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2022年2月20日説教「いやしと赦し」松本敏之牧師

マルコによる福音書2章1~12節

本日も、動画礼拝が続いています。新型コロナ・ウイルスのオミクロン株の拡大が続いていますが、皆さん、お元気でいらっしゃいますか。本日は、日本キリスト教団の聖書日課によって説教をいたします。マルコによる福音書2章1節から12節までです。

(1)家におられた主イエス

1月23日には、マルコによる福音書1章31節以下の「汚れた霊に取りつかれた男を癒す」という記事をテキストにお話しました。「イエスの正体」という題を付けました。それはカファルナウムという町であったこと、カファルナウムは主イエスが「ご自分の町」として特別に愛された町だということを申し上げました。今日の2章1節以下の記事も、そのカファルナウムでのお話です。こう始まります。

「数日の後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。」(1節)

主イエスはこのカファルナウムを拠点としながら、ガリラヤのさまざまな町で宣教活動や癒しをなさったのでしょう。そして疲れたら、カファルナウムで疲労回復して、また働きに出られたのでしょう。家におられたというのです。誰の家かは書いてありませんが、カファルナウムの誰かが主イエスに提供した家であったのかなと思います。

家に着いたかと思うと、休む間もなく、人々が押し寄せてきました。お話を聞きたいと思った人たちです。癒しをして欲しいと思った人たちもいたでしょう。中には、主イエスが癒しをなさるのを見たいと思った、興味本位の人もあったかもしれません。

「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまで全く隙間もないほどになった。」(2節)

ぎゅうぎゅう詰めです。今だったら、密集、密閉、密接の三密状態で完全にアウトですね。立錐の余地もありません。そういう状態の中、イエス・キリストはお話をしておられました。何を話しておられたかは書いてありませんが、1章に出て来るエピソードで言えば、14節にあるように、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というような話をされていたのでしょう。

(2)屋根を剥ぐ4人の人

そこで事件は起きます。

4人の男が体の麻痺した人を担いで、イエスのところへ運んで来ました。「体の麻痺した人」というのは、これまでの新共同訳や口語訳では「中風の人」となっていました。しかし中風という日本語は、いわゆる脳卒中などの脳血管障害の後遺症としての機能障害として用いられることが多いものですが、この原語は単純に「体の麻痺」を指す言葉なので、新しい訳で、より正確になったかなと思います。

4人の男たちは、家の前にも家の中にも大勢の人がいて、御もとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根を剥がして穴を開け、病人が寝ている床をつり降ろしたというのです(3~4節)。

随分、乱暴なことをしたものです。この当時の一般的な家は、外にはしごか階段があって、外から屋根にのぼることができました。そして屋根は横木の上に木の枝を敷き、それを泥で固めて作られたものでした。ですから、彼らの行動は可能なことではありました。しかし異常な行動であることには変わりありません。現代であれば、器物損壊罪にあたるでしょう。

彼らが屋根に穴を開けている時、泥や土がぼろぼろと落ちていって、主イエスも他の人びともびっくりしたことでしょう。主イエスの頭の上にも落ちて来たかもしれません。上を向こうとすると目にも入りそうになったかもしれません。そういう情景が目に浮かぶようです。

(3)病気は罪の結果ではない

「イエスは彼らの信仰を見て、その病人に、『子よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」(5節)

これを読んで確認しておかなければならないことがあります。それは彼が病気であったということが、罪の結果であるかのように聞こえかねません。確かに、この当時は多くの人がそのように考えていました。いわゆる因果応報の考え方です。しかし聖書は「病気は罪のせいである」ということを否定します。事実、マルコ福音書において、他のいやしや悪霊追放の記事を読んでも、どこにも罪については触れられていません。福音書全体でも、ただヨハネ福音書の5章14節、「ベトザダの池のいやし」の場面で、「もう罪を犯してはいけない」と、少し関係があるように聞こえかねない記述があるだけです。しかしそれも厳密に読めば、そうではないことがわかります。

むしろ逆に、ヨハネ福音書9章の生まれつき目の見えない人のいやしの記事では、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と問うた弟子たちに対して、明確にこうお答えになりました。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)

力強い、そして慰めと励ましに満ちた言葉です。そうしたことを踏まえておくことが大事です。その上で、「子よ、あなたの罪は赦された」という言葉を聞きたいと思います。

(4)彼らの「信仰」

イエス・キリストは「彼らの信仰を見て」、この病気の人の上に大きな業をなしてくださいました。「彼ら」とは、誰のことなのでしょうか。複数形ですので、この病気の人を担いで来た人たちを含むことは間違いありません。この病気の人を含むのかどうかはわかりませんが、それはどちらでもよいでしょう。

しかしその「信仰」とは、けっこう身勝手なものです。人の家の屋根をはがすとは、他人の迷惑も顧みない非常識な行為です。しかしそこには、何が何でも友人を主イエスのもとへ連れていくという熱い思いと主イエスへの信頼がありました。そうした行為の中に、主イエスのほうが「信仰」を読みとってくださったことにこそ、私は大きな意味があると思います。

日本人はしばしば「人様に迷惑をかけない」ことを一人前の人間の基準としますが、私たちは多かれ少なかれ、人に迷惑をかけて生きています。むしろそのことをどれだけ自覚しているかのほうが大事ではないでしょうか。私たちが「自分は誰にも迷惑をかけていない」と思っている限り、主イエスと触れ合うことはないでしょう。

