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2026年7月26日説教「愛によって歩む人生」松本敏之牧師

レビ記19:17~18
ガラテヤの信徒への手紙5:2~15

(1)聖書のキーワード

ガラテヤの信徒への手紙を、少しずつ読み進めています。今日は5章2節から読んでいただきましたが、その前にある5章1節は、次のような言葉でした。

「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛つながれてはなりません。」5:1

この聖句は、これまでパウロが語ってきたことの総括であり、同時に聖書全体を読み解くキーワードのような大事な言葉です。信仰を持って生きるということは、何か窮屈な、いわば不自由な人生を送ることになると考える人がありますけれども、実はそうではありません。信仰によって私たちは自由を得るのです。「ああそうだったのか」、と思わせられる言葉です。

「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。」この言葉の中に、神さまの私たちに対する思いがよくあらわれています。この言葉の中に、なぜ神さまは私たちの世界にキリストをお遣わしになったのかが記されています。この言葉の中に、なぜイエス・キリストが十字架におかかりになったのかが記されています。それらはすべて、私たちに自由を得させるためでありました。キリストは私たちに自由を得させるため、解放するために、逆に私たちが受けるべき呪いを一手に引き受けて十字架で死なれたのです。

(2)律法ではなく、信仰によって

そのことを受けて、パウロはここでもう一度これまで語ってきたことを語ります。

「よく聞きなさい。私パウロがあなたがたに告げます。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたにとって何の役にも立たなくなります。割礼を受けるすべての人に証言しますが、そのような人は律法全体を行う義務があります。」5:2~3

割礼を受けるというのは、神さまから与えられた律法を守り抜き、自分で神さまに受け入れていただく道を開いていくことの象徴のようなものです。そういう方法で神さまに受け入れていただこうとするならば、律法を完璧に、全部守らなければならないのですよ。それがわかっていますか。そしてそれができますか、と問いかけているのです。そしてこう続けます。

「律法によって義とされようとするなら、あなたがたは、キリストとは無縁の者となり、恵みを失ってしまいます。」5:4

そのような道は、自分でキリストとの関係を断ち切ってしまう道だ。また神の恵みの外へ自分から飛び出してしまう道だ、ということです。しかし私たちの道は違う。私たちの道は、信仰によって神様に受け入れていただく道だ。聖霊に助けられて、神さまの前で義しい者として受け入れていただくことを待ち望んでいるのだ。このことは、これまでも繰り返し語られてきたことです。そしてさらにこの段落のまとめのように6節ではこう言うのです。

「キリスト・イエスにあっては、割礼の有無は問題ではなく、愛によって働く信仰こそが大事なのです。」5:6

これは、いわばパウロ神学の核心に触れる言葉です。大事なことは信仰である。キリストが私のために、罪の呪いを引き受け、神との関係を回復してくださった。だから私は安心していればいいのだ。そういう信仰です。パウロが何度も何度も語ってきたことです。

(3)愛の実践を伴う信仰

しかしこのところで、パウロはただ「信仰」というのではなく、「愛によって働く信仰」というふうに書きました。ガラテヤの信徒への手紙では、ここで初めて「愛」という言葉が出てきます。そう語った後で、パウロは次に律法主義者への痛烈な批判を行い、それを経て、この「愛によって働く信仰」というのが13節以下につながります。

「きょうだいたち、あなたがたは、自由へと召されたのです。ただ、この自由を、肉を満足させる機会とせずに、愛をもって互いに仕えなさい。なぜなら律法全体が、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句において全うされているからです。」5:13~14

パウロは律法主義者たちから見れば、律法をないがしろにしているように見えました。おろそかにしているように見えました。パウロは、律法主義者たちが律法に生きる最も基本的なこととして大事にしていた割礼を、どうでもいいことだと述べています。しかしパウロは律法を意味のないものと考えていたわけではありません。パウロなりの仕方で、もっと別のところで、その大切さをよくわきまえていました。

ローマの信徒への手紙3章31節では、こう述べています。

「それでは、私たちは信仰によって、律法を無効にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」ローマ3:31

このことはイエス様の言葉にも通じます。

「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」マタイ5:17

「愛をもって互いに仕えあう」信仰、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒め。 この言葉を契機として、ガラテヤの信徒への手紙は、この後(5章16節以下)、最後の部分、第三部へと入っていきます。それは「私たちがいかに生きるべきか」と言ういわゆる「倫理」に関する部分です。

(4)痛烈な批判は、愛の戒めと矛盾しないか

さて、私は先ほど7~12節の、パウロの律法主義者に対する痛烈な批判部分を抜かして読みました。このところでパウロが加えている痛烈な批判というものは、言葉にもとげとげしいものがあります。そのことは、パウロが大事なのは「愛によって働く信仰」だと言っていること矛盾するのではないか、あるいは「愛をもって互いに仕え合いなさい」と言っていることと矛盾しているのではないかと思えます。

