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2022年3月20日説教「信仰告白と受難予告」松本敏之牧師

マルコによる福音書8章27~33節

(1)宗派を超えた平和の祈りの行進

ロシア軍のウクライナ侵攻が停滞しつつも、退く気配はなく、とても心配な日々が続いています。昨日のニュースと今朝の新聞では、ウクライナ南東部マリウポリで、市民の避難場所になっていた劇場が空爆を受け、数百人の人たちは今も生き埋めになっていると報じられていました。ウクライナ国内外への避難民の数は、1千万人に迫り、また1千2百万以上の人が戦闘などにより危険地域から逃れられず立ち往生しているとのことでした(国連移住機関IOMの発表)。私たちも祈りに覚え、またその祈りを形にしていきたいと思います。

鹿児島には、2011年の3・11以降、宗教を超えて共に祈り合おうということで、「宗教者懇和会」というグループができています。仏教、キリスト教、神道、そして立正佼成会などの新宗教も連なっています。毎年8月6日に「原爆の火」(曹洞宗の鎌田和尚が広島の原爆の火を福岡県の方から分けてもらって、それを消さずにともし続けている火)を掲げて「平和の巡礼」行進をしたりしています。こういう宗派を超えた行事は東京のような大都会では難しいことですが、鹿児島のような地方都市だからこそ実現しているのだと思います。

その宗教者懇和会が3月6日に「宗派を超えた祈りの平和行進」と行いました。鹿児島のローカルニュースでも放映されましたので、ご覧になった方もあるかもしれません。まだ戦闘が続いているということで、本日の午後、第2回目を行うことになりました。週報に記しましたが、15時から天文館大通りでウクライナ難民の人たちのための募金活動をし、16時から「平和を求める祈りの行進」を行います。

カトリックのザビエル教会から出発して、高見馬場、天文館、いづろ通り、西本願寺、照国神社のルートで祈りの行進をします。私は、この牧師ガウンで参加しますが、各宗派の正装で共に祈り、共に歩くということ自体が大きな意味をもっていると思います。よかったらどうぞご参加ください。

(2)福音書の折り返し点

さて受難節に入り、3回目の日曜日を迎えました。今日は、日本キリスト教団の本日の聖書日課によって、説教いたします。

新約聖書のマルコによる福音書8章27~33節ですが、その少し先の部分も含めてお話します。マルコによる福音書のちょうど真ん中あたりに位置しますが、実は、この箇所は福音書の中で、とても重要な折り返し点になっています。福音書は、ここから新しい部分に入るのです。これまでの箇所は、ガリラヤから出発した主イエスの宣教活動がどんどん広がっていったことを記していました。人々の病をいやし、パンと魚の奇跡でもって多くの人々に食事をお与えになりました。主イエスの評判も高まり、多くの人々が主イエスのまわりに楽しそうに集まりました。この期間はよく「ガリラヤの春」と呼ばれます。この後の主イエスの活動は、そうしたことから十字架に向かって集中していきます。

ここは地理的にもひとつの折り返し点です。この舞台となったフィリポ・カイサリア地方はガリラヤよりもさらに北、ヨルダン川の源流です。

聖書巻末の地図を開ける方は、開いてみてください。聖書協会共同訳聖書では、「9イエス時代のパレスチナ」という地図です。地図の中央に流れるのがヨルダン川です。川の終点が死海です。死海は海抜がマイナス400メートル、つまり海よりも400メートルも低いので、出口なしです。縦に長い死海の左上のほう(北西)にエルサレム、ベツレヘムなどがあります。ヨルダン川をさかのぼっていきますと、ガリラヤ湖があります。そこがイエス・キリストのこれまでの活動舞台でした。ガリラヤ湖からさらにヨルダン川を北上しますと、小さな湖があります。この地図では名前が記されていませんが「フーレ湖」という湖です。そのさらに北東に、今回の会話に出てくるフィリポ・カイサリア地方があります。ここはイスラエルの北限になります。

主イエスと弟子たちは、フィリポ・カイサリア周辺の村々を歩きながら、「その途中で」歩みを止めます。「途中で」と書いているのは、共観福音書の中でマルコ福音書だけです。ここから主イエスの一行は、ヨルダン川を下るようにして、ガリラヤを通り越してエルサレムへなだれ込んで行くことになります。

(3)あなたはメシアです

この北の果ての地域で、主イエスはまず弟子たちに、「人々は私のことを何者だと言っているか」(27節)とお尋ねになりました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネだと言っています。ほかに、エリヤだと言う人、ほかには、預言者の一人だと言う人もいます」(28節)と率直に答えました。

これらは、それぞれに「イエス・キリストはただ者ではない」ということを認めた言い方です。人間としては最高の評価でしょう。現代にいたるまでにも、イエス・キリストに対して、さまざまな評価がなされてきました。「人生の教師」、「宗教的天才」、「社会正義の実現者」、「偉大な革命家」、「社会の解放者」。私たちも多かれ少なかれ、最初はそういうふうに考えて教会の門をくぐるのではないでしょうか。しかしそのうちに何か事情が違うということに気づくのです。人生の「教師」としてイエス・キリストを見、人生の「学校」として教会をとらえる人は、やがて卒業して去って行きます。イエス・キリストは、教師として道や真理や命を指し示すだけではなく、道そのもの、真理そのもの、命そのものとして指し示される存在なのです(ヨハネ14章6節参照)。このことに気づく時に、信仰の転換が起こります。

イエス・キリストは、次に「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」(29節)と、直接、弟子たちに切りこんでこられました。私たちは人のことばかり語って、自分の態度をごまかすことがありますが、求められているのは「私」自身の態度決定であり、告白、証言なのです。洗礼に際しても信仰告白が求められます。それは結婚の誓約に似ています。調子のよい時だけではなく、どんな時にも(健やかな時も、病める時も)相手に対する誠実さを保つ誓いをするのです。主イエスの問いかけに対して、シモン・ペトロはまっすぐに、「あなたは、メシアです」(30節)と答えました。

