2026年9月13日説教「女たちの証言」松本敏之牧師
イザヤ書41:10
ルカによる福音書23:56b~24:12
高齢者祝福礼拝
本日の礼拝は、高齢者祝福礼拝として守っています。鹿児島加治屋町教会では、75歳以上の方々をお祝いの対象としています。75歳以上の皆様、これまでお元気で過ごしてこられたこと、おめでとうございます。
私も68歳になりました。教会の世界では、まだまだ中堅だと思っていますが、世間ではもう高齢者の部類に入ります。電車やバスに乗ると、率先してシルバーシートに座るようにしています。若い人に一般席を譲るためです。髪の毛も真っ白ですので、誰も何も言いません。イザヤ書46章にこういう言葉があります。
「母の胎を出たときから私に担われている者たちよ。
腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。
あなたが年老いるまで、私は神。
あなたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。」イザヤ46:3~4
いい言葉ですね。ただ「白髪になるまで、私は背負う」とありますが、「白髪になってから」がまだ長いような気もしますので、「神様、『白髪になるまで』だけではなく、その後もよろしくお願いします」という気持ちです。今日は、後ほど(説教の後半で)、80歳と、同年配の二人の女性を主人公にした「秋が来るとき」という映画の話をしたいと思っています。
(2)途方に暮れる女たち
さて、ルカ福音書を続けて読んできましたが、本日から、いよいよ最後の24章に入ります。イエス・キリストの復活物語です。ルカ福音書は、マタイ福音書やマルコ福音書同様、主イエスは登場しないで、最初は「空っぽのお墓」の話として描いています。その第一発見者は女たちでした。彼女たちは、イエス・キリストが息を引き取ったことも見届け、そして墓に埋葬されたことも見届けました。そして安息日が始まる前に、安息日が明けた後のお墓参りの準備として、香料と香油を準備しました。そして安息日には戒めに従って休みます。そして24章はこう始まります。
「そして、週の初めの日、明け方早く、準備をしておいた香料を携えて墓に行った。すると、石が墓から転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」ルカ24:1~2
彼女たちは、主イエスの御遺体が臭くならないように、最後の奉仕をするつもりでお墓に行ったわけですが、その遺体が見当たらず、しようと思っていたことをすることができません。ルカは、その時の彼女たちの様子を「途方に暮れていると」と表現しています。彼女たちの戸惑いが感じられます。「ご遺体が盗まれたのだろうか。」そこへ「輝く衣を着た二人の人」がそばに立ちました(4節)。彼女たちは恐れて、地に顔を伏せました。これは、「神々しいものにふれた時の恐れであり、同時に光を避ける様子でもあるでしょう。二人の人は言いました。
(3)主イエスの言葉を思い出す
「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにおられない。復活なさったのだ。」ルカ24:5~6
確かに彼女たちは「死んだイエス様」を捜していました。香料と香油でご遺体の処置をするためでした。彼女たちは主イエスが復活なさったことは全く予期していなかったのです。二人の人は続けて言いました。
「まだガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい。人の子は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われたではないか。」ルカ24:7
その言葉を聞いて、彼女たちは主イエスの言葉を思い出したのでした(8節)。
これらの言葉から思うことが二つあります。一つ目は、いくら空っぽのお墓を見ても、彼女たちは自分から、主イエスが復活したことを悟ることはできなかった。ただ「途方に暮れる」ことしかできなかったということです。そして二つ目は、その壁を突き破ったのは、外から聞こえてくる言葉であったということです。それも、かつて自分たちが経験したことを思い起こさせるという形でした。根となる経験はすでにあったのです。
(4)林伊佐夫さんの証
私は、7月12日の礼拝で、林伊佐夫さんが証してくださったことを思い出しました。林さんの証の文章は、来週発行の「からしだね」に掲載されますが、こういう言葉でした。
「やがて社会人となり、仕事も順調でいいスタートが切れたと思っていましたが、ある時失望のどん底に突き落とされるような体験をしました。そのようなある朝、耳元で突然『ただ信じなさい』というささやくような声が聞こえてきました。なんとそれは子どもの頃何度も聞いていた老牧師の声でした。驚きましたが、これが人生のターニングポイントとなりました。
次の日曜日、近所の教会『堺大浜キリスト教会』の礼拝に初めて導かれました。驚くことにその日のメッセージは、私の心を見透かしたような説教でした。『私はあなた方のために立てている計画をよく知っているからだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ』(エレミヤ29・11)というお言葉でした。
