1. HOME
  2. ブログ
  3. 2023年9月3日説教「擁 護」松本敏之牧師

2023年9月3日説教「擁 護」松本敏之牧師

出エジプト記20章18~21節 ガラテヤの信徒への手紙5章13~15節

(1)神と人の生きた関係を示す

これまで十戒について、前文(序文)を含めて、11回にわたって取り上げてきましたが、今日はその後の部分を読みながら、十戒全体について、その意義について、もう一度振り返ってみたいと思います。序文についてお話した時にもお尋ねしたことですが、皆さんは十戒の全文を覚えておられるでしょうか。「あの時はまだ覚えていませんでしたが、今はもう覚えました」という方もあるかも知れません。でも「なかなか覚えられません」、という方もあるのではないでしょうか。

『讃美歌21』では、93-3というところに十戒の全文が出ていますが、これは新共同訳聖書の言葉どおりであり、長すぎてなかなか暗唱できるものではありません。『こどもさんびか』(改訂版)には簡潔にしたショートヴァージョンがでていますので、それをコピーしてきました。今日はまず、「使徒信条」や「主の祈り」をそうしているように、全員でその言葉の意味をかみ締めながら、唱和してみましょう。

「わたしは主、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 ①あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 ②あなたはいかなる像も造ってはならない。 ③あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 ④安息日を心に留め、これを聖別せよ。 ⑤あなたの父母をうやまえ。 ⑥殺してはならない。 ⑦姦淫してはならない。 ⑧盗んではならない。 ⑨隣人に関して偽証してはならない。 ⑩隣人の家を欲してはならない。」

十戒とは、「何々してはならない」という言葉が並んだ規則集、あるいは神様と人間の間のルール本という風に思われる方もあるかも知れません。しかしながらこれはそういうことをはるかに超えて、神様と人間の生きた関係を示すものであります。

神様が私たち人間に興味を持ち、かかわりを持とうとされる。そして私たちの歴史の中に直接入ってこられて対話をされる。人間がどのようにすれば、神様の前にも、隣人の前にも正しく生きることができるかということを、神様の方から明らかにされたものであるということができるでありましょう。

そのために神様はまずご自分の方から、自分が一体誰であるか、何をした者であるかを告げられました。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」20:2、新共同訳

この十の戒めを読み解く鍵が、この序文の中に示されています。すべての掟は、ここにさかのぼって、それを確認するところから読まなければならない。「ひとつひとつの戒めは、一々序文を読んでから読むべきだ」ということを提案している人もあります。

十戒というのはただ単に私たちを束縛するもの、律法主義ではありません。しかしだからと言って、私たちに人間が全く方向性を示されることなく、「何をやってもいいんだ」という自由放任主義でもありません。その両方を退けなければならないのです。

(2)束縛ではなく、自由のため

十戒の本来の意図は、出エジプトの出来事が、神の民にとって、まさに本質的な決定的な解放の出来事であったということを伝えることでした。

私たち今日のクリスチャンが、「自由」を本当に理解しようとして格闘するところで、十戒が大きな意味をもってくるでしょう。ただ単に「こうしなさい。」「あっ、そうですか」ということではない。その中には、今日ならではの格闘があります。対話があります。解釈しなければならない。生き方が多様な中で、何が神様の御旨にふさわしく生きる道なのか。新しく御言葉を聞くことが求められる。ある方向に方向付けられながら、それが示されているわけです。律法とは私たちを束縛するものではなく、私たちに自由を得させるものです。

東京神学大学の小友聡先生が、私の前任地である経堂緑岡教会夏期全体修養会に来られて、「旧約聖書の中心から考える」という題で講演をしてくださったことがありました。19章の話をした時に、すでに一度申し上げたことですが、小友先生は、旧約聖書の中心は律法にある。(律法とは、創世記から申命記にいたる五書をさしています。)そしてさらにその中心は、シナイ契約にあると言われました。シナイ契約とは出エジプト記19章から24章にあらわされた神様と人間の契約です。その枠組みが19章と24章、そして今日の20章18節以下にも記されています。