パウロは律法主義者たちを、10節では「あなたがたを惑わす者」と呼び、12節では「あなたがたをかき乱す者」と呼んでいます。そして最後には、「それほど割礼にこだわるのであれば、いっそのこと去勢してしまったらどうだ」とまで言うのです。これは相手を怒らせるような挑発的な言葉です。というのは、去勢された者というのは、ユダヤの交わりから断たれていたからです。それと同時にここには、一種の皮肉があります。割礼というのは男性の性器の先っぽの包皮を切り取るわけですが、皮の部分だけではなく、いっそ去勢してしまったらどうだ、というのです。しかしこうした痛烈な批判は、「愛をもって互いに仕えあいなさい」という彼の立場と矛盾しないのでしょうか。

それとも、「愛をもって互いに仕えあう」のは、ガラテヤ教会の人々までであって、律法主義者にはあてはまらないのでしょうか。律法主義者には愛をもって接する必要がないのでしょうか。それとも、最初はそのように接していたけれども、愛にも限界があるということでしょうか。弊害の方が大きいから断ち切ってしまうのでしょうか。

むしろこのような不寛容が、今日の私たちの教会、あるいは教団の中にすらあることが大きな問題なのではないでしょうか。そしてキリスト教という枠を超えて、宗教間の対立と言うことも、パウロのこういう不寛容な態度と似たところとがあるのではないでしょうか。一見そのように見えるのですが、必ずしもそうでもないと思うのです。

パウロは、律法主義というものがいかに恐ろしいか、私たちの信仰、せっかく築いてきたものをいっぺんにダメにしてしまうほどの力がある、恐ろしい力があることを見抜いています。そうであるがゆえにこれほど厳しい言葉を述べているのでしょう。それは、「僅かなパン種が生地全体を膨らませる」(9節)というたとえが示しているように、小さなものであっても全体に非常に深刻な致命的な影響を与えるものであることを、一生懸命伝えようとしています。

(5)自己批判を含むものとして

しかしながら、それでもなお、このようにして律法主義者を断ち切ってしまうことによってしか、解決がないとすれば、どうでしょうか。私はそのような思いをもって、この部分を読んでみた時に、もしかすると、こういうことではないかと思いました。

それは、この対立はパウロ自身の内なる葛藤と関連させて理解するべきであろうということです。問題は自分の「外に」ある信仰上の誤りをただ批判することにあるのではない。自分の「内側に」もある誤り、ありうる誤りとの対決なのです。律法学者は「批判すべき対象」として客観的に外に見られているのではないのです。パウロは、彼らを批判すべき、誤ったものとして、外側から見ているのではない。「その誤りは律法主義者の側にある。自分は正しい側にいる。彼らは真理の「敵」である。それに対して自分は既にそのような誤謬から解放された者である。」そういう形で批判しているのではないであろうと思います。そういう形で批判する時に、私たちの宗教的対立は不寛容なものとなり、宗教戦争という出口のない争いになっていきます。非難の応酬はエスカレートし、それが神の名においてなされる時に、もはや和解は絶望的になってしまいます。

確かにパウロは律法主義者を批判しています。しかしパウロは彼らを自分の「外の」敵として、何の痛みも感じないで断罪しているのではありません。彼らの誤りは、彼自身の誤りでもありました。自分もかつてはそういう生き方をしていた。それは今も自分の内に生き続けているかも知れない。いつ出てくるかもわからない。だからこそ、一層厳しく語り続けたのではないでしょうか。それゆえ彼の律法主義批判は、ある意味では自己批判として受けとめるべきであろうと思うのです。テキストの最後に、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉が引用されているのは、まさにそのためではないかと思います。前のところで厳しく批判しながら、最後ではそう語っている。

「互いにかみ合ったり、食い合ったりして、互いに滅ぼされないように気をつけなさい。」(5:15

パウロは、これを自分自身への警告としても語っているのではないかと思います。このことは今日のキリスト教世界、あるいは私たちの日本基督教団について考える時にも、私たちは視野に入れておくべきでしょうし、人類全体というグローバルな目で世界を見る時にもそうでなければならないと思います。

まず自分自身をよく見極め、そこの反省、振り返りから始めるのです。そうでなければ、すべてが悪く見えて、解決方法もなく、泥沼に陥ってしまいます。

(6)映画「桜桃の味」

理論的な話が続きましたので、少し映画の話をしましょう。かつて観た「桜桃の味」(1996年)というイラン映画の中で面白い小話がありました。イランは、今、アメリカとの戦争で大変なことになっていますが、実はすばらしい映画監督をたくさん輩出している映画大国なのです。国を批判して追放された監督もたくさんいます。

この「桜桃の味」という映画は、「友だちのうちはどこ?」などを作ったアッバス・キアルスタミという第一世代の監督の映画です。ストーリーは、人生に絶望し、自殺を決意した一人の中年男が、その自殺を間接的に手伝ってくれる人を探すというものです。仕事というのは、「明日の朝、崖の下の穴に向かって、『何々さ~ん、何々さ~ん』と自分の名前を呼んでくれ。返事があれば、手を引っ張って起こす。返事がなければ、その上に土をかける。」それだけの仕事だと言うのです。彼自身は夜中にそこへ来て、穴の中に横たわって、睡眠薬か何かを大量に飲んで、そこで死ぬつもりでいるわけです。その後で、自分の遺体に土をかぶせてくれる人を探しているのです。そういうアルバイトです。