昔、牧師の説教など聞いていなかったと思っていたにも関わらず、お言葉は耳の中に生きていたのです。そして、この試練は神様から与えられた、素晴らしい祝福であるという事に気付きました。さらに、その背後には多くの皆様の熱い祈りがあった事を感謝いたしました。」
これは、主イエスの空っぽのお墓の前で、彼女たちが経験していることに似ていると思います。私たちがすでに過去に聞いたこと、しかしすっかり忘れていたことを思い出す形で、はっとさせられることが起きるのです。しかも自分からではなく、何かしら外からの促しによってです。林さんの場合は「ただ信じなさい」というかつての老牧師の声によって、それが呼び覚まされました。聖書のこの物語では、「輝く衣を着た二人の人」の言葉によって、それが呼び覚まされました。そこで思い出したのです、かつて語られた主イエスの言葉を。彼女たちの心は熱く燃えたことでしょう。
信仰は、そして信仰のリバイバルは、しばしばそのようにして起こります。皆さんの中でも、特に高齢になられた方々は、そのような経験をなさることがあるのでしょうか。子どもの頃、若い頃に聞いた聖書のお話が、あるいはかつての牧師の言葉が、ふと呼び起こされて信仰が新たにされるのです。
(5)最初の復活の証人となった女たち
「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいたほかの女たちであった。女たちはこれらのことを使徒たちに話した。」ルカ24:9~10
彼女たちは、そのようにして主イエスの復活の最初の証人となりました。ルカが、ここでわざわざ3人の名前をあげているのは、それが真実であったことを示そうとしているのでしょう。
「しかし、使徒たちには、この話がまるで馬鹿げたことのように思われて、女たちの言うことを信じなかった。」ルカ24:11
使徒たちが信じなかったのは、それが女の言うことだったからでしょうか。それとも、その内容のせいでしょうか。恐らく、その両方でしょう。これは次回の箇所の伏線となります(24:22~23)。しかしただ一人、ペトロは見に行ったことが記されています。
「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」ルカ24:12
さてルカは、主イエスの復活物語を、そのように書き始めました。ルカはマルコ福音書を下敷きにしながら、自分独自の視点でそれを書き直しています。ルカの復活物語で有名なのは、次回と次々回に語りますエマオ途上のキリストの物語だと思いますが、今日の箇所はそれの伏線となっているようです。
(6)マグダラのマリア
四つの福音書は、どれも復活の最初の証人が女性たちであったということを語ります。それぞれに名前が違うのですが、共通して登場する人が一人います。それがマグダラのマリアです。マタイ福音書では、「マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(マタイ28:1)となっています。マルコ福音書では「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」(マルコ16:1)となっています。
中でも、特別な書き方をしているのはヨハネ福音書です。ヨハネ福音書では、こういう書き方です。日曜日の朝早く、マグダラのマリアは一人でお墓へ行きます。そうすると、墓から石が取りのけられていたので、急いでペトロのところへ報告に行きました。すると、ペトロともう一人の弟子が急いで見に来るのですが、遺体はなくなっていて、亜麻布だけがありました。そして帰って行きました。しかしマグダラのマリアだけはそれでも諦めきれずに、お墓の前へ舞い戻るのです。そこへ主イエスがうしろから声をかけられます。「女よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:13)と。まだ続きますが、これ位でいいでしょう。
このマグダラのマリアとは、どういう人物であったのでしょうか。さまざまな説がありますが、実際のところ、よくわかりません。「ダビンチ・コード」という映画では、「イエス・キリストと結婚をし、子どももいた。つまり主イエスが十字架にかけられた時には、すでに妊娠をしていた」ということになっていますが、さすがにそれはないようです。でも主イエスにかなり近い存在であり、主イエスの死後も(十字架と復活、昇天の後も)、特別な働きをした人物であったということは、恐らく事実としてあるようです。
聖書の中では、ルカ福音書8章の冒頭に、こう記されています。
「その後、イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気を癒してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスザンナ、その他の多くの女たちも一緒であった。」ルカ8:1~3
ここに「七つの悪霊を追い出してもらった」女として描かれています。これが何を意味するのかは、はっきりとはわかりませんが、何かしらの精神疾患であったのかもしれません。
