
第三のグループは、「誠実、柔和、節制」です。誠実、柔和、というのは、第二グループの「人とどう接するか」の続きという面もありますけれども、むしろその人自身の人格にかかわる事柄が、ここに列挙されていると言えるのではないでしょうか。
(9)自由をいかに用いるか
今日は、平和聖日にちなんで、先ほどの霊の結ぶ実の徳目表から「平和、寛容、誠実」という説教題にしました。これは、先ほどの分類の三つグループから一つずつを選んで並べたものです。第一の、神様から与えられる賜物から、「平和」を掲げました。これは本日、特に大事にしたいと思いました。二つ目の「寛容、親切、善意」、すべて大切ですが、特に平和ということを考える時には、寛容な精神を持つことが求められると思います。私たちはお互いに許し合って、受け入れ合う寛容の精神を持つことこそが平和を維持する上で大切なことでしょう。三つ目は自分自身の態度です。「誠実、柔和、節制」、これもどれも大切ですが、相手に対しても、自分自身に対しても、誠実であり続けることが大切です。柔和さも保ち、節制に務めること。節制というのは、インターネットで調べると、「欲望や行動が度を越さないように控えめにして、ちょうどよい状態を保つこと」とありました。この節制というのは個人のレベルにとどまらず、国家レベルでもそうです。武器のためにお金を使うことは節制とは真逆のことではないでしょうか。
パウロはこう言いました。
「きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせずに、愛をもって互いに仕えなさい。」5:13
私たち人間はそのままでは自分の罪の縄目にがんじがらめにされているものであります。そのことに本人が気づいて、悩み苦しんでいる場合もありますし、気づかないで平気で生きている場合もあるでしょう。パウロは、「自由には明確な目的がある」と言います。それは「互いに仕えあう」ということを選び取るということです。
私たちは、自分に与えられた自由というものを、自分のために、あるいは自分の欲を満たすために用いるのが一番得であるように思いがちです。しかしそう思い始めた瞬間に、私たちは知らないうちに、逆に別の何かの奴隷になり始めているのではないでしょうか。私たちは、自分の自由というものを完全に自分でコントロールできるほど、大きなものではありません。「自由はひと(他人)のためにこそ用いるべきである」という示唆は、そうした私たちの浅はかな考えを超えて、実に聖書ならではの、うがった物の見方であるように思います。どう行動すべきか判断を問われる時に、神さまが確かな道しるべを備えてくださる。そのように神さまとつながっている時に、そのように霊に導かれようとする時にこそ、私たちはその自由というものを、それに振り回されないで、本当に生かすことができるのだと思います。