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2024年12月15日説教「ザカリアの賛歌」松本敏之牧師

マラキ書3章1節
ルカ福音書1章67~80節

(1)ベネディクトゥス

今年のアドベントとクリスマス、私たちは「もろびとこぞりて」というクリスマス・テーマを掲げて、ルカ福音書に記された4つの賛歌から御言葉を聞いております。先週は、マグニフィカートと呼ばれる「マリアの賛歌」を読みましたが、今日はそれに続く「ザカリアの賛歌」をご一緒に読んでまいりましょう。このザカリアの賛歌は、やはりラテン語訳聖書の最初の一語をとってベネディクトスと呼ばれるものです。ベネディクトゥスというのは、「ほめたたえられよ」「ほむべきかな」という意味です。最初の行は、ラテン語では、Benedictus Dominus Deus Israel という言葉です。聖書協会共同訳では、「イスラエルの神である主はほめたたえられますように」と訳されています。新共同訳聖書では、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」となっていました。「ベネディクトゥス」という言葉が、最初に来るように訳したのでしょう。聖書協会共同訳では、「イスラエルの神である主はほめたたえられますように」と受動態であることを優先したのかなと思います。ただしいきなり「ほめたたえられますように」と始まると、日本語が不自然なので、「イスラエルの神である主はほめたたえられますように」としたのだろうと思います。内容的には同じです。このザカリアの賛歌は、ザカリアがエリサベトによって、後に洗礼者ヨハネを呼ばれるようになる子どもが与えられた時に、預言して歌ったものであります。

(2)天使に脅えるザカリア

少しさかのぼって、その背景を説明しておきましょう。ザカリアとエリサベトは子どものいない老夫婦でありました。ザカリアはイスラエルの祭司でした。祭司は全部で24の組に分かれていましたが、ザカリアはその中で第8の組であるアビヤ組に属していました(ルカ1:5)。それぞれの組は、年に2回、神様の前で務めをする順番が回ってくるのですが、当番の時期になりますと、祭司たちは神殿に集まって、朝夕くじを引いて、それぞれの務めを決めたそうです。その務めの中で最も大切なものは、香を焚いて祈りをする務めでありました。この当時イスラエルには2万人以上の祭司がいましたので、それを単純に24で割りますと、それぞれの組には1000人近い祭司がいたことになります。多くの祭司にとって、主の聖所に入って香を焚くというのは、一生に1回あるかないかの務めでありました。この時ちょうどアビヤ組にそれが回ってきて、ザカリアにくじが当たり、神様の前で香を焚く務めにあたることになったわけです。恐らくザカリアにとっても、この時が最初で最後であったであろうと思います。ちなみにザカリアというのは、「神に覚えられた者」という意味であります。

ザカリアが香を焚いて祈っている間に、突然天使が現れて香壇の右に立ちました。「ザカリアはこれを見てうろたえ、恐怖に襲われた」(ルカ1:12)とあります。この気持ちは何かよくわかるような気がいたします。一生に1回あるかないかの務めです。非常に緊張している。ザカリアにとっては何事も無くつつがなく終わって欲しい、という思いであったでしょう。間違うことのないように、と思ってどきどきはらはらしている。私たちの数十人の礼拝でも、最初に司会をしたり、祈ったりする時というのは、とても緊張するのではないでしょうか。私も慣れた礼拝ならともかく、特別に招かれた学校の礼拝で数百人の前で話をする時などは、緊張します。この時のザカリアは、それをはるかに超える出番です。しかも全く初めて。ザカリアにとっては、とにかく早く終わって欲しいという思いであったに違いありません。神の聖所で祈りを捧げながら、そこで神と出会うことなどは期待していなかったのではないでしょうか。そこへ天使が現れたわけです。ザカリアにしてみればありがた迷惑な話です。何かとんでもないことが起こりかけていると、ご想像くださるとよいかもしれません。

(3)神が介入される

私たちの信仰生活も、それと似た面があるかも知れません。信仰生活と言っても、そこに神様が介入してこられることは期待していないのではないでしょうか。つつがなく自分の人生を歩んでいきたい。ですから自分の人生、あるいは毎日の生活の中で、神様が直接語りかけて、それを乱されては困る、さえぎられては困る。教会の営みというのも、そこに神様が介入してこられることを考慮に入れず、私たちの計画、私たちの行いという風に考えてしまうことがあるのではないでしょうか。しかしそうしたところ、私たちの計画が遮られた形で、神様が入ってこられるのです。ただし本当は私たちの人生、私たちの教会の歩みというのは、そうしたところから変わっていくのであろうと思います。

