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2022年6月12日説教「隣人を愛しなさい」松本敏之牧師

レビ記19章9~18節
マタイによる福音書22章34~40節

(1)レビ記は、最も敬遠される書物

鹿児島加治屋町教会の聖書日課は、先週の木曜日、6月9日からレビ記に入りました。「焼き尽くすいけにえ」「穀物の供え物」「会食のいけにえ」と、いけにえや供え物の話が続き、「なんだこれは。わけがわからない」と思っておられる方も多いのではないでしょうか。「供え物」の話の後は、祭司の任職などについての細かい規定があります(8~10章)。11~15章は、汚れについての規定です。16章は贖いの日についての規定。17章は献げ物をする場所についての細かい規定。18章は忌むべき風習についての規定と、読みにくい文章が続きます。

ナイトという人のレビ記の注解書(デイリー・バイブル・シリーズ)の序論の冒頭に、こんな面白い話が出ていました。

「かつて『無人島ディスク』というラジオ番組で、無人島に聖書を持って行くとすれば、66巻のうち何を何冊ぐらい選ぶかという質問があった。出演者はちょっと笑って、『そうですね、とにかく、レビ記は外しますよ』と言っていたが、今日多くの人も、実際、これとまったく同じことをするだろう。レビ記を外すのは、古代の規則や規定が現代のクリスチャンに語ることは何もないと考えるからである。……しかしレビ記に関してこう断言してしまうと、旧約聖書のこの書物はもはや聖典として認められないことになる。」

レビ記は、聖書の中でも、最も読みにくいものであろうかと思います。聖書を通読しようと思って、創世記から読み始めて、多くの方はこのあたりでつまずいてしまうのかもしれません。この難関を乗り越えられれば、かなりの人が最後まで行けるのではないかと思います。と言って励ましますが、何の根拠もありません。

(2)レビ記の舞台設定

浅見定雄さんという人の『旧約聖書に強くなる本』という書物があります。専門家向きではなく、もともと教会学校の教師向け、一般の信徒向けに書かれたわかりやすいものですので、これを手がかりに、まずはレビ記がどういう書物であるかを押さえておきましょう。

レビ記の前は出エジプト記でした。出エジプト記の後半も読みにくいものでした。そのところは神様が人間とまみえるための「会見の幕屋」を作る話でした。それが完成したところで出エジプト記は終わっていました(出エジプト40:33)。

レビ記は、この会見の幕屋から神がモーセを呼ぶところで始まります(レビ記1:1)。そして最後まで、シナイ山のふもとの話が続くのです(レビ記27:34)。移動はありません。こうした場面設定によって現在のレビ記は、出エジプト記のあの基本的な救いと契約とおきてと礼拝所の物語にひきつづき、さらに具体的なイスラエルの生活の指針を、犠牲の献げもののことから衣食住のことまで、さまざまな方面にわたって示そうとする書物となっているのです。

(3)レビ記という名称

「レビ記」という名は、紀元前のギリシア語訳旧約聖書(七十人訳と呼ばれます)にさかのぼります。レビ記自身の中には「レビ」という言葉はほとんど出てきません。わずか25章32~33節にまとめて4回出てくるだけで、あとは「祭司」とか「アロンとその子ら」とかいう表現だけです。しかし旧約では、正統的祭司は皆レビ族の者とされていますので、ギリシア語聖書の訳者たちは「祭司のつとめに関係したことが多く書いてある書物」というようなことで、「レビ記」という名前を付けたのだろうということです。

レビ記には、第1章の初めから、今日のクリスチャンには、もうどうでもいいようなことばかり書いてあるように見えます。たとえば、1章には犠牲の牛を引いてくる話がでてきますが、私たちは教会に犠牲の牛を引いてくるようなことはしません。

(4)レビ記の重要性

しかし次のような点で、レビ記には今日のクリスチャンにとっても、大事なことが書かれています。

第一に、あとで詳しく述べますが、「隣人愛」の教え(19:18、34)のような重要な掟があることです。

第二に、新約聖書をよく理解するためにもレビ記は大切な本です。たとえば引照付きの聖書を見ると、「犠牲の献げもの」について記した1章だけでも10箇所以上の新約の関連箇所が出てきます。レビ記を読むことで、新約聖書の背景を知ることができるのです。たとえば神の民にとって清さを保つことがいかに重要なこととされていたかを知るのです。レビ記は罪の深刻さや、私たちの神との関係を損なう罪の影響を強調します。そして罪の償いが必要であることを強調し、善なる神がアブラハムとの契約のゆえに、忠実にそのような罪を赦してくださることを語ります。

