2026年6月28日説教「父よ、彼らをお赦しください」松本敏之牧師
哀歌3:22~24
ルカによる福音書23:32~34
(1)されこうべ、ゴルゴタ
ルカ福音書によって、イエス・キリストの受難の記事を続けて読んでいます。今日のところは、いよいよ十字架につけられるところから始まります。
「ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」ルカ23:32~33
この二人の犯罪人のことについては、次回の箇所(39節以下)で、取り上げたいと思います。「されこうべ」という場所の名前は、マタイ福音書やマルコ福音書では「ゴルゴタ」となっています。これはアラム語の「グルゴーレット」に由来していますが、ルカ福音書では、「されこうべ」という意味のギリシア語で記されています。ラテン語ではカルヴァリとなります(英語でもそうです)。当時、エルサレムの城壁の外のかつての石切場であったようです。それが丘のような地形であったことと同時に、石を切り取った後が、されこうべ(頭蓋骨)のように見えたのかもしれません。なぜそう呼ばれるようになったのかはわからないようです。今の「聖墳墓教会」のあるところがその場所だと言われます。
(2)括弧に入れられた言葉
その後で、主イエスの有名な祈りが記されています。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」ルカ23:34a
これは、謎に満ちた言葉です。しかし私たちの心をとらえる言葉です。実は、聖書の重要な写本の中には、この言葉が欠けているものもあります。聖書協会共同訳聖書でも、新共同訳聖書でも、この23章34節の前半は、最初の福音書にはなかったかもしれないものとして括弧に入れられています。そうしたあやしい言葉の多くは、聖書協会共同訳聖書でも、新共同訳聖書でも、本文から外されて、その福音書の末尾に記されているものが多いのですが、この言葉は、どうしてもそういう扱いをすることができなかったのでしょう。
「この言葉はどうしてもイエス様の言葉としてはずすことができない。」私もそう思います。「私の信仰も、この言葉の上に立っている」と言っても過言ではないほど重要なものです。もっとも、たとえイエス・キリストが、この言葉をそのまま語られなかったとしても、私の信仰が変わるわけではありません。なぜなら、イエス・キリストの生涯全体と十字架の姿そのものが、そういうイエス・キリストの執り成しを示しているからです。
(3)誰かが削除したか、誰かが挿入したか
ではどうして、この言葉がある写本とこの言葉がない写本があるのでしょうか。それは、もともとあったのに、誰かがそれを省いてしまったか。あるいは逆に、もともとなかったのに、誰かがそれを挿入したか。そのどちらかです。私は、両方の可能性があると思います。
もしもこの言葉が最初の写本にあったのだとすれば、十字架の上でイエス・キリストがこういう祈りをされたということが、理解できなくて省いてしまったと考えられるでしょう。どうして省いたのか。第一に、「わからなかった」と言って、その罪が赦されるのかと考えた人がいる。日本でも、「ごめんで済んだら警察はいらない」という言葉があります。特に人を殺してしまうような罪はそうでしょう。第二に、「イエスを十字架にかけたのはユダヤ人たちである。それはそう簡単に赦されるわけがない。そんなユダヤ人たちのために、イエス・キリストがこんな祈りをなさるはずがない」という反ユダヤ主義的な考えがあった。
またある人々は、逆に、この祈りは後から付け加えられたと推測します。なぜかと言えば、イエス・キリストを十字架にかけたのは、(ユダヤ人の祭司長たちだけではなく、)ローマの兵隊たち、ローマの総督ピラトでもありました。ルカ福音書が書かれたのは、異邦人伝道がなされていた頃です。そこで、「ユダヤ人たちは意識的にイエス・キリストを十字架にかけたけれども、異邦人たちはまだよく分かっていなかった。無知であったために、仕方なく、イエス・キリストを殺してしまうことをしてしまった。それはイエス様も大目に見てくださるだろう」。そうしたことから、この祈りが挿入されたと推測するのです。
今、幾つかの解釈を紹介しましたが、それはそれだけこのイエス・キリストの祈りを理解することが困難であったということの表れであるとも言えるでしょう。
(4)イスカリオテのユダのこと
主イエスの「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」という祈りには、どういう意味があるのでしょうか。