ザカリアに対して、天使はこう言いました。

「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒も麦の酒も飲まず、すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える。」ルカ1:13~17

この言葉は、今日のザカリアの賛歌を内容的によく説明しています。ザカリアはこの言葉を聞いた時に、こう反論します。

「どうしてそれが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年をとっています。」ルカ1:18

ザカリアは何らかのしるしを求めたわけですが、そのせいで、その子が生まれるまで口が利けなくなるという「しるし」が与えられました。そして月が満ち、天使が予告した通り、ザカリアとエリサベトの間には、洗礼者ヨハネが与えられました。そして口が開き、舌がほつれ、ものが言えるようになりました。

(4)神への賛美と感謝

そういうことを背景にして、私たちはこのザカリアの賛歌を読んでいきたいと思います。このザカリアの賛歌は、68~75節と、76~79節の二つの部分に分けられます。まず前半は、第1行に端的に表れていますように、神様への賛美、感謝の祈りであります。

「イスラエルの神である主はほめたたえられますように。」ルカ1:68

マリアの賛歌もそうであったのですが、このザカリアの賛歌も、ほとんど全部、旧約聖書の言葉が背景になっています。

「イスラエルの神である主」と言うと、私たちは何か現代のイスラエルという国家を思い浮かべてしまいますが、そうではありません。「イスラエル」というのは、「神は支配される」という意味であって、もともとはアブラハムの孫であったヤコブの別名です(創世記32:29)。今日はヤコブの人生について詳しく語る時間はありません。興味のある方は、どうぞ創世記の25章以下を読んでください。

やがてヤコブ、すなわちイスラエルには12人の息子が与えられるのですが、その子孫がイスラエルの民と呼ばれるようになるのです。イスラエル12部族には、ヤコブの息子たち12人の名前が付けられています。

ここで単に「主はほめたたえられますように」(68節)というのではなく、「イスラエルの神である主はほめたたえられますように」と言います。何か漠然とした神様、あるいは一般的な、観念的な神様ではなく、そういう歴史的背景をもった神様、具体的にイスラエルの歴史において、人間とかかわりをもってきた神様のことを指しているのです。旧約聖書であれば、固有名詞のヤハウェという名前の「主」です。アブラハム、イサク、ヤコブの神様、サラ、リベカ、ハガル、ラケル、レアの神様。彼らと親しく交わられた神であればこそ、今日も私たちの歴史にかかわり、私たちと親しく交わってくださる神であることがわかるのではないでしょうか。

(5)歴史を思い起こす

「主はその民を訪れて贖い」(1:68)と続きます。イスラエルの民と歴史的にかかわられた神様。その民を親しく訪れて、解放された。「贖う」というのは、元来は「買い取る」という意味です。遠くからながめておられたわけではありません。近くに来られて、奴隷状態の中から解放してくださった。ここでは二つの解放が思い起こされます。

一つは、エジプトの地からの解放です。私たちは主日礼拝において、出エジプトの物語を読んできましたので、ご存知の方も多いであろうと思います。もう一つ忘れてはならないのが、バビロン捕囚からの解放でしょう。

そうした過去において、自分たちの先祖を訪れて解放してくださった神様が、ザカリアの時代の人々をも解放してくださることを覚えて、その神をほめたたえているのです。ひいては、その方が現代の私たちをも訪れ、解放してくださる方であることを指し示していると思います。

「我らのために救いの角を、僕ダビデの家に起こされた」ルカ1:69

「救いの角」というのは、「救いのための強力な助け」ということです。詩編の中にも、「角は上げられる」という表現があるのですが(詩編75:11など)、それは「強められ、高められる」という意味です。つまり「ダビデの家から救い主が生まれる」というクリスマスの出来事を語っていると言えるでしょう。

「昔から聖なる預言者たちの口を通して、語られたとおりに。」ルカ1:70

ずっと長い間、預言者たちが語ってきたこと、イスラエルの民が長い間待ち望んできたこと、それが今、実現した。もううれしくて、うれしくて仕方がないという気持ちが、このザカリアの言葉の中によく表れています。あの祭司の当番の時には、恐れて震えていたようなザカリアが、ここでは喜びがはちきれんばかりです。実際に息子が与えられることによって、神様は誠実なお方だ、そして不可能を可能に変えることのできるお方だと知ったからでしょう。

(6)敵とは?

