2023年12月10日説教「天 使」松本敏之牧師
出エジプト記23章4~5、20~22節 テサロニケの信徒への手紙一5章12~22節
(1)正義・公正・慈愛
講壇のキャンドルに二つ灯がともり、アドベント第2主日を迎えました。今日は、月に一度位のペースで読み進めている出エジプト記で説教をいたします。「アドベントらしい題を」と思い、「天使」という題にしましたが、最後のほうでそのことに触れたいと思います。
出エジプト記の中の「契約の書」と呼ばれる部分を読んでおりますが、今日は、出エジプト記第23章に心を留め、御言葉を聞いてまいりましょう。この「契約の書」は20章22節から始まっていました。今日で3回目であり、最後です。
「契約の書」は、十戒を与えられたイスラエルの民が、その十戒を、いかに具体的な生活に適応したらよいかを示したものと言えます。その根底に流れる精神は、「神が正義に満ちた方であるように、あなた方もいつも正しくあれ」、「神が公平な方であるように、あなたがたも誰に対しても公平であれ」、「神が憐れみ深い方であるように、あなた方も憐れみ深くあれ。特に貧しい人、困っている人に憐れみ深くあれ」ということであります。個々の戒めにも、そうした精神が貫かれています。
聖書協会共同訳聖書ではなくなりましたが、新共同訳聖書では、具体的な個々の法律について、番号を振って、題が付いていましたが、それを参考にお話させていただきます。23章では、(11)から(16)までの6つの番号と、20節以下の結びの言葉です。具体的な法の部分で、前半の三つ、1~3節には「法廷において」、4~5節には「敵対する者とのかかわり」、6~9節には「訴訟において」という題が付けられていましたが、これらを「法廷での手続きを規制する法」としてまとめることができると思います。また後半の三つ、10~11節は「安息年」、12~13節は「安息日」、14~19節には「祭り」という題が付けられていました。これらを「祭儀暦」としてまとめることができると思います。
(2)曲げてはならない
23章は、このように始まります。
「あなたは根も葉もない噂を流してはならない。悪人に加担して、悪意のある証人になってはならない。多数に追従して、悪を行ってはならない。訴訟において多数者に合わせて答弁し、判決を曲げてはならない。」出エジプト23:1~2
どれも、今日でもしばしば行われていることではないでしょうか。「根も葉もない噂を流す。」「悪意のある証人となる。」(「やってもいないことをやった」という等)。「多数に追従する。」人を陥れるつもりはなくても、自分を守るため、家族を守るため、会社を守るために、ついそうしてしまう。
今年9月27日、水俣病訴訟で、大阪地裁は 「救済策の対象外の原告全員を水俣病と認定する」という判決がありましたが、水俣病の被害がこれほどまでに拡大してしまったことは、国や県や会社が非を認めようとしなかったからであると同時に、それを守るため、それを擁護するために、一流の学者がそれを支持するような証言をしたからでありました。
6節以下においても、それに通じる裁判の訴訟のことが記されています。
「あなたは貧しい人の訴訟において、裁きを曲げてはならない。偽りの言葉から距離を置かねばならない。罪なき者や正しき者を殺してはならない。」出エジプト23:6~7
ここに掲げられている言葉は、たった一つ、水俣病という具体的なケースに照らしてみても、今日においても、びんびんと私たちに響いてくるものではないでしょうか。さらにこう記されています。
「あなたは賄賂を受け取ってはならない。賄賂は目の見える人を見えなくし、正しき者の言い分をゆがめるからである。」出エジプト23:8
これも、何と私たちの弱さを見抜いた言葉でしょうか。
政治家の発言を聞いていると、誰が考えてもおかしいとわかるような事柄を、平気で「どこがおかしいのか。何が悪いのか」と開き直って言っているように思えることがあります。そんな時、何かを隠しているに違いない。裏でお金が動いているに違いないと、私は思ってしまうのです。賄賂というのは、人の目を見えなくさせ、正しい判断力を麻痺させてしまうのです。
さかのぼって、3節では「また訴訟において、ことさらに弱い者をかばってはならない」とあります。一連の言葉と少しトーンが違います。それゆえにこの「弱い人」というのを「力ある人」と読み替える解釈もあります。子音を一つ補えば「弱い人」が「力ある人」というふうに、ほとんど反対の意味になるそうです。そうすれば、「力ある人におもねいてはならない」という風にトーンが一貫することになります。ただしそのまま読んでも意味があるでしょう。私たちは、時に過度に弱い人の味方をして、真実が見えなくなってしまうこともあるからです。だからここで「曲げてはならない」、と言うのです。いつもどんな状況においても、公正であらねばならない。
申命記5章32節に「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない」という言葉があります。私たちは、右に傾くことがあると同時に、時に左に傾くこともあるということを、わきまえておく必要があるでしょう。どちらにも曲げてはならない。聖書の神様は、どちらかと言えば、貧しい人、弱い人をひいき目にしておられるように見えます。そのことは、社会全体が強い人、お金持ちのほうに傾いているからであって、むしろそこで神様は、真ん中に引き戻そうとしておられるのです。とにかく真っ直ぐに主の命じられることを公平に、公正に行うことが求められているのです。
