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2022年9月18日説教「幸せにするため」松本敏之牧師

申命記8章1~4,11~18節
マタイによる福音書4章1~4節

(1)申命記

鹿児島では、これまでに経験したことのないような大型台風14号が接近しているということで、今日は数名で礼拝を守ることになりました。多くの方は動画で参加してくださっていることと思います。

鹿児島加治屋町教会独自の一日一章の聖書日課は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記を終えて、先週の水曜日9月14日から旧約聖書の5番目の書物である申命記に入りました。

申命記は、出エジプトの旅の終わりを扱います。民数記の終わりのところでようやく、イスラエルの人々は、「約束の地」カナンの入り口までたどり着きます。モアブの地の北の果てです。このところでモーセは、長かった40年の荒れ野の旅を振り返り、恵みを思い起こすのです。今日は、高齢者祝福礼拝の予定でありました。それは来週に延期しましたが、それぞれの人生を振り返って、主の恵みを思い起こすのは、高齢者祝福礼拝にふさわしいテキストであると思いました。

あの十戒を中心とするシナイ契約の精神を、もう一度説き聞かせます。十戒そのものももう一度、出てまいります(申5章)。そしてモーセは、イスラエルの人々に、それを守るようにと遺言のように語り、死んでいくのです。それがいわば申命記の内容です。

ちなみに申命記という日本語の題名は、漢訳(中国語)聖書から転用した題名です。「申命記」の「申」というのは「重ねて」という意味であり、「申命」は「重ねて命じる」という意味だそうです(英語ではDeuteronomy という言葉です)。ですから、申命記は、全体がモーセの告別説教のようなものと言ってもよいかも知れません。少なくとも、そういう体裁をとっています。

(2)人は神の言葉で生きる

今日は、申命記の中で、40年を振り返ることが最も鮮明に表れている8章を読んでいただきました。1節から18節まで全体をお読みしたかったのですが、長いので、途中を省略し、最初と最後だけにしました。

この中に有名な言葉が出てきます。それは3節後半の次の言葉です。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」出エジプト8:3

これは旧約聖書の言葉というよりも、荒れ野の誘惑で、イエス・キリストが、悪魔から「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と誘惑をしてきた言葉への答えとして語られた言葉として有名です。

イエス・キリストは、荒れ野で悪魔から三つの誘惑を受けるのですが、一つ目がこの「空腹」あるいは「飢え」という試練・誘惑でありました。「空腹」というのは、いかにも人間的なものです。イエス・キリストがただ神の子として、私たち普通の人間とは違う高いところに立っておられたのではなく、私たちと同じ高さ、低さで、私たちと同じ悩み、苦しみを共有されたのだということを思わせられます。

私たち人間にとって最も切実な問題は、どうやって生きていくか、どうやって食べていくか、ということでありましょう。食べ物のことです。これが根本問題です。この保障なくしては、どんなに高尚な話をしても、人生の問題の解決にはならないのです。ですからイエス・キリストも、「主の祈り」で、「罪の赦し」や「誘惑や悪からの救い出し」を祈るよりも前に、「日ごとの糧」の祈りを教えられたのです。

イエス・キリストは、悪魔の誘惑に対して、こう答えられました。

「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」マタイ4:4

確かに、神の子イエス・キリストであれば、悪魔の言ったように、石をパンに変えることも可能であったでしょう。しかし、イエス・キリストは神の子としての力、奇跡を起こす力を、自分のためには用いられなかったのです。そこで奇跡で石をパンに変えて食べるということは、私たちと同列ではなくなるということを意味しています。また神に信頼することをやめて、神の声ではない他の声に聞き従うことでありました。

神様は決して、私たちを飢えさせて困らせようとしているのではない。必ずや必要なパンを与えてくださる。その信仰、その信頼こそが私たちを生かすのです。ですから、この言葉の後半の「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉の中にこそ、深いメッセージがあります。

