2026年7月12日説教「自由を得る」松本敏之牧師
イザヤ書54:1~3
ガラテヤの信徒への手紙4:21~5:1
(1)抵抗のある話
ガラテヤの信徒への手紙を、月に一度か二度のペースで読み進めています。
皆さん、好きな聖書の箇所というのは、それぞれにお持ちであろうかと思います。それの反対は、どうでしょうか。嫌いな聖書の箇所、抵抗のある箇所というのはありますか。
実は、私にとって、今日のこの「二人の女のたとえ」というのは、そうした抵抗を感じる箇所のひとつであります。この箇所は、今日の私たちには随分わかりにくい話をしていますし、それよりもこの箇所を読む時に、私は不憫であったサラの女奴隷ハガル、そしてその息子イシュマエルに対して、さらに不憫でならない気持ちにさせられるのです。もちろんパウロの論点は、ハガルをおとしめることなどではありませんし、そんなことを考えてさえいないでしょう。そのことにつまずいて、パウロが伝えたいと願っている大事なメッセージそのものまでも、否定することにならないように注意しなければならないと思います。
パウロは、この直前の20節で、こう述べていました。
「できることなら、私は今、あなたがたのもとにいて、語調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで途方に暮れているからです。」4:20
その言葉からするならば、今日の21節以下の「二人の女のたとえ」は、何とかして相手に通じる話をしたい、そのようなパウロの「語調を変えて話す」努力のひとつ、あるいは思案の結果であると受け取ることもできます。今日の私たちにとってわかりにくい話であっても、当時のユダヤ人やユダヤ教の伝統に生きている人々にとっては、わかりやすいかどうかはともかくとして、身近な話でありました。
私たちはまず、パウロがたとえとして用いたアブラハム物語を理解し、次にパウロが何を言いたいのかを聞き、そしてその上で、この箇所を通して私が問題に感じることを述べてみたいと思います。
(2)信仰のゆらぎ
パウロはこのように始めます。
「律法の下にいたいと願う人たち、私に答えてください。あなたがたは律法に耳を傾けないのですか。」4:21
そこでパウロは、旧約聖書創世記のアブラハム物語を、たとえとして取り上げます。
「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から、もう一人は自由な身の女から生まれた、と書いてあります。女奴隷の子が肉によって生まれたのに対し、自由な身の女から生まれた子は約束を通して生まれたのです。」4:22~23
この言葉は創世記16章と21章に基づく記述です。
創世記16章には、アブラハムの最初の子ども、イシュマエル誕生の経緯が詳しく書かれていす。この頃アブラハムはまだアブラムと名乗り、妻のサラの方もまだサライと名乗っていました。
(聖書おもしろクイズで、「聖書の中で、最初にイレバをしたのは誰でしょう」というのがあります。答えは「アブラハム」。最初はアブラムでしたが、ハを入れて、アブラハムになりました。「では最初にイを取ったのは誰でしょう」。答えは「サラ」です。最初はサライでしたが、イを取ってサラになりました。)
この部分を読んでみますと、イシュマエルという子どもはアブラハム、サラ夫婦の不信仰の結果、生まれた子どもであることがわかります。アブラハムはその前の創世記15章のところで、神様から次のような大きな約束を受けていました。
「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」「あなたの子孫はこのようになる。」創世記15:5
そしてアブラハムは「主を信じた」と記されています(同6節)。ところが、いつまで経ってもその約束が実現される兆しがあらわれません。というのは、このアブラハム、サラ夫婦には子どもがいなかったからです。子どもが一人もいないのに、どうして「子孫が星の数のようになる」などということがありえようか。この夫婦はそのように考え、神さまの約束に対する信仰がゆらぎました。それで自分たちの力で何とかしようと思うにいたります。16章2節にこう記されています。
「サライはアブラムに言った。『主は私に子どもを授けてくださいません。どうか私の女奴隷のところに入ってください。そうすれば私は彼女によって、子どもを持つことができるかも知れません』。アブラムはサライの願いを聞き入れた。そこでアブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れてきて、夫アブラムに妻として差し出した。アブラムがカナンの地に住んで十年が過ぎた頃のことであった。」創世記16:2~3
私たちは信仰を持っているつもりであっても、神さまがあまりにも長く沈黙される時、あるいは非常に重要な時に沈黙しておられるように見える時、それに耐えられなくなることがあります。そして早まった行動に出て、どんどん事態が自分では取り返しがつかなくなる方向へと、進んで行ってしまうことがあるものです。そして神さまのお手伝いをするつもりで、神さまの御心と反対の行動を取ってしまうことがあるものです。そして時にお思いもかけない結果をもたらしてしまうのです。アブラハムとサラの場合もそうでした。
「アブラムがハガルのところに入ると、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのがわかると、彼女は女主人を見下した。」創世記16:4