それは何よりもまず、自分で気づいていないことの中にも罪が存在するということです。ピラトは裁判の折り、恐らく自分が何をやっているのか、本当のところ、よくわかっていなかったでしょう。仕方なく開いた裁判でした。何とかして主イエスを赦そうとした人でした。しかしそのことは言い逃れにはならない。ローマの兵隊たちも、この時、ただ任務を遂行していただけです。「いやな仕事だなあ。早く終わらないかなあ」と思った者もあるかもしれません。しかしそれが罪なのです。無知と無関心と優柔不断。そして自分の関心事に目を奪われること、まさにそのことによって、イエス・キリストは十字架にかけられていくのです。
それらと同時にいつも私が思い起こすのは、イスカリオテのユダのことです。そしてイスカリオテのユダについて考えるということは、取りも直さず、私たち自身について考えるということでもあります。ユダは、イエス・キリストの十二弟子の一人に選ばれながら、やがてイエス・キリストを裏切り、売り渡してしまいます。彼のしたことは、ほんのささいなことでしたが、その結果起こってしまう事はとても重大なことでした。
彼自身、その重大さ、深刻さに耐え切れず、後悔のあまり自死してしまいます。自分で滅びの道を突き進んでいったような人物です。新約聖書の中でも、最も謎に満ちた人物でしょう。このイスカリオテのユダは、永遠の滅びの中に、葬り去られたのでしょうか。このようなことは、最後に神が決定されることであり、私たちが不用意に、勝手に、何かを言うことは許されていません。誰が救われて、誰が滅びるかなどということは、ただ神様の御手の中にあり、神様の御旨に隠されたことと言ってもよいでしょう。安易に語ることは許されていないでしょう。
ただ、ひとつ言えることは、主イエスは十字架の上で、イスカリオテのユダのためにも祈られたということです。言いかえれば、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか、分からないのです」という祈りの「彼ら」の中にはイスカリオテのユダも含まれているのだと思います。
このユダは、十二弟子の一人として、最後の晩餐に連なり、イエス・キリストによって足を洗われました。イスカリオテのユダも、主イエスの差し出されたパンとぶどう酒を受け取り、いただいたのです。私は、このユダがそこから洩れていなかったからこそ、私も洩れていないと、確信することができる。このユダのためにも祈られたからこそ、私のためにも祈られたと、信じることができるのです。それは、ここにいる誰ひとりとして、そこから洩れることはないということを示しています。
私は、このイエス・キリストの祈りが届かない世界がある。このイエス・キリストの祈りが空しく終わることがある、すなわちこの祈りをもってしても償えない罪がある、と考えることはできない。そう考えるとすれば、そう考えること自体、十字架を低く見積もることであり、不信仰であると思います。
この最後の主イエスの祈りの射程は、私たちすべてを包み込んでいるということを思い起こしたいと思いました。
(5)万人救済説に無限に近づいて行く
私は、この「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」という言葉が、すべての罪を贖う主イエスの祈りだということから、20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトの『教会教義学』という巨大な本の中の「神の恵みの教説」を思い起こすのです。
バルトはその中で「イスカリオテのユダ」についての詳しい註を付けています。その註だけで、日本語では新書本1冊となって翻訳されています。詳しいことを述べることはできませんが、バルトは、そこで「イエス・キリストはイスカリオテのユダの罪をも引き受けている。イエス・キリストはイスカリオテのユダの滅びを引き受けている」というようなことを述べています。
ある時、誰かがこの「神の恵みの教説」について、カール・バルトに質問したそうです。「バルト先生、あなたの考えで行くと、万人救済説になってしまうのではありませんか。」万人救済説というのは、最終的にはすべての人が救われるという考え方です。英語ではユニバーサリズム、あるいは、Universal Reconciliationと言います。
それに対して、バルトはこう答えたというのです。
「万人救済説ではありません。万人救済説は神の裁きというのをあまりにも軽々しく考えています。でも万人救済説でないこともありません。」
これ、面白い(興味深い)答えですよね。
