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2023年2月19日説教「安 息」松本敏之牧師

出エジプト記20章8~11節 マルコによる福音書2章23~28節

(1)「休め」という戒め

今日は十戒の中のいわゆる第四戒、「安息日を覚えて、これを聖別しなさい」という言葉から御言葉を聞いてまいりましょう。

「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。」出エジプト20:8~10

「聖別する」というのは、最初から聖いものとして、区別して取り分けるということです。1週間のうちの1日を労働の日ではなく、安息の日として、取り分ける。私たちの生活が7日サイクルで成り立っているのは、今は世界中で定着していますが、これは、もともとこの旧約聖書の文化に根ざしています。

この安息日律法には、さまざまな意味がありますが、私たちはまず、単純に「1週間に一度、休む」ということが、戒めとして告げられていることを、心に留めたいと思います。これは私たちが普通に考える命令とは違います。命令であれば、「働きなさい」というほうがよくわかります。「なまけるな。」ところが、面白いことに十戒の中には、「働きなさい」という戒めはないのです。私たちが働かなければならない根拠を聖書の中に見出すとすれば、それは創世記の中のアダムとエバの話を挙げることができるでしょう。二人が罪を犯した時、神様は二人をエデンの園から追放するのですが、そこでアダムに向かって、こう言われました。

「あなたは生涯にわたり 苦しんで食べ物を得ることになる。……土から取られたあなたは土に帰るまで 額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る。」創世記3:17~19

この言葉にも深い意味があるのですが、今日はあまり話を広げないようにしたいと思います。とにかく十戒の中には、「働きなさい」という戒めはないのに、「休みなさい」という戒めがあるのです。このことからして私は、十戒が恵みの言葉であることを、よく指し示しているように思います。

私たちは、休むことに対して、どこかうしろめたい気持ちを持っているのではないでしょうか。特に日本人は、そういう傾向が強いように思います。「働け、働け」で、ずっとやってきた。日曜日と言っても何をしていいかわからない。教会に行くわけでもない。ゴルフに行くか、さもなければ会社に行ってしまう。ワーカホリックという言葉があります。仕事依存症ということです。(アルコール依存症のアルカホリックという言葉に仕事のワークを掛け合わせた造語です。)何か仕事をしていないと落ち着かない。昔の日本は、「月月火水木金金」と言って、休みなしに働いたそうです。ちなみに私にとっては、「月月火水木金金」の方がありがたいですが……。時々、定年退職なさった方で、「毎日が日曜日、サンデー毎日です」と言う人がいますけれども、サンデー毎日だったら、牧師は体がもちません。逆に時々、「牧師さんは、週休6日でいいですねえ」とおっしゃる方がありますが、もちろんそんなことはありません。むしろ明確な勤務時間がないので、昼も夜もずっと仕事をひきずっています。もっともその合間を縫って、昼間であっても上手に休んではいますが。

ただし私も意識的に、どんなに仕事がたまっていても日曜日の夜だけは、絶対にとまでは言えませんが、原則、仕事をしないようにしています。そして、DVD(今はブルーレイ)で映画を1本観ることにしています。先日、ある牧師会で、そんな話をしていましたら、「ええ大河ドラマ、観てないんですか」と言われました。日曜日の夜は、リラックスして、NHK大河ドラマを観て過ごすという牧師も多いようです。(「せごどん」の時だけは観ました。)

(2)休暇はとても大事

安息日ということから話は広がりますが、有給休暇というのも、日本では実際には、その日数、全部取ることは難しいと聞きます。最近では、働き方改革で随分変わって来たようですが、それでも、「有給休暇を全部取って帰って来たら、自分のデスクがなくなっているよ」と冗談交じりの本音のようにしばしば聞きます。