(4)メシアの秘密

そういう信仰告白をしたペトロに向かって、主イエスは「ご自分のことを誰にも話さないように」と戒められました。これは「メシアの秘密」と呼ばれることで、これこそが福音書の折り返し点をよく示しているものです。

ここから弟子たちに対する特別な訓練、弟子訓練が始まっていきます。それまでは、弟子たちももちろん民衆たちも、メシア(キリスト、油注がれた者)というのは自分たちをローマの圧政から救い出してくれるスーパーヒーロー、スーパースターをイメージしていました。しかしそうではない。真のメシアであるとは、いったいどういうことなのか。何を意味するのか。主イエスは、選ばれた弟子たちにだけ、その秘密を明かされるのです。続けてこう言われました。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始めた。」(31節)

さらに、マルコ福音書では「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」(32節)と、わざわざ書いています。これはマルコだけが書き残していることです。

(5)イエスをいさめるペトロ

それを聞いて、「ペトロはイエスを脇へお連れして、いさめ始めた」とあります。マタイ福音書では、その言葉まで記しています。

「『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」(マタイ16:22)

「とんでもないことです」というのは、文字どおりに訳せば、「あなたに憐れみがありますように」ということです。ペトロにも、主イエスの言葉の意味がわかりませんでした。主イエスは頭がおかしくなってしまったか、将来を悲観的に考えすぎているくらいに思えたのでしょう。ペトロは、主イエスのことを励まそうとしたのでしょう。しかし、それはペトロの人間的判断によってでした。私たちはたとえ善意であっても、神の計画を邪魔するように働くことがあることを、覚えておかなければなりません。

そのペトロに向かって、主イエスはどきっとするほど、厳しい言葉をかけられました。

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」(33節)

ペトロは、ついこの前のところでは、主イエスに向かって、「あなたはメシアです」(29節)と立派な信仰告白をしたばかりであるのに、ここでは主イエスを飛び越えてしまって、主イエスよりも上に立っているようです。私たちは、どこまでも主イエスの後ろからついて、従って行くのです。

後ろから従わずに、飛び越えて行ってしまう時、私たちは大事なことを聞き漏らします。ペトロもこの時、主イエスが「苦しみを受けて殺され」るとおっしゃったことに気を取られているうちに、「三日の後に復活することになっている」という大事なことが耳に入らなかったのかなと思います。

(6)自分の十字架を負って

その後、主イエスはこう続けられました。

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」(34節)

イエス・キリストに従うには、二つのことが必要です。第一は「自分を捨てること」、第二は「自分の十字架を負うこと」です。

「自分を捨てる」のは、なかなか難しいことです。マルコ福音書10章17節に登場する「金持ちの男」も、せっかくイエス・キリストのところへ来ながら、「自分を捨てること」ができなかったがために、「顔を曇らせて、悩みつつ」立ち去ることになりました(マルコ10:22)。この世には、立派な業をする人がたくさんいます。人のために尽くし、そのために大きなお金を使う人もいます。クリスチャンでもそうでしょう。クリスチャンにこそ多いかもしれません。しかしそうしながら、誰にも踏み込ませない、自分だけの領域をしっかりと握り締めていることが多いのではないでしょうか。信仰をもっていてもそういうことがあると思います。神様にも明け渡していない、自分だけの領域をもっている。自分で自分をしっかり守りながら、人に奉仕をし、神様に仕える。その範囲内でキリストに従う。もちろんそれでもの意味はあります。特に人に対して、そしてこの世界に対しては意味があります。しかし自分自身では、神様に明け渡していない自分のことを一番よく知っています。それでは、一番深いところで「自分は救われだ」「自分は解放された」ということにはならないのではないしょうか。古い自分に死に切っていないのです。「自分を捨てる」とは、それまで自分中心に生きてきたものを改め、神中心に生きるようになるということです。根源的なところで、自分(あるいは自分のもの)に頼るのか、神様に頼るのか。私たちは、自分を明け渡した部分でのみ、恵みを受けるのです。自分を明け渡していないところでは恵みは入って来ないのです。

(7)自分の頑なな考えを捨てる

またこの「自分を捨て」というのは、そういうことだけではなく、「自分へのこだわりを捨てる」ということも含まれるのではないでしょうか。別の言葉で言えば、自分の信仰へのこだわり、自分の頑なな考えということもできるかもしれません。「キリスト教だけが本当の宗教であり、他の宗教は本当の宗教ではない」と思っているクリスチャンの方は多いかもしれません。でもそういう考えのもとでは、他の宗教の人と共に歩む、共に生きていく、共に平和の行進をするというのは難しいことです。

でもそういうこだわりを捨てて、すべてを神様に委ねていく時にかえって「新しい命を得る」ということもあるのではないでしょうか。イエス様もクリスチャンのためだけに十字架にかかられたわけではなく、すべての人のために十字架にかからたお方であります。

そうだとすれば、「自分の十字架を負う」というのは、それぞれの仕方で、イエス様と同じようになり、イエス様と共に十字架を負っていくということでしょう。そこではキリスト教世界、クリスチャン・ワールドを超えたところでこそ大きな意味があるのではないかと思います。

自分の小さな頭(固定観念)で判断して行動しようとする時、かえってイエス様が考えてしまって、あるいはイエス様をとび越えてしまい、イエス様に「サタンよ、引き下がれ」と言われることになるかもしれません。そこで広く、心をイエス様に向け、「イエス様ならどうなさるかな」ということを考えながら、その後ろから従っていくものとなりたいと思います。

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