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2022年4月17日説教「なぜ泣いているのか」松本敏之牧師

ヨハネによる福音書20章11~18節

(1)泣き続けるマリア

イースター、おめでとうございます。

私たちは昨年のイースターの日に、ヨハネ福音書20章1~10節に記された復活物語を読み、「二人は走る」と題してお話しました。そのメッセージを短くまとめた「ヨハネ福音書を読もう」のプリントを、本日、配布させていただきました。今年はその続きである20章11~18節を共にお読みしました。

イエス・キリストの復活の記事は大体二通りに分けられます。ひとつは「お墓に行ったけれども、イエス・キリストの遺体がなかった」という客観的事件、もうひとつは「復活されたイエス・キリストが弟子たちの前に姿をお見せになった」という報告です。ヨハネ福音書の記事は、その二つのこと、客観的事件と復活の主イエスとの出会いとが織りなされて一つの形で報告されています。

安息日が終わって日曜日の朝早く、マグダラのマリアは、イエス・キリストのお墓に行きました。マリアは主イエスのお墓の墓石が取り除けてあるのを見ると、急いでペトロともう一人の弟子のところへ、それを知らせに行きました。それを聞いたペトロともう一人の弟子が急いで墓に行ったというのが、前回読んだ物語でした。

この二人が家に帰って行った後、マグダラのマリアはいつのまにか再び墓の前にいます。とんぼがえりでお墓に戻ってきたのでしょう。だとすれば、一往復半したことになります。走っても片道20分はかかる距離であったようですので、1時間以上も、歩き、走ったのでしょうか。

二人の弟子は、イエス・キリストが復活されたということを、半信半疑ではありましたが、とにかく信じて家に帰って行きましたが、マグダラのマリアは、いつまでも墓の外に立って泣いています。イエス・キリストの死を悲しみつつ、なおあきらめきれないで一人泣いているのです。マリアはイエス・キリストの「体」がないことにこだわり続け、考え続け、そこから前に進むことができません。彼女は家に帰らない。家に帰ったとしても、彼女の悲しさと寂しさを慰められる人は誰もいません。

マリアは泣きながら、身をかがめてお墓の中をのぞき込みました。ペトロともう一人の弟子に知らせに行く前もきっとそうしたのでしょう(1節)。彼らが帰った後、再び中をのぞき込みます。納得がいかず、何度もそうしたことでしょう。

(2)「もう泣かなくてよい」

その時、イエスの遺体の置いてあった場所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。彼らは「女よ、なぜ泣いているのか」(13節)と声をかけました。前の聖書では「婦人よ」となっていましたが、新しい訳では「女よ」に変わりました。「婦人」という言葉は古い日本語ということになったのでしょう。

マリアはこの問いに、思ったまま正直に答えます。「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません」(13節)。天使は、イエスの遺体が無くなっていることは知っているはず、そのためにマリアが泣いていることも知っているはずです。それでいて尋ねるのは、「あなたはもう泣かなくていいのだよ」ということを悟らせようとしているのでしょう。マリアに対するやさしい思いやりでもあり、彼女をゆさぶる言葉でもあります。

この問いの意味を悟らないマリアに対して、今度はイエス・キリスト自身が近寄って来られました、彼女も後ろを振り返り、誰かが自分の後ろに立っているのを認めるのですが、それが誰か分からない。泣いている顔を見られたくなかったのかも知れません。ちらりと見て、すぐにお墓の方へ目をやるのです。イエス・キリストはマリアに語りかけます。「女よ、なぜ泣いているのか」(15節)。これは天使の言葉と同じです。彼女はそれでもまだ気づかないので、さらに「誰を捜しているのか」(15節)と問われました。それは、「あなたの捜している者はここにいる」ということなのです。

(3)イエスの遺体を求めるマリア

マリアはそれでもまだ主イエスだとわかりません。園の番人だと思って、こう答えます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私があの方を引き取ります」(15節)。

ここでマリアが求めているものが何であったのかがはっきりします。マリアはイエス・キリストの「遺体」を求めていたのです。それはマリアが自由に取り扱うことのできる「物」です。マリアは自分が処理することのできる「物」を求めている。「私が引き取ります。」その意識にとらわれているので、すぐ後ろを振り返っても、声をかけられても、気がつかないのです。イエス・キリストが復活されて生きておられるということは、彼女の意識にはありません。

確かにマリアをお墓へと一目散に駆けつけさせ、いつまでも墓の前にとどまらせたものはイエス・キリストへの愛情であり、こだわりでした。しかしそのイエスは過去のイエス・キリストであり、思い出のイエス・キリストです。「あの時、自分を救ってくださった。あの時、自分の体から7つの悪霊を追い出してくださった」(ルカ8:2参照)。過去の思い出が彼女を支えているのです。そしてその思い出を大事にし、自分の命のある限り、イエスの墓を守り続けたいと思っていたかも知れません。

彼女はイエスの思い出に生き続けている。その過去のイエスへのこだわりが、逆に復活して今生きているイエス・キリストと出会うことを妨げているのです。

(4)思い出、知識という妨げ

これは私たちにもあることではないでしょうか。もしかすると、私たちもまたこのマリアと同じように、過去のイエス・キリスト、自分の知っているイエス・キリストに固執していないでしょうか。「あの時、イエス・キリストに出会った。」すばらしいことです。しかし信仰とはそれだけではありません。相手は生きているのです。生きていれば、その関係も変わってきます。