これらの主題は、すべて究極的にはイエス・キリストにつながっていきます。イエス・キリストの犠牲の死、十字架につながる。イエス・キリストの血によって、それに連なる者たちが贖われることに集約していきます。ですからレビ記を読むことは、イエス・キリストの到来の背景や、イエス・キリストの贖いの犠牲、十字架の意味をより深く理解する道備えをしてくれると言ってもよいでしょう。

第三に、レビ記は旧約の人々が日常生活をどんなにすみずみまで神様の意志のもとに置こうとしたかの貴重な記録です。その一つ一つを、今日のクリスチャンである私たちが継承すべきということではありませんが、私たちにも参考になると思います。

(5)聖なる者となりなさい

レビ記は17章から後半に入ります。17章の初めに「神聖法集」と記されています。そして18章あたりから、それまでの部分と調子が変わってきます。教えさとすような調子が加わってくるのです。そして「私は主、あなたがたの神である」という言葉が繰り返し出てきます。そしていよいよ、本日の聖書箇所のある19章です。19章はこういう言葉で始まります。

「主はモーセに言われた。『イスラエルの全会衆に告げなさい。聖なる者となりなさい。あなたがたの神、主である私が聖なる者だからである。』(レビ記19:1~2)

この「聖なる者となりなさい。あなたがたの神、主である私が聖なる者だからである。」というのが、これから述べられることの趣旨であり、根拠であります。そして十戒で述べられたような言葉が続きます。

「おのおのその母と父を恐れなさい。私の安息日を守りなさい。私は主、あなたがたの神である。偶像のもとに赴いてはならない。あなたがたのために神々の像を鋳造してはならない。私は主、あなたがたの神である。」(レビ記19:3~4)

その後は、十戒の後半の趣旨である隣人愛の教え、戒めが出てきます。たとえば9節。

「土地の実りを刈り入れる場合、あなたがたは畑の隅まで刈り尽くしてはならない。刈り入れの落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどう畑の実を摘み尽くしてはならない。ぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。貧しい人や寄留者のために残しなさい。私は主、あなたがたの神である。」(レビ記19:9~10)

なんと優しい言葉なのでしょう。この言葉で思い起こすのはルツ記の物語です。ルツは夫に先立たれた後、しゅうとめのナオミをひとりぼっちにさせないために、自分の故郷を離れ、ナオミと共にナオミの故郷へやってきます。ルツにとっては異郷の地です。仕事を見つけるのも大変です。そこでナオミから指示を受けて、落穂拾いをするように、なります。そこでボアズと出会うのです。ボアズは、しゅうとめに尽くすルツに目をかけ、刈り入れの後だけではなく、「刈り穂の束の間でも穂を拾うことができるようにしてやりなさい」と僕たちに言い、さらには「束の穂から抜き取って、あの娘が拾えるように落としなさい」と僕たちに命じるのです(ルツ記2:15~16)。 やがてルツはボアズと結婚し、その二人の子孫としてダビデが生まれてくるのです。落ち穂を刈り尽くさないこと、それは貧しい人を思いやる証しのような行為でした。

この隣人に関わる教えのひとつひとつに、その都度、「私は主である」と付け加えられます。この戒めのまとめである19章18節後半でもそうです。

「隣人を自分のように愛しなさい。私は主である。」(レビ記19:18)

どうしてでしょうか。それは、神様自身がそのように、貧しい人や困難の中にある人を大事にされる方だからではないでしょうか。だからあなたがたも同じようにしなさいと言うことなのでしょう。

(6)神はどういう方か

申命記の中に、神様がどういう方であるかを示す言葉が出てきます。申命記10章17~18節の言葉です。これは、とても大事な言葉です。旧約聖書の中の最も大事な言葉の一つであると言ってもよいでしょう。聖書の「神の定義」と言ってもよいかもしれません。よかったら開いてみてください。聖書協会共同訳ですと282ページです。ご自分の聖書であれば、線を引かれてもよいかもしれません。

「あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神。偏り見ることも、賄賂を取ることもなく、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。」(申命記10:17~18)

最初に「あなたがたの神、主は神の中の神、主の中の主、偉大で勇ましい畏るべき神。」とあります。これは神様が偉大で、壮大で、すべてのものを超越した方であるということを語っています。そして「偏り見ることも、賄賂を取ることもなく」と続きます。人間はしばしば人を偏り見てしかも賄賂を取ります。しかし神様は違う。正義と公平に満ちた方であると語る。さらにこう続きます。「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。」「孤児、寡婦、寄留者」というのは、当時の社会の中で最も弱い存在、社会のひずみを一番強く受けて、苦しむ人々でありました。以前の口語訳聖書では、「みなしご、やもめ、寄留の他国人」と訳されていました。神様は、その人たちを大事にされる、守られるというのです。

そしてそれと関連して、「だから寄留者を愛しなさい。あなたがたもエジプトの地で寄留者であったからである」と命じられます。

神がそのように、孤児、寡婦、寄留者を大事にされる方であるから、あなたがたもその人たちを大事にしなさい。あなたがたも、かつてはそのような者であったではないか。

(7)神を愛することと隣人を愛すること

イエス・キリストは、最も大事な掟として、二つのことを語られました。

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22:37)

これは申命記6:5に記されている言葉です。そして、第二に重要な戒めとして、今回のレビ記19章の言葉をあげられました。

「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:38)

ただしこの二つ、私は別々の教えではなく、くっついているのだと思います。

このイエス・キリストの教えに近い言葉として、西郷隆盛が愛した「敬天愛人」という言葉がありますが、これも同様です。「敬天」と「愛人」は二つの事柄なのではなく、一つのことなのだと私は思います。

「神を愛する」とはどういうことでしょうか。それは自分という存在を神との関係の中に置くこと、と言えるかもしれません。神様が自分を生かしてくださっていることを心に留め、感謝をし、神様を神様として立てるのです。その神様は確かに、「偉大で勇ましい畏るべき神」です。しかし遠いところに超然と存在しておられるわけではありません。その神ご自身が人格をもって人間と向き合っておられる。その時に、私たちはただ礼拝をするということよりも、その神様が何を大事にしておられるかを考え、その心を受けとめる時に、本当に神様を敬う、神様を愛するということができるのではないでしょうか。

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして」神を愛するということは、内容的に言えば、その神様が大事にしておられることを私たちも大事にすることに他ならないと思います。神様を愛するということと、隣人を愛するということは必然的につながってくるのです。

レビ記19章は、全体にわたって、「隣人を愛しなさい」ということを語っています。そしてその一つ一つの戒めごとに、最後に「私は主である」と付け加えられます。それは「あなたが私を愛するというならば、私が大事にする人々をあなたも大事にしなさい」ということなのです。

(8)寄留者を愛しなさい

19章32節では、こう語られます。

「白髪の人の前では起立し、年配者を重んじなさい。」(19:32)

(私も髪が白くなって、起立される側になってきたかもしれませんが、皆さん、起立しなくてもいいですから。)

これもやはり年配者も配慮されるべき存在だということなのでしょう。その後で、寄留者のことが述べられます。

「もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。あなたがたのもとにとどまっている寄留者はイスラエル人と同じである。彼を自分のように愛しなさい。あなたがたもエジプトの地では寄留者であった。私は主、あなたがたの神である。」(レビ記19:34)

今はウクライナからの避難民のことがとても大きなニュースになっていて、それについては日本の社会全体が動いているように見えます。しかし、それは他の難民とは違うとして、政府は特別扱いしようとしていますが、実は同じなのです。世界のさまざまなところから、助けを求めて大勢の人たちが日本にやってきています。

先日、ひょんなことから、クルド難民の方の知り合いから、電話で相談を受けました。難民申請が認められず、入国管理局から退去命令が出されそうだとのことでした。話を聞いてあげて、私もフェイスブックの友人たちに相談したり、電話で弁護士さんに問い合わせたりして、少し道が見えてきたかなというところです。

日本は、難民認定について、世界で最も厳しい基準をもっている国です。もっとおおらかに、やさしく、自分を愛するように寄留者を愛して欲しいと、切に願うものです。

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