(5)いやしと罪の赦し

主イエスは、病気の人に向かって、「あなたの罪は赦された」と言われました。これは病気の人にしても、彼を連れてきた人にしても、意外な言葉であったと思います。彼らが期待していたのは、その人の病気が治って歩けるようになることでした。それも、後で実現してくださるのですが、その前に主イエスは、「あなたの罪は赦された」と告げることを優先されたのです。

この言葉は、まず、いやしと罪の赦しは深い関係があること、イエス・キリストは、その両方をなす権威をもった方であることを示しています。この体の麻痺した人も他の人と同様、罪人でありました。

もしも罪の赦しについて何も言わないまま、彼の体の麻痺を治してあげていたら、それ以降はうれしくなって、どんな言葉も耳に入って来なかったということも考えられます。ですから、主イエスは、先により根本的に大事な「あなたの罪は赦された」と語られたのかなと思います。

人は遅かれ早かれ、やがては死んでいきます。もしも病のいやしが、主イエスの働きの大きな目的であったとすれば、それはその人の死をもってすべてが終わるような事柄にすぎなかったでしょう。本当に大事なことは、その人が新しく出発をするということなのです。

主イエスは、「子よ」と呼びかけます。そう呼びかけることで、「あなたも神の子として、受け止められている」と言おうとされたのでしょう。この当時は、先ほど述べましたように、病気は罪の結果であると考えられていましたので、重い病気の人は、病気の苦しみと、そういうふうに人から見られるという二重の苦しみを抱えていたのです。

この「子よ、あなたの罪は赦された」という言葉は、この病人にだけではなく、すべての人に告げられている福音です。マタイ福音書の並行箇所では、ここに「元気を出しなさい」という言葉が挿入されています。

「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された。」(マタイ9:2)

極端なことを言えば、イエス・キリストはこの言葉を告げるために、この世界に来られたと言えるでしょう。私たちは、主イエスのこの言葉を聞くことによって、元気を出して新しい出発をするのです。

パウロはこう言いました。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:13~14)

(6)「床」を担いで

主イエスが罪の赦しを宣言されるのを聞いて、律法学者たちは「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒涜している、罪を赦すことができるのは、神おひとりだ」と心の中で考えました(7節)。

主イエスは彼らがそう考えていることを、ご自分の霊で見抜いて言われました。

「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。この人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」(8~9節)

これは実のところ、いったいどちらが易しいのでしょうか。皆さんはどう思われますか。事柄そのものを比較すれば、先ほどから述べたように、「病気のいやし」よりも「罪の赦し」のほうが根本的な事柄、重大な事柄です。しかし口で言うだけであれば、「あなたの罪は赦される」と言うほうがやさしいでしょう。なぜならいやされたかどうかは、すぐに結果が出てしまいますが、罪が赦されたかどうかは、目に見える形ではわからないからです。無責任に罪の赦しを宣言することは簡単ですが、それは確かに律法学者たちが思ったように、神を冒瀆することでしょう。

主イエスは、より難しく見える「いやし」をなさることによって、本当はより難しい「罪の赦し」の権威をもっておられることを示されたと言えるでしょう。

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(10節)

そう言ってから、体の麻痺した人に向かって、こう言われました。

「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」(11節)

すると彼は主イエスの言葉のとおり、皆の目の前で、起き上がって床を担ぎ、家に帰っていきました(12節)。これまでは「床」が彼を担いでいましたが、今は起き上がり、逆に彼がその床を担いで歩き始めたのです。「床」は彼の苦しみの象徴であり、これまでの人生そのものでした。彼はもとの家に帰っていきましたのですが、これまでとは全く違った人間になっていました。

(7)とりなし

最後に「とりなし」ということに心を留めましょう。

この「体の麻痺した人」自身は、どの程度の信仰をもっていたのかは、聖書の記事を読むだけではわかりません。「自分もイエス様のところへ行きたい、そして癒していただきたい」という気持ちは恐らくもっていたでしょう。それを仲間たちに強くお願いして、それが実現したのか、あるいは彼自身にはもうそういう気力さえなくなっている中で、仲間たちが強く促して「ぜひ行こうよ。僕たちが連れて行ってあげるから」と言って実現したのか。私はどうも後者であるような気がしますが、いずれにしろ、この体の麻痺した人だけではどうすることもできませんでした。ですからこの4人の仲間たちの行動が主イエスに「彼らの信仰」と言わせたことには違いありません。

ここには、この4人の男たちの「とりなし」があります。「とりなし」というのは、誰かを誰かのところへ連れて行ってあげることです。誰かのために動いてあげることです。祈りに関して言えば、「とりなしの祈り」というのは、誰かのために代わって祈ってあげることです。誰かを神様のもとに連れて行ってあげることです。そして「神様、この人をよろしくお願いします」「イエス様、この人をよろしくお願いします」と連れて行ってあげるのです。

今日のこの物語は、神様は、そしてイエス様は、その人自身が信仰をもっていようといまいと、主イエスはとりなしの祈りを聞いてくださるということを示しています。このことは、クリスチャンではない大事な家族や大事な友人をたくさん持っている私たちには、大きな励ましではないでしょうか。

「人々は皆驚嘆し、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を崇めた。」(12節)

この物語は、まさに私たちが礼拝において経験することを語っているのではないでしょうか。私たちは礼拝に集い、「子よ、(元気を出しなさい。)あなたの罪は赦された」という主イエスの宣言を聞いて、新しくされ、困難を自ら担う勇気を与えられ、もとの家へと帰って行くのです。そしてともどもに神に畏れを抱きつつ、神を賛美するようになるのです。それが礼拝です。そのようにお互いにとりなしあい、共に歩む共同体を形成していきましょう。

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