ルカ福音書8章のこの記述の直前、7章36節以下に、「罪深い女を赦す」というエピソードが記されています。これが前後で続いていることもあって、昔から、この罪深い女(恐らく元娼婦)とマグダラのマリアを同一視するという理解がありました。それは否定されるべきもの、初代教会において、マグダラのマリアが女性のリーダーとして高い地位を得ていく中で、むしろ彼女を貶めるために、そのように扱われてきたとも言われます。一方で、そのようなマリアであればこそ、そこに慰めを見出してきた人々がいるというのも事実でしょう。
(7)映画「秋が来るとき」
最初の少し触れました「秋が来るとき」という映画の中でも、そのように(マグダラのマリアと罪深い女が同一人物として)描かれています。これはフランソワ・サガンというフランス人の監督が2024年に作成した映画です。80歳になるミシェルという女性と彼女の親友マリー=クロードという親友の女性の物語です。彼女たちは、昔、生きるために娼婦をしていたことがあるのです。季節は秋、キノコ狩りのシーズンですが、「人生の秋」という意味も重ねられているのでしょう。
冒頭でいきなり主人公のミシェルがカトリック教会のミサに与るところから始まります。神父は、そこでルカ福音書7章の罪深い女の話をし、その女性こそ、マグダラのマリアであったと語ります。神父は聖書の物語をこう語ります。
「女はイエスの居場所を知り、香油を持って訪れた。そして涙を流しながらひざまずき、イエスの足を涙で濡らし、髪の毛で拭いながら何度も口づけする。そして香油を注いだ。
この様子を見ていたパリサイ人はこう思った。『もしこの男が預言者なら、罪深き女だと、きっと見抜くはずだ。』だがイエスは言った。『あなたは私の足を洗おうとしなかったが、彼女はあふれる涙で洗い流し、髪で拭ってくれた。それで彼女の犯した数々の罪は赦される。』愛する術を知っているから。」最後にこう付け加えました。「その女がマグダラのマリアです。」そして聖体拝領(聖餐式)に移ります。ミシェルは、そこで「これはキリストの体です」という神父の言葉を聞きながら、大きな慰めを受けるのです。
(8)映画のあらすじ
この映画は、来週発行の「からしだね」に紹介文を載せていますが、少しご紹介しましょう。
「舞台は、フランス・ブルゴーニュ地方の美しい田舎。80歳のミシェルはひとり住まい。近くには『元仕事仲間』(つまり娼婦)の親友マリー=クロードがいます。ミシェルの一人娘のヴァレリーはパリのアパートに息子のルカと共に住んでいますが、母を嫌っている。母親のミシェルは、ヴァレリーを育てるために、仕方なく娼婦をしていたのですが、そのことを娘のヴァレリーは受け止めきれずに、毛嫌いしていたのです。
その娘が久しぶりに孫と共に自宅にやってくることになり、ミシェルは彼らをもてなすべく、森でキノコを採ってスープを作ります。しかしヴァレリーは突然発作で倒れ、救急車で病院へ運ばれてしまいます。それが毒キノコだったのでした。故意ではありませんでしたが、ヴァレリーは退院後、実家に近寄らなくなってしまいます。
一方、マリー=クロードの一人息子ヴァンサンが刑務所から出所するというので、ミシェルは一緒に出迎えに行きます。ヴァンサンを小さい頃からよく知っているのです。家族ぐるみの付き合いでした。ヴァンサンは、出所後、ミシェルの家や畑で仕事をするようになります。
あるとき、ヴァンサンは幼馴染のヴァレリーがミシェルを避けていることを知り、パリのアパートまで「それはよくない」と、諭しに行く。しかし口論となり、ヴァレリーは誤ってベランダから落ちて死んでしまいます。ヴァンサンは恐ろしくなって、こっそり帰って行きました。自死ということで、事件にはいたらず、収まります(実際は事故でしたが)。
殺人が疑われる状況で、マリー=クロードは、息子がヴァレリーを訪問したことをずっと秘密にしていました。マリー=クロードは、最後の最後、死の床でそのことをミシェルに告白するのです。ミシェルも知らない事実でした。そしマリー=クロードは、自分の人生を振り返ってこう言いました。「私たちは子育てに失敗したのかしら。良かれと思ったことが裏目に出る。」それに対して、ミシェルはこう答えます。「良かれと思うことが大切よ。」彼女たちは、世間からは後ろ指を指され、娘からは嫌われながらも、良かれと思うことを精一杯やって生きてきたのでした。
マリー=クロードの葬儀には、元の仕事仲間、派手な装いの老婆たちが大勢参列しました。神父はこう語りました。
「マリー=クロードの人生には光と影がありました。善悪の判断はしません。神も審判はくだしません。神の考えはただ一つ、我々を救うこと。思い出のすべてが祈りの言葉となるのです。彼女を想うと、思い出が脳裏に浮かびます。」
マリー=クロードの葬儀での神父の言葉は、映画冒頭のミサでの説教の言葉に響き合います。実際のマグダラのマリアがどうであったかはわかりません。しかし、マグダラのマリアは、自分の人生を振り返り、主イエスに7つの悪霊を追い出してもらったことなどを思い起こし、感謝の思いで、主イエスのお墓に向かったことでしょう。
私たちも、高齢になって、自分の人生を振り返ってみると、さまざまな思いが脳裏をよぎります。「あの時、こうしておけばよかった。」「なんであんなことをしてしまったのだろうか」と思い起こすこともあります。映画の中の神父の最後の言葉、「思い出のすべてが祈りの言葉となるのです」という言葉が心にしみまるのではないでしょうか。