そこで「シナイ契約の中心には何があるか」ということで「20章の十戒がある」と語られ、続けて「それは神の民が、神の招きに応えて生きる指針である。それは徹頭徹尾共同体に向けて語られたものである。そこで束縛するためのものではなく、自由を与えるためのものである」と語られました。小友先生は、そこで一つのたとえをあげておられます。

「こんな風に考えるといいと思います。子どもを例にとって考えますと、広い遊び場があり、神様は柵を設けられた。これより先へ行くと危ないよ、と柵を設けられた。この柵を十戒と考えてみてください。広い遊び場の中に柵がある。この柵はむしろ神様が私たちの自由を擁護するものです。この柵を越えたならば、自由どころか、命を失うことになります。命を失うならば、自由の意味が全くなくなってしまう。神様は私たちの自由を保障するために、十戒を与えてくださった。要するに十戒は、私たちが神様から自由を与えられている証拠であるという風に考えることができます。いずれにしても十戒は、私たちから生きる自由を奪うものではない。」

これはよくわかる的確なたとえです。おとなと子ども、あるいは親と子。お父さん、お母さんが子どもに「これこれ、こういうことをしてはならない」というのは、子どもを束縛するためではなくて、ましてや虐待するためではなくて、その子どもが自由に、活き活きと、伸び伸びと生きるためのものです。自由を擁護するものなのです。

ちょうど、神様がエデンの園にいたアダムとエバに対して、「ただ、園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから」(創世記3:3)と言われた延長線上に十戒を見ることができるのではないでしょうか。

(3)神の顕現

「民は皆、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音と山が煙るのを目の当たりにした。民は見て震え、遠く離れて立(った)。」20:18

この情景は、19章に続くものです。

「三日後の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上に臨み、角笛の音が極めて力強く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。」19:16

神様が人の前に現れる時の情景。それを雷鳴と稲妻、角笛の音、そして山が煙に包まれるという形で記されています。そしてモーセに言うのです。

「あなたが私たちに語ってください。そうすれば私たちは聞き従います。しかし神が私たちにお語りにならないようにしてください。私たちが死なないためです。」20:19

このことの前提としては、神を見た者は死ぬと言われていたことがあります。神様の聖さの前には、どんな人間も向き合って立つことができない。その聖さが、罪に汚れた私たちを滅ぼしてしまう。民自身がそのことをよく知っていました。神様が現れようとする時に、少し逃げ腰にも思えますが、モーセに向かって、「あなたが代表して神に向き合ってください」と言ったわけです。仲保者モーセの姿が、ここに記されています。

「恐れてはならない。神が来られたのは、あなたがたを試みるためである。神への畏れをあなたがたの目の前に置き、あなたがたが罪を犯さないようにするためである。」20:20

このところに、一体何のために、律法が、特に十戒が、私たちに人間に与えられたのかということが端的に示されています。

(4)恐れと畏れ

興味深いことに、モーセは、ここで、「恐れてはならない」と言いながら、「神への畏れをあなたがたの目の前に置く」と言っています。日本語の聖書では「おそれ」に違う漢字が当てられています。「恐れてはならない」と「畏れなさい」ということが同時に語られる。この一見矛盾するようなことが、実は私たちの信仰というものをよく表しています。神様の前に畏れをもたなければならない。これが信仰の出発点です。

神様を神様として立てるということは、その前で自分の分をわきまえて、神様によって創られたものであることを知る、神様の前では、立っていることができない程の存在であることを知るということです。ところが、神様の存在は、この時彼らが「神様の前で、自分たちは死んでしまう」と思ったように、私たちを恐怖に陥れるものでしょうか。不思議なことにそうではありません。私たちが神様の御前に立つ資格がないにもかかわらず、私たちが立つことができるようにしてくださる。それが聖書の神様が私たちに示してくださっていることです。