「万人救済説ではありません。でも万人救済説でないこともありません。」
これは、限りなく万人救済説を指し示しながら、それ以上は人間が言うことはできないとして、その手前でとどまっている」ということでしょうか。私の考えもそれに近いです。
私がある時、クリスチャンアカデミーの「神学生交流の集い」という会のスタッフとして、礼拝で同じような話をしましたら、講師として参加されていた新約聖書学者の青野太潮さんが、「ドイツに似たようなことわざがありますよ。私の説教・講演集にそのことを書いています」と教えてくださいました。そのドイツのことわざというのはこういう言葉です。
「万人救済説を信じないほどに愚かであってはならない。しかし、万人救済説を声高に皆の前で宣言するほど馬鹿であってはならない。」
なるほどと思います。青野太潮さんの著書のその部分には、こう書かれています。
「すべての者がゆるされ、愛されているということは私たちが何も善いことをしなくても、皆赦されている、ということです。万人救済説に近づいていくわけです。私は、万人救済説であったらいいなと、そう希望していますが、ドイツの諺に、『万人救済説を信じないほどに愚かであってはならない。しかし、万人救済説を声高に皆の前で宣言するほど馬鹿であってはならない』というような面白い言い方があります。万人救済説と言うと、皆がおしなべて救われるのだ、だから何もしなくてもよい(あるいは何をしてもよい=松本補足)、という考え方に傾きがちですが、ほんとうはもちろんそんなものではなく、もっと深い意味をもった考え方なのでしょう。いずれにしろ私は、『すでにそうである者になっていく』という、その『なっていく』ことに固執したいと思います。」青野太潮『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』p.68
(6)直接法と命令法の弁証法的統一
この「すでにそうである者になっていく」というのはわかりにくい表現ですが、青野太潮さんは、この直前のところで、「すでにそうである者になっていく」ということを、神学的に言えば、より難しい表現ですが、「直接法と命令法の間の弁証法的統一の関係」と言っています。
直接法というのは「……である」という断言、命令法というのは「……しなさい」という命令です。私なりに別のわかりやすい例で言うならば、聖書の中に「あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)という言葉があります。これは直接法です。「あなたがたは世の光である」と断言されています。しかし私たちは、その本来的な姿から離れていってしまう者です。ですから、この「あなたがたは世の光である」という直接法は、「あなたがたは世の光となりなさい」という命令法を内に含んでいると言えるのではないでしょうか。「あなたがたは元来、世の光なのだから、そのような者として生きていきなさい」ということです。そういうことが「直接法と命令法の間の弁証法的統一の関係」ということなのです。
(7)愛されている者としてふさわしく生きよ
青野さんはこう語ります。
「ですから、私たちは、条件としてではなく、愛されているからこそ、そういう者になっていく、そういう意味で悔い改めをしていく、そのような決断が問われているのだと思います。その意味で、信仰の決断ということを大切にしていきたいと思います。そんなものは、あってもなくても、皆ゆるされているのだから関係ありません、というのでは、やはりイエスが言われていることを軽く扱いすぎているのではないか、と私は思います。ゆるさてているからこそ、そのゆるしを与えてくださっている方が悲しまれるようなことはしない、そういう思いを自発的に与えられていく、そのような者になっていきたいと思います。」同書p.69
本日の聖書の言葉に即して言うならば、私たちは、どんな人についても、どんな人の罪についても、すでに主イエスが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈られている。だから「では、何をしてもよいのだ」と居直るのではなく。そのことを感謝しつつ、その本来的なものになっていく、「すでにそうである者になっていく」、つまり罪赦された者として、それにふさわしく生きていきたい」と思います。
最後に、本日お読みした哀歌の言葉に、もう一度耳を傾けたいと思います。
「主の慈しみは絶えることがない。
その憐みは尽きることがない。
それは朝ごとに新しい。
あなたの真実は尽きることがない。
『主こそ私の受ける分』と私の魂は言い
それゆえ、私は主を待ち望む。」哀歌3:22~24