「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。」1:71

この敵とは一体誰でしょうか。歴史的な意味では、イスラエルの民の前に立ちはだかった敵と言えば、エジプト人であり、ペリシテ人であり、アッシリア人であり、バビロニア人でありましたが、そういう特定は、今日の私たちには、あまり意味がないのでしょう。社会の中で強い力を持ち、弱い立場の民族、人々を抑圧する人がいる。そこからの解放ということに、まず目を向けたいと思います。

先程イスラエルと言えば、今日のイスラエルという国家を思い浮かべてしまうと申し上げました。その「イスラエル」が「我らの敵」と言えば、パレスチナとかその中のハマス、ということになりそうです。しかし今日の力の関係、強い者と弱い者という構図から言えば、むしろぎゃくでしょう。イスラエルが軍事力でペリシテ人の子孫であるパレスチナ人を蹂躙し、爆撃しているのです。ですから、この歌は、神はイスラエル国家を支持しているということではありません。むしろ、パレスチナのガザの人々、ウクライナの人々、ミャンマーの民衆をこそ、思い起こすべきでしょう。

さらに「我らの敵」ということで、第一義的には、そうした社会的地平を指していると思いますが、それを超えたところにも目を向けることもできると思います。それは私たちを脅かすすべてのものです。それは、死であり、病気であり、罪であり、貪欲です。これが、もっと手ごわい敵であるかも知れません。私たちはそうしたものに取り囲まれて、不安の中にあります。しかしこう続くのです。

「こうして我らは、敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える
生涯、主の御前に清く正しく。」ルカ1:73b~75

歴史的な過去を振り返ることから、現在のこと、将来のことへと、話が大きく展開されていきます。

「恐れなく仕える」。自分が向き合っている神様が本物であるということを悟った時に、「恐れとおののき」を覚えるものでありますが、その神様ご自身が「恐れるな」と言って近づいてくださる。この時も天使ガブリエルがザカリアに「恐れるな」と言って近づいてきました。まさにクリスマスのメッセージであります。そこで私たちは、うろたえながらではなく、喜んで、心から、主に仕えることが許されるのです。

(7)洗礼者ヨハネの働き

さて後半の76~79節では、ザカリアの息子となる洗礼者ヨハネの働きについて語っています。

「幼子よ、あなたはいと高き方の預言者と呼ばれる。」ルカ1:76

洗礼者ヨハネ自身が「いと高き方」なのではありません。彼はあくまで預言者、「その方」について証をする者です。しかし預言者の中の預言者、旧約聖書の預言者の系譜に連なりながら、イエス・キリスト以前の最後にして、最大の預言者であったと言ってもよいでしょう。

「主に先立って行き、その道を備え
主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」ルカ1:76b~77

この言葉は、先程読んでいただきましたマラキ書3章1節から来ています。

「私は使者を遣わす。
彼は私の前に道を整える。
あなたがたが求めている主は、
突然、その神殿に来られる。
あなたがたが喜びとしている契約の使者が
まさに来ようとしている――万軍の主は言われる。」マラキ3:1

(8)暗闇に輝く光

ザカリアの賛歌は、洗礼者ヨハネの働きについて述べた後、そのヨハネが指し示した方へと、再び話の焦点が戻っていきます。ヨハネの方を向いていた私たちが、そのヨハネの指に従って、すっと視点を移されるような感じがいたします。

「これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって
高い所から曙の光が我らを訪れ
暗闇と死の陰に座している者たちを照らし
我らの足を平和の道に導く。」ルカ1:78~79

これはまさに、イエス・キリストによって起こる出来事について語っていると言えるでしょう。クリスマスと言いますと、世の人は、単純に明るく、楽しいお祭りだと考えがちですが、むしろクリスマスというのは、暗闇の中にある人を照らす、そういう喜びを告げるものであるということを、心に留めたいと思います。

皆さんの中には、もしかすると、つらい思いをし、苦しい経験をして、とてもクリスマスをお祝いするような気持ちになれないという方もあるかもしれません。今年、大事な人を失った方もあるでしょう。しかしむしろそういう中でこそ、クリスマスのメッセージが届いて欲しいと思うのです。暗闇が濃ければ濃いほど、クリスマスの光は強く輝くからです。そのような思いをもって、私たちもザカリアと共に主をほめ歌いながら、クリスマスを待ち望みましょう。

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