この時はモーセが仲保者として神と民の間に立ちましたけれども、私たちは、その後、イエス・キリストという神様の直接遣わされた神様の御子を救い主としていただいています。この方においてこそ、畏れ敬いながら、イエス様が親しく「アバ(お父さん)」と呼ばれたように、私たちも恐れることなく親しい方として、あがめる道がひらかれたと言えると思います。

(5)『キリスト者の自由』

マルティン・ルターは、1517年にいわゆる宗教改革を始めた人として知られていますが、ルターはその後(1520年)に『キリスト者の自由』という書物を出版しました。その書名からもわかるように、ルターは、「私たちが自由を得るのはどこからなのか、どこに立つ時に、〈キリスト者の自由〉(それは同時に〈真の自由〉)が与えられるのか」ということを、この書物で明らかにしようとしました。

彼は、この本の冒頭で、「キリスト者とはどういう人か」について、二つの命題を掲げています。その一つは、「キリスト者は万物を支配する自由な君主であって、誰にも従属しない」ということ、もう一つは「キリスト者は万物に奉仕する僕であって、すべての人に従属する」ということです。これは、パウロの「私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました」(コリント一9:19)という言葉に基づいています。

この「自由である」ということと「奴隷である」(僕である)ということ、「自由と奉仕という互いに相矛盾する命題」は、イエス・キリストからさかのぼって、モーセの十戒を理解するためにも有益であると思います。十戒は、徹底的に神に仕え、人に仕える時にこそ、その精神が全うされるものです。十戒は、そのような命令を与えることにより、一見、私たちを拘束するように見えながら、実は、私たちに真の自由を与えるものなのです。

それは、「畏れをもて」と命じつつ、「恐れるな」という勇気を与え、私たちに解放と自由を告げるのです。

(6)かすかにささやく声

神が私たちに現れる姿。それは雷鳴をもって、稲妻をもって、大きな音で、山が煙に包まれる。そうした中から神様が現れるということを、今日の箇所から示されていますが、もう一つ、聖書は神様の違った現れ方を記しています。それは預言者エリヤに現れた時でした。列王記上19章に記されています。(先日、列王記で説教した時に取り上げた箇所です。)

「主は言われた。『出て来て、この山中で主の前に立ちなさい。』主が通り過ぎて行かれると。主の前で非常に激しい風が山を裂き、岩を砕いた。」列王記上19:11a

ちょうどモーセがシナイ山で経験したような情景です。

「しかし、その風の中に主はおられなかった。風の後(のち)に、地震があった。しかし、その地震の中に主はおられなかった。地震の後に火があった。しかし、その火の中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやく声があった。」列王記上19:11b~12

エリヤは、風や地震や火の中においてではなく、それらの後に「かすかにささやく声」において、主の言葉を聞いたのでした。エリヤはその声を聞くと、外套で顔を覆って、洞穴の入口に立つのです。

(7)教会の歩み、私たちの歩み

私たちに対して、神様はどういう風に語りかけられるか。私たちは、イエス・キリストという確かな仲保者をいただいています。そしてそのイエス・キリストの言葉と業を記した聖書をいただいています。聖書に向き合う時に、静かにその都度その都度確かな形で、私たちを導いてくださる神様がおられるのではないでしょうか。

私たちは教会の中に招かれています。さきほどこの十戒をみんなで唱和しましたが、十戒は個人個人だけではなく、教会として共に聞き、共に守っていく神の言葉でもあります。そこで、この教会が神様の御旨にふさわしく立てるかどうかが問われるのです。神様の示される道がどこにあるのか、それはかすかにささやくような声かも知れませんが、その声を聞きもらさないようにしたいと思います。一人一人の信仰も、十戒など聖書の言葉を通して導かれることを信じ、秋の信仰生活の歩みをスタートしていきましょう。

関連記事