その点、ブラジルでは違いました。休暇についての社会全体のコンセンサス(共通理解)があります。お金はなくても、休日の過ごし方、休暇の過ごし方をよく心得ていました。ちなみに、雇用者は誰かを1年間雇ったら、1ヶ月の休暇を与えなければならないという法律があり、それはきちんと守られています。1ヶ月まとめて取ることのできない仕事の人は、年に2回に分けて取ったりしていました。牧師も同様でした。メソジスト教会の場合には、大晦日の夜(ニューイヤーズ・イブ)、夜11時に教会に集まって礼拝をします。1月第一日曜日の分の聖餐式を前倒しにいたします。12時になって年が明けたら、「あけましておめでとうございます」と挨拶をし、「では2月1日にお会いしましょう」という感じでした。1月は夏休みですが、日曜日の礼拝は、隠退牧師や神学生が活躍します。信徒の方も奨励もあります。また平日は、教区が1週間ごとに、青年キャンプ、女性修養会、壮年修養会などの大型行事を入れます。国民みんなが1か月の休暇を取るので、牧師もうしろめたくなく休むことができます。

「休暇は大事だ。休暇がなければ、私たちは働いていけない。あるいは休みのために働いている。」今週の水曜日は受難節の始まる灰の水曜日ですが、ブラジルでは、その直前のこの週末は、カーニヴァルです。今頃は、夜の10時半ですから、真っ最中でしょう。よくブラジルでは、「カーニヴァルの4日間のために一年間働くのだ」と言われます。もちろん誇張がありますが、休みを取るために働くというのは、私は、案外、聖書に即しているのではないかと思いました。そのことは後で、少し申し上げます。

さて休日のことから休暇のことまで、話が広がりましたが、意識的に、そのように仕事を中断することは大事なことではないかと思わされます。いかなる仕事であれ、私たちはそこで一旦仕事を中断することで、心も体もリフレッシュされて、また新たな気持ちで仕事を再開することができるようになります。

日本人が休暇というものを、消極的に認めるに留まり、そこに積極的意義をなかなか見出せないのは、やはり「休む」「仕事を中断する」ということを、神様の戒めとしてとらえるセンスに欠けているからか、あるいはそういう信仰がないからではないかと思います。例えば、英語のホリデー(休日)というのは、もともと「聖なる日」という意味の言葉です。

(3)天地創造を覚えて

この戒めは、その後に根拠が示されています。

「主は六日のうちに、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休息された。それゆえ、主は安息日を祝福して、これを聖別されたのである。」出エジプト記20:11

安息日を守るということは、神様の天地創造に由来しているのです。

「第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。」創世記2:2~3

業そのもの、仕事そのものは六日で終わっているのに、第七の日にその仕事を完成されたというのです。これは、意味深いことです。仕事は安息をもって完成する。極端な言い方をすれば、その安息日のために、仕事日があると言ってもいいかも知れません。そこで改めて六日間の仕事を振り返って、それを確認し、喜ぶのです。

安息日は、休息を取る日であると同時に、神様の創造の業をたたえる日です。そこで私たちは、自分自身が神様によって造られた者であることを新たに覚え、神様の創造の業を感謝するのです。

(4)出エジプトの出来事を覚えて

十戒は、出エジプト記の他に、申命記5章にも出てくるのですが、申命記の十戒のほうは、安息日律法の根拠が少し違っています。

「安息日を守ってこれを聖別し、あなたの神、主があなたに命じられたとおりに行いなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、牛やろばなどのすべての家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。そうすれば、男女の奴隷も、あなたと同じように休息できる。あなたはエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が、力強い手と伸ばした腕で、あなたをそこから導き出したことを思い出しなさい。そのため、あなたの神、主は、安息日を守るようあなたに命じられたのである。」申命記5:12~15

出エジプト記のほうでは、天地創造を安息日の根拠としていましたが、この申命記のほうでは、出エジプトの出来事を根拠にしています。神様があなたたちを解放された。そのことを覚えて、安息日を守れ。だからここでは、自分自身が解放されたこと、救われたことを喜ぶと同時に、私たちも他の人を自由にすることが求められています。「神様があなたを解放してくださったように、あなたも、あなたのもとで働く人たち、奴隷たち、そして家畜までも、休ませなければならない。」ここで、安息日を覚える二つ目の大事な意味が語られています。それは、私たちが自由とされたことを覚えて、同時に、他の人も(家畜も)休ませるということです。

(5)他人をも休ませる

私たちは、それが命令、あるいは法律による義務として示されなければ、なかなか人を休ませることをしないのではないでしょうか。あるいは逆に誰かのもとで働いている人は、それを正当な権利として、休むということを言いにくいのではないでしょうか。奴隷であれば、なおさらでしょう。「自分のことばかり考えていてはいけない。あなたのもとで働いている者もあなたと同じように休みを必要としているのだ。」それを神様からの命令として受けとめるのです。