(3)ゴールを目前にして

さて、この申命記8章の言葉は、出エジプトの後、40年間荒れ野の旅をし、ようやく約束の地カナンに入ろうとしているイスラエルの民に向かって語ったモーセの言葉です。

「あなたの神、主がこの40年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」8:2

この時、みんなの気持ちはゴールを目前にして、前へ前へと向かっていたことでしょう。40年を振り返る時でありますが、胸が高鳴ります。希望が膨らみます。それはちょうどすでに高校や大学に合格し、入学を待っている人、また就職試験に合格し、実際に新しい生活が始まる直前の人のようなものかもしれません。あるいは結婚式の前夜、と言ってもよいかもしれません。新しい生活がもうそこまで来ている。その約束はすでに手に入れている。しかしまだ始まっていない。そのような状況です。

モーセは、そういう時にこそ、過去を振り返れ、というのです。「苦しいこともあったであろう。つらいこともあったであろう。その時、あなたたちはどんな気持ちで過ごしていたか。そこにも実は神様の御心はあったのだ。あなたたちが見放されたように感じた時も、すでに神様の御心は存在していたのだ。そのような試練を通して、あなたたちの心を吟味しようとされたのだ。」

しかしその吟味はふるいわけるためではなく、信仰へと導くためでありました。それは続きを見れば、わかります。

(4)試練を与えつつも、養う

「そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。」8:3

そして先ほどの言葉が続きます。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。」8:3

ここに試練の目的が書かれています。神様は苦しめ、飢えさせるだけではなく、直後にマナを与えられた。(マナというのは、天から降ってくる不思議な食べ物です。)私たちが自分で働いて得たのだと思わないためです。つまり直接、食べ物を与えることによって、本当に養っておられるのが誰であるかを伝え、それによって、人は根源的には、神様によって生かされて生きているのだということを伝えようとされたのです。だから試練を与えるだけではなく、ちゃんと養ってくださった。

「この40年の間、あなたの着ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった。」8:4

必要なものはすべて与えられた。振り返ってみれば、それがわかるだろうというのです。

「人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」8:5

私たちは試練の中にある時にこそ、この言葉を思い起こしたいと思います。振り返ってみれば、それがわかるのですが、試練のただ中にある時には、それが見えなくなります。「どうしてこういう目にあわなければならないのか。見捨てられているんじゃないか。」そうではない。見捨てず、ちゃんと養い、また逃れの道を備えてくださっているのです。それはパウロがコリントの信徒への手紙一10章13節で述べた通りです。

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」コリント一10:13

(5)パズルのようなもの

なぜそんなことをなさるのか。愛しておられるからです。訓練するためです。親が子を訓練するのは当たり前。神様もそのようにして、愛する私たちを訓練されるのです。それはやがてより大きな試練に出会った時、それを乗り越えられるように、そして神様に立ち帰って行くためであります。モーセは、ここで最終目的、神様の試練の本当の目的を語ります。

「(主は)あなたの先祖も知らなかったマナを、荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には幸せにするためであった。」8:16

「ついには幸せにするため」、ここに神様の御心があります。

ちなみに新共同訳聖書では「幸福にするため」でしたが、私は「幸せになる」という新しい訳のほうが好きです。「幸福になる」というと、何かまだよそよそしさがあります。

先日ラストコンサートをした加山雄三が、彼の一番のヒット作の中で語る有名なフレーズがあります。「幸せだなあ。僕は君といる時が一番幸せなんだ」というあの言葉も、「僕は幸福だなあ。僕は君といる時が一番幸福なんだ」だと何だかよそよそしいですね。高齢者の皆さんならば、皆さん、ご存じのフレーズでしょう。今日は高齢者祝福礼拝だということで、このフレーズを共有したいと思っています。みなさん、その通りとおっしゃるかもしれません。

さて、しかしなぜ神様に立ち帰ることが幸せにつながるのか。それは、人間というものがそのように創られているからと言えるのではないでしょうか。こう語ったのは、アウグスティヌスです。アウグスティヌスは、その著書『告白』の冒頭で、こう言っています。