現代の世界においても、そういうこと、つまり神様のお手伝いをするつもりだったけれど、神様の御心とは違った方へ行ってしまうというようなことが、しばしばあるでしょう。今日の多くの戦争の場合も、そうであるかもしれません。
(3)サラの抑圧的態度
ハガルが女主人を見下したことについては、ハガルにも若干の罪を認めることができるかもしれませんが、客観的に見れば、サラの「身から出た錆」という面の方が強いのではないでしょうか。しかしサラはアブラハムにこう言うのです。
「あなたのせいで私はひどい目に遭いました。あなたに女奴隷を差し出したのはこの私ですのに、彼女は身ごもったのが分かると、私を見下すようになりました。主が私とあなたの間を裁かれますように。」創16:5
ついでに言いますと、それに対しアブラハムは、こう答えました。
「女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい。」創16:6
そしてサラはハガルにつらく当たったので、ハガルはそれに耐えられなくなって、サラのもとから逃げていくのです。
ハガルにしてみれば、女主人サラを見下す、というのは、圧倒的に弱い立場にあった人間が、これまで耐えに耐え、自分を押し殺してきたのを、自分に有利な条件ができた時に、ささいな反撃に出たようなものでしょう。それに対して、女主人サラの方は、「どうしてそういう結果になってしまったか」という大元の原因には目を向けようとせずに、反省もせず、最後のハガルの行動だけを問題にし、これを徹底的に叩きつぶそうといたします。何かアメリカとイランの関係を彷彿とさせるのではないでしょうか。
サラは、自分の行動が批判されないよう、「同盟関係」にある強い味方であるアブラハムの合意を取り付けておくのです。アブラハムの方も、「女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがよい」と答えます。「自分は口出ししない。」あるいは「精神的に支援をする」ということです。お墨付きを得るのです。この物語も、今世界で起きているさまざまな戦争に照らしてみるならば、非常に現代的であり、示唆的であると思います。特にイスラエルのガザ攻撃、そしてその後ろ盾になっているアメリカの存在を思います。
女奴隷ハガルから生まれたアブラハムの子どもが、イシュマエルでありました。それからしばらく経って、今度はとうとうサラが妊娠し、子どもが生まれます。それがイサクです。このイサク誕生についても語り始めると、いくら時間があっても足りませんので、今日は省略いたします。創世記17章、18章、そして21章あたりにそのことが述べられていますので、どうぞそれをお読みください。(あるいは、私の『神に導かれる人生』というアブラハム物語を扱った説教集をお読みください。)それで神さまの約束の子どもとして与えられたのは、あのイシュマエルではなく、サラから生まれた子どもイサクでありました。それはパウロだけではなく、創世記自体が語っていることです。
(4)寓喩(アレゴリー)
さてこの物語について、パウロはこう語るのです。本日のテキストのガラテヤ書4章24節。
「これには、別の意味があります。」以前の口語訳聖書では、「さて、この物語は比喩としてみられる」と訳されていました。こちらのほうが原文に近い言葉です。この「比喩」(アレゴリア、アレゴリー)というのは、比喩は比喩でもそこに隠された暗示的な意味があるもので、日本語では、普通の比喩や、たとえと区別して「寓喩」と呼ばれたりします。パウロは、この物語を寓喩的に解釈するのです。
実は、この二人の女ハガルとサラというのは、二つの契約を指しているのだというのです。そして子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約をあらわしている。そして今のエルサレムは、その子どもたちと共に奴隷となっている、と付け加えます。パウロの解釈によれば、律法の支配のもとにある人々、言い換えれば、律法を重要視するユダヤ教の人々は、このハガルの子どもであるイシュマエルの子孫だというのです。
それに対して、サラから生まれたイサクの子孫こそ、約束の子である。それこそが律法の支配のもとにはない、キリストにつながる者、すなわち自分たちである、というのです。26節で「他方、天のエルサレムは自由な身の女であり、私たちの母です」と語り、28節で「きょうだいたち、あなたがたは、イサクと同じように約束の子どもです」と述べるのです。
このパウロの言葉は、自分たちこそ、アブラハム、イサクの子孫であると自認するユダヤ人たちを激怒させる言葉であったであろうと思います。そしてそのはざまで、どうしたらいいのかと悩み、ユダヤ教に逆戻りしそうになっているガラテヤの教会の人々に対して、「自分たちの信仰の寄って立つところに、何とか気づいて欲しい」という切なるパウロの気持ちが表れていると思います。
(5)自由から逆戻りするな
私は先ほどから言っておりますように、パウロのこの比喩の用い方には素直にうなずけない部分があるのですが、パウロが言おうとしていることは、重要なことであり、私たちが聞くべき大切な福音的メッセージがあらわれていると思います。