「休め」「仕事を中断せよ」というのは、そのように私たち自身への解放のメッセージであると同時に、横の広がりをもっています。これは大事なことです。

十戒は2枚の板に刻まれたと言われています。前半と後半に分けられる。前半は神様と人との関係についての戒め、後半は人と人との関係についての戒めです。安息日律法は、前半に属するものですが、ここには人と人との関係のことも含まれている。私たちが自由にされたように、他の人も休ませなければならない。そうだとすれば、この安息日律法は、1枚目の板の戒めでありつつ、2枚目の板への移行を示しているということもできるでしょう。

(6)ボンヘッファーの「罪責告白」

前回、「主の名をみだりに唱えてはならない」の箇所で、ディートリッヒ・ボンヘッファーが、十戒に即して、教会の罪責告白という文章を書き残したことを紹介しました。ボンヘッファーは、この安息日律法のところでも、とても興味深い言葉、罪責告白を書いています。

「教会は告白する。――教会は、祝い日を失い、その礼拝を荒廃させ、日曜日の安息を軽視するという罪を犯した。教会は、休息の喪失と不安に対し、しかしまた、労働日を越えての労働力の酷使に対して責任がある。」『現代キリスト教倫理』森野善右衛門訳、71頁

これは、当時のナチスによる「ユダヤ人の強制労働」のことを念頭において書かれたと言われます。ユダヤ人は、クリスチャンよりもさらに厳格に、安息日を守ります。しかしそのユダヤ人たちを強制労働に駆り出し、しかも休ませさせないで働かせた。教会がそのことを是認したことは、明確な律法違反であると言ったのです。

(7)安息日律法の精神

安息日律法を守るという時に、その文字面を守るということよりも、そこにどういう神様の意図が込められているか、安息日律法の精神がどこにあるかということを考えなければならないでしょう。日曜日に働かなければならない人もいます。よく言われることですが、皆さんが今日、教会に来ることができたのは、電車やバスが動いているからです。タクシーで来られた方もあるかもしれません。私たちの礼拝はその人たちの働きに負っているわけです。その他にも日曜日に働かざるを得ない人はたくさんいます。医療従事者の方々もそうでしょう。そういう人のことを指して、「安息日律法を守っていない」ということではありません。

イエス・キリストも、ファリサイ派の人々から、「安息日にしてはならないことをしている」と非難されました。しかしそこでイエス・キリストは、こう切り返されました。

「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主でもある。」マルコ2:27

本当に大事なことは、そこで安息日律法をただ形式的に守っているかどうかよりも、その精神をきちんと理解しているかどうかであると思います。

(8)復活と永遠の安息

キリスト教会は、かなり早い時期から、土曜日ではなく、日曜日に礼拝をするようになりました。もちろんセブンスデー・アドベンティスト(SDAチャーチ)のように土曜日に礼拝する教派もありますが、私はキリスト教会が土曜日から日曜日に礼拝の日を移したというのは、積極的な意味があると思っています。なぜクリスチャンが日曜日に礼拝するようになったのか。それは、日曜日がイエス・キリストの復活の日であったからです。そして復活と安息には、深い関係があります。

神様が6日で世界を造られ、7日目に安息なさったということは、神様の長い歴史全体を象徴しているように思います。この世界は、神様の計画の中で動きながら、最後には安息がある。安息でもって終わることが約束されているのです。

もう少し小さな枠組みで言えば、私たちの人生もそうでしょう。ひたすらこの世界で働いて、ぱたっとそれっきりで終わってしまうのではありません。終わりには安息がある。大いなる安らぎ、憩いがある。永遠の安息のうちに入れられる。聖書は、そう約束しているのです。そうだとすれば、安息と復活は切り離すことはできません。私は主の復活の日、日曜日に安息を祝うのは、まことにふさわしいことであると思います。

その憩い、安息を、それぞれの人生が終わる前に、あるいはこの歴史が終わる前に、私たちは1週間に一度、週ごとに、前倒しに味あわせていただいていると言えるのではないでしょうか。

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