「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです。」1巻1章

神様は私たち人間を自由な意志をもつものとしてお造りになりました。ですから、私たちは神様の方を向いて生きることも自由ですし、神様に背を向けて生きることも許されています。しかし神様に背を向けて生きる時、そこには本当の安らぎはない。うまくかみ合わないパズルのようなものです。神様が人間の方を向いている。私たちも神様の方を向いて創られている。それは共に向き合っている形です。横を向いていても、背を向けていてもいいのだけれども、何かガタガタしてぴったりはまらない。あっちを向いてみたり、こっちを向いてみたり。落ちつかないのです。何かがずれている。しかしそれをずーっと動かしている間に、ぴたっとはまる場所がある。それが神様の方を向いて生きるということです。そこで私たちは本当の安らぎを得るのであり、本当の幸せを得るのです。

もう一度、アウグスティヌスの言葉を読みます。

「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです。」

アウグスティヌス自身が、いろんなことを経験しながら、最後に到着した心境でありました。そこにこそ、私たちが本当に幸せを得る道があるのです。

(6)幸せを妨げるもの

幸せとは何でしょうか。それは必ずしも富を得ることではないでしょう。富はかえって人を幸せから遠ざける危険もあります。なぜなら、それは人を傲慢にするからです。そして神を忘れさせるからです。モーセも今や、夢を実現しようとしているイスラエルの民に向かって、こう言うのです。

「あなたの神、主を忘れないようにあなたは注意し、今日あなたに命じる戒めと法と掟とを守りなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が増え、銀や金が増し、あなたのあらゆる持ち物が増えるとき、心が驕り、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出されたあなたの神、主を忘れないようにしなさい。」8:11~14

モーセは、人がひとたび、富や地位や名誉を手にしたら、どういう風になるかを見抜いています。どんな人でもそうなりがちです。

そしてこの言葉と先ほどの言葉を照らし合わせれば、人が傲慢になる、そこには本当の幸せはないということを語っているように思います。

苦しい時には真剣に祈っていたのに、そうでなくなると、祈ることすらやめてしまう。苦しい時には、神様はすぐそこ、手に届くところに感じていたのに、そうでなくなると、神様がわからなくなってしまう。

私たちを神から引き離すものは、ありとあらゆる方向から近づいてきます。困難、苦難が続く時に、「どうして神様はこんなことをなさるのか」と疑います。「神様がいたらこんなことをなさるはずがない。神様なんていないのだ。」と思ってしまいます。これも誘惑です。しかし逆に、富や名誉や成功も私たちを傲慢にし、神様から引き離してしまうのです。それでいて、富や名誉や成功は、私たちをそこによりかかってしか生きられない人間にしてしまう。これも悪魔の巧みな誘惑なのでしょう。

(7)貧しさと豊かさの両方を見据える

しかし聖書は富そのものが罪とは言っておりません。富は悪だとも言っていません。大きな誘惑だと言っているのです。富そのものは、神様からの祝福でもあります。モーセはこう言うのです。

「あなたは自分の強さと手の力で、この富を生み出したと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。この方が、あなたに力を与えて富を生み出させ、先祖に誓われたその契約を実行し、今日のようにしてくださったのである。」8:17~18

私たちは、自分で働いて、お金を得て、そして食べ物を得ます。それは自分の力でやっていることだと思っています。あるレベルでは、もちろんそれは正しいことですが、しかしそのような営みそのものが、神様の支えなしには、成り立たないということをわきまえておくべきでありましょう。

この申命記8章のモーセの言葉は、貧しさと豊かさ、試練と成功、この両方を見据えています。両方の境遇にいる人間に向かって、神に立ち帰るようにと勧めるのです。

そこにこそ、わたしたちが憩いを得る場所があり、幸せに生きる道があるからです。いわば、パズルのはまりどころです。ですから、私たちが試練のただ中にある時も、成功とこの世的な意味での幸せの中にある時も、この言葉を思い起こしたいと思うのです。

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