「昔、教会学校に通った。その時、歌った歌が今も自分の心にある。ふと教会を訪ねてみると、今も同じ歌が歌われている。感動した。タイムスリップしたように、昔の自分がよみがえってきた。」それはそれでよいことでしょう。しかし信仰とは、過去に立ち返ることだけではない。「ごぶさたしているうちに、教会も随分変わりましたね。讃美歌も変わりましたね。」当然です。生きているのですから。「聖書も変わりましたね。」聖書も今の言葉に変わっていくものです。

私たちは「キリスト教とはこういうもの」、「イエス・キリストとはこういうお方」、「教会とはこういうところ」、そういう風に、自分なりにわかってしまっていないでしょうか。もしもわかってしまっているとすれば、それは過去のキリストであり、死んだキリストではないでしょうか。私たちの手の内にある、私たちが引き取ることができる、私たちが処理できるキリストではないでしょうか。

ところが聖書は、「イエスはもうそこにはおられない。もうお墓の中におられない」と告げるのです。私たちは死んだイエス・キリスト、過去のイエス・キリストから、生ける命のイエス・キリストへと、向き直らなければなりません。

(5)「マリア」「ラボニ」

マグダラのマリアは自分の思っている方向にしか、答を見出そうとしないので、いつまで経っても復活の主がわかりません。このすれ違いの問答に、イエス・キリストの方から突破口が開かれます。主イエスは「女よ」という一般名詞ではなく、「マリア」と名指しで呼ばれるのです。この瞬間、彼女ははっとしました。

自分が捜していたのとは違うところに、しかもすぐそばに、イエス・キリストはちゃんといてくださいました。「マリア」という呼びかけに対して、彼女は「ラボニ」と答えました。これは「私の先生」という意味です。「ラビ」という言葉を、もっと親しくした言い方です。「マリア」、「ラボニ」。これまで何度も呼び交わされた言葉であったのでしょう。彼女にとっては「女よ」という呼びかけと「マリア」という呼びかけには、決定的な違いがありました。

イエス・キリストは、私たちを十把一絡げに呼ばれません。私たちの名前をみんな知っておられて、かけがえのない人格として、名前で呼ばれるのです。ヨハネ福音書10章には、こう記されています。

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」「羊はその声を知っているので、付いて行く。」(ヨハネ10:3、4)

彼女はその声を聞いていてもまだわかりませんでしたが、自分の名を呼ぶ声に、はっとしたのです。

(6)「私に触れてはいけない」

マリアは、なつかしさとうれしさのあまり、イエス・キリストにすがりつこうとしました。そのマリアに対し、今度はイエス・キリストはこう言ってさえぎられました。「私に触れてはいけない。まだ父のもとへ上っていないのだから。」(17節)

そして一つの命令を出されます。「私のきょうだいたちのところへ行って、こう言いなさい。『私の父であり、あなたがたの父である方、また、私の神であり、あなたがたの神である方のもとに私は上る』と。」(17節)

イエス・キリストからマリアへ託された大事な伝言でありました。マグダラのマリアは、その後、弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と証言をし、そして主から言われたことを伝えました。

さて、先ほどのイエス・キリストの「私に触れてはいけない」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。「まだ父のもとへ上っていないのだから」という言葉が、それを説明しているようですが、私はどうも、それだけではないように思います。私は、マリアが自分に触れないようにするための、一応の理由として、いわば方便として、そう語られたのではないかと思うのです。

イエス・キリストは、この後、弟子たちの前に現れ、その時にいなかったトマスのために、再び姿を現されることになります(ヨハネ20:24~29)。そしてこのトマスに対しては、マリアに対してとは、まるで反対のことをおっしゃるのです。「自分の手で触ってみなさい。この釘跡に、お前の指を差し込んでみなさい。」マリアに対しては、「触るな」と言われたのに、トマスに対しては、「触ってみろ」と言われた。

このところでも、イエス・キリストは、一人一人違った形で、人格的な触れ合いをなさったということがわかります。このトマスとマリアの違いは一体何であったのでしょうか。再会した時には、誰だって抱き合いたいでしょう。日本人はそうではないかも知れませんが、ブラジルではそういう時は必ずハグをします。今はコロナ禍なので、そうではないかもしれませんが、そうやって一緒にいるということを喜び合いたいと思うのではないでしょうか。

それなのに、このイエス・キリストの、拒絶とも見える態度は何を意味しているのでしょうか。私は、マリアに対して、いつまでも過去の関係、過去の「マリア」「ラボニ」という関係に寄りかかっていてはいけないということを、伝えようとされたのではないかと思うのです。

(7)過去から未来へ

復活というのはなつかしい過去がそのままよみがえって思い出される、ということではありません。もう1回、昔の関係に戻れるということではありません。そこには一つの断絶があります。復活とは、過去と断絶して、新しい方向に向き直ることです。過去に向いていた私たちの目が、大きく未来へと方向転換させられることです。古いものがもう一度出てくるということではなくて、古いものが新しくされるということです。それが復活です。将来に向けられた新しい命の始まりを意味しております。

教会もそうではないでしょうか。教会が過去にこだわり続ける時、復活のイエス・キリストに出会い損ねることがあるかも知れません。復活のイエス・キリストを見失うことがあるかも知れません。私たちが過去の思い出や人間的ななつかしさにより頼んで、それによって結びつこうとする時に、教会は復活の主を見失うことがあるかも知れません。私たちが自分の知っているイエス・キリストにこだわり続ける時、それはイエス・キリストの死体であるかも知れません。私たちが過去にこだわって見ているところには、主はおられないのです。振り返ったところから、召し出される。この復活の主の呼びかけに応えて、私たちも新しく生き始めましょう。

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