それは、「あなたがたは神さまから愛されている子ではないか」ということです。しかもどのように神の子であるのかというと、「律法を守ることによって」ではなくて、「最初から約束の子として、自由をもつ本当の子どもとして生まれているのだ、」ということです。「それなのにどうして今、律法のもとに逆戻りしようとするのか、それはおかしい、いやもったいない、そういう自分たちの状況に気づいて欲しい」というのです。パウロは、この部分のまとめである第5章1節においてこう語りました。
「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。」5:1
私たちは一旦信仰をもっても、なかなかその信仰に徹しきれない者です。あの信仰の父と呼ばれるアブラハムとその妻サラでさえも、そうした信仰に徹しきれない弱さをもっていました。そのことを考える時、パウロが用いた比喩には、さらにもうひとつの隠れた意味があるように、私には思えます。それは、「あのアブラハムとサラの場合にも、神さまを徹底して信じ切れなくなった時、その信仰から逸れ、自分の人間的な思いで行動し、失敗を招いたではないか。そしてだんだんと悪い状態にはまりこんでいったではないか。今あなたがたが直面している問題、ガラテヤの人々が直面している問題も、それと同じではないか」、ということです。
ここで「神の恵みの約束に徹底して信じ切ることをやめて、人間的なあさはかな判断で、律法を守って自分を義とするという方向へ逆戻りするならば、それはあのアブラハムとサラの間違いを繰り返すことになるぞ」と、暗に警告しているのではないか。そういう隠れた意味があるのではないかと思うのです。
私たちはイエス・キリストの恵みを信じているつもりでも、ひょっとしたことで信仰を持つ以前の状態に逆戻りしてしまうことがあるものです。
(6)パウロをして語らせている神の言葉
パウロのアブラハム物語解釈を読んで気をつけなければならないのは、ハガルとイシュマエル自体が呪われているのではないということです。創世記の物語をよく読んでみますと、ハガルとイシュマエルに対する神さまの配慮というものが、よくあらわれています。あくまでも、アブラハムとサラの不信仰の結果、導かれてしまった事態であり、ハガルとイシュマエルは、むしろその犠牲者であるということを、見落としてはならないでしょう。
このパウロのアブラハム物語の解釈は、ハガルやイシュマエルの視点に立って、物語を見るという姿勢が欠けているのではないかと、私は思います。
パウロもやはり、当時の常識の中で、あるいは当時の思考の枠組みの中で、語っていると思うのです。そこから自由ではありません。パウロの論敵であったユダヤ人も、ハガルとイシュマエルを差別していますし、パウロもどこかで、そうした差別を引きずっている。そういうところで成り立っている議論です。パウロはユダヤ人たちに向かって、「あなたがたが差別しているハガルとイシュマエルの延長線上に、あなたがた自身もいるのだ」、と指摘することによって、逆に彼らはかーっとなっていったわけです。
今日に生きる私たちがこの物語を読む時に、その議論が成り立っている前提、あるいは土台のところにある無意識の差別というものを問う必要があるのではないかと思います。
(7)声なき者たちの声を聞く
聖書の読み方で、20世紀後半から出てきた新しい視点があります。それは、広い意味での解放の神学と言えると思います。それは「声なきものたちの声を聞く」ということです。歴史の中に封じ込められてきた声、抑圧されてきた人々の声を聞き取っていく。そしてその中にこそ、実はその物語の背後に隠されていて、今まで気づかなかったもっと深い意味を取り出すことができるのではないか、ということです。
パウロは、このガラテヤ書の少し前のところで、「キリストにあっては、奴隷も自由人もありません。男も女もありません」と宣言しました(3:27)。ところが今日のところを見ると、パウロ自身が奴隷について差別的な意識をもっている。当時の考え方に引きずられているということを思います。つまりパウロ自身が自分で語っている言葉ほど自由ではない、ということです。しかしそのことは逆に言えば、みことばというのは、彼自身の考えではなくて、彼をして別のところから誰か(つまり神様)が語らせているものであるということ、言い換えれば、神さまが彼を通して語っておられるのだということを、裏付けているのではないでしょうか。
そのことは今日に生きる私たち説教者にも当てはまることであろうと思います。説教者が語るみことばは説教者の言葉でありつつ、それを超えたところ、神さま御自身が語りかけられる言葉でもあるということです。それは説教者自身をも批判し、刷新していくということにもなるのです。
パウロが生きた状況の中で、神さまはパウロを通して当時の人々に語りかけ、またこの2000年前の言葉を通して、今日に生きる私たちに新しく御言葉を語りかけてくださる。神さまは2000年前に生きていただけではなくて、今も生きている。書かれた言葉が2000年前の文字ですが、今生きている神様が2000年前の言葉を通して、新しく語りかけてくださる。そうしたことが聖書を神の言葉として信じる、ということなのであと思います。聖書が神の言葉であるというのは、人間の言葉であることを否定した上に成り立っているのではなくて、どこまでも人間の言葉なんだけれども、神様がそれを用いられるならば、今、新しく語りかけてくださることができると信じる、ということだろうと思うのです。そうしたことによって、今日に生きる私たちも自由へと召されているのではないでしょうか。