2人の人に断られた後、3人目でようやく引き受けてくれる老人があらわれます。その人が「老人のたわいもない話だと思って聞いてくれ」と言って、車の中で、勝手にいろんな話をし始めます。彼はこういう話をしました。「自分も実は若いときに自殺を決意したことがある。山で首をつろうと思って、夜中に家を出た。山で、木にひもをかけるために、木に登ったら、おいしそうな果物がなっている。(それが桜桃であったと思いますが、)この世の最後の思い出に、というつもりで、一口それをかじったら、とてもおいしかった。それでもう一つ、もう一つ、もう一つ、と食べているうちに夜が明けて朝になってしまった。それで自分は、〈死〉をそこに置き忘れてきて、代わりにその果物をいっぱいうちに持って帰ち帰ってきた」。そういう話をいたします。その話を聞いているうちに、その中年男の心が少しずつ変わっていくように見えました。

(7)「体中が痛い」という小話

その老人が、ある小話をしました。(その小話を紹介したくて、私はこの映画の話をしているのです。)

「ある人が医者へ行きました。『先生、体中が痛くてたまらないのです。指で頭を押さえると、頭が痛い。指でおなかを押さえると、おなかが痛い。指で胸を押さえると、胸が痛い。腰を押さえると、腰が痛い。足を押さえると、足が痛い。体中が痛いのです。一体どうなってしまったんでしょうか。』お医者さんが、『どれどれ診てあげよう』と言って、あちこち調べるわけですが、そのあげくに、こう言うのです。『どこも悪くない。どうもない。完璧です。ただ、あんたの指の骨が折れとるよ。』」

だからどこを押さえても痛いのです。まあこれは間抜けな男の笑い話(小話)なのですが、非常に示唆的であると思います。私たちの物の見方というのは、往々にしてそういうところがあるのではないでしょうか。それに触れる指が悪ければ、体中が悪いように思えるのです。人生すべてが何でこうなのだろうか。自分にはどうしてこんなに恵まれていないのだろうか。どうしてこんなに不幸ばかり続くのだろうか。何をやっても、どこへ行っても悪いことばかり。もういっそのこと死んでしまいたい、ということになる。この中年男もそうだったのではないでしょうか。

ちなみに、その男は、その老人と翌朝のことを約束して、別れます。ところが、何を思ったか、突然、引き返して、その老人を必死になって捜すのです。そして見つけだして、こう言うのです。

「明日の朝、私の名前を二回ではなく、三回呼んでくれ。もしかしたら、聞こえないかも知れない。いやもしかしたら、ただ眠っているだけかも知れないから。肩を揺さぶってみてくれ。起きるかも知れない。」

その時、彼の中では、すでに何かが変わり始めているわけです。世界を別のめがねで見始めています。ほのかな希望の光が、彼の人生を再び照らし始めたのです。彼は予定通り、その日の夜、その穴の中に横たわります。彼は穴の中で夜空をながめています。やがて雷が鳴り、雨が降り始めます。彼はそこでまんじりともせずに、身を横たえているのです。

映画はそこで突然、終わります。何のしかけもない映画です。映画の3分の2以上の場面は、車の中の対話という非常に安上がりの映画です。しかし大事なメッセージをもっている映画だと思いました。ぜひみなさんもご覧になるとよいと思います。『桜桃の味』という映画です。

(8)愛されていることを知る

私たちにも、突然世界が全く違って見えるようになることがあります。それは「私たちが愛されている存在である」ことを知る時ではないでしょうか。それを知ることによって、それまで灰色だと思っていた世界、どこへ行っても不幸ばかりだと思っていた世界が全く違って見えてくるのではないでしょうか。

「この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。」「きょうだいたち、あなたがたは自由へと召されたのです。」

私は、この5章1節の言葉、そして5章13節の言葉は、そういう世界をかいま見せてくれるのではないか、と思います。

そこには、キリストのすべてがあります。キリストがすべてをかけて、私たちを愛された。そのように愛された者であるから、あなたも愛に生きるようにならなければならない。いやその愛をしっかりと感じとる時に、あなたも愛に生きるようになることができる。「自由へ召される」と言っても、それは「愛する自由」です。「愛されることを知った者の、愛する自由」へと召される、ということです。

パウロは、7節で「あなたがたはよく走っていた」と述べています。信仰生活というのは、私たちがキリストの愛を受けて、それを原動力として、この世の旅路を走り抜くことであると言うこともできるでしょう。しかしながら、自分の力以上に走らなければならないと思って走る時には、つまずきもするでありましょう。むしろ私たちはその愛を受けて、転ばないでしっかりと歩いていくこと、歩んでいくことが大切ではないかと思います。

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