(3)敵対する者とのかかわり
さてその間の3~4節には、こう記されています。
「もし、あなたの敵の牛、あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ずその人のもとに返さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れているのを見たならば、放置しておいてはならない。必ずその人と一緒に起こしてやらなければならない。」出エジプト23:4~5
神は真実な方です。誰かが困っていたら、それがたとえ敵であっても助けるように、と命じられる。「いい気味だ」「自業自得だ」と思ってはならないということです。「あなたを憎む者のろば」というのも、興味深い言い方です。こちらが敵と思っていなくても、自分が憎まれていることもあるのではないでしょうか。逆恨みということもあるでしょう。「そうした時でさえ、その人を助けてあげよ」というのです。
イエス・キリストは、こう言われました。
「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、きょうだいが自分に恨みを抱いているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行ってきょうだいと仲直りをし、それから帰ってきて、供え物を献げなさい。」マタイ5:23~24
この場合も、こちらが恨みや反感をもっているかどうかではないのです。自分が反感をもっていなくても、誰かが自分に反感をもっているのに気づいたら、まずそれを解決し、それから神様に供え物をせよ、というのです。これがイエス・キリストの戒めでありました。
私たちは、今日の社会において、いかに平和を築いていくか。小さなグループにおいて、家族において、会社において、時に教会・教団において、そこでまず、相手の立場に立つことが求められているのです。
(4)安息年と安息日
その後の三つは、祭儀や暦に関することです。最初に安息年。
「六年間は地に種を蒔き、その産物を収穫しなさい。しかし七年目には地を休ませ、そのままにしておきなさい。そうすれば、あなたの民の貧しい者が食べ、その残りを野の獣が食べることができる。ぶどう畑もオリーブ畑も、同じようにしなければならない。」
これは、今日のサバーティカルの原型です。サバーティカルというのは、主に大学の先生が6年働いたら1年間(あるいは半年)与えられる研究休暇のことを指していますが、本当は、大学の先生のような知的な働きをする人以上に、肉体労働者にこそ、サバーティカルは必要であるように思います。同時に、土地も動物も休ませなければならない。そしてその年にこそ、歪を補正する。これは、実際に行われたかどうかは不明ですが、そこにある精神は、「すべての人が休む必要がある。時に大きな休みをいただいて、リフレッシュしなければならない」ということ、「立場の弱い人であればあるほど、それが必要だ」ということです。
さらにこの背景には、土地は、神からイスラエルに貸し出されたものであり、本来は神ヤハウェのものである、という考え方があります。農業を営む上でも、土地を休ませることは有益であるようです。
その後は、安息日です。これについては、これまで何度も触れました。6日働いたら1日休む。自分が休むと同時に、自分のところで働いている人たち、家畜たちを休ませなければなりません。
(5)祭りについて
その次は、イスラエルのお祭りについてです。「除酵祭」、「刈り入れの祭り」、「取り入れ祭り」という三大祭り。
除酵祭というのは、4月下旬から5月初旬、春の大麦の刈り入れの始めを画するものでありました。刈り入れの祭りは、6月の穀物の収穫の完了を祝うものでありました。ペンテコステは、ここに由来しています。三つ目の取り入れの祭りは、ユダヤ暦の年の終わり(今の暦で言うと9月頃)に、ぶどうとオリーブの季節が終わった時期に行われました。
こうした祭りも、神様のもとに立ち帰って行くということと同時に、休みを与え、気持ちをリフレッシュさせるということがあったでありましょう。
年に3回と言えば、ブラジルでも、6月のフェスタジュニーナ(六月祭)、12月のクリスマス、2月、3月のカーニヴァルという三つの大きなお祭りがあります。ブラジル人はお祭りが大好きで、そのために1年間働いている、という感じもしました。
キリスト教でも、イースターとペンテコステとクリスマス、という神様の御業を祝う三つのお祭りがあります。
(6)いつも新たに、神に聞く
さて20節以下は、「契約の書」のエピローグ(あとがき)です。ここは、それまでのところと文体も違っています。
「私は使いをあなたの前に遣わし、あなたの旅路を守り、私が定めた所に導き入れる。あなたはその使いに注意し、その声に聞き従いなさい。決して彼に背いてはならない。彼はあなたがたの背きを赦さない。私の名が彼の中にあるからである。」出エジプト23:20~22
この「彼」というのが、一体誰のことなのか、何を指しているのかよくわからないのですが、何らかの天使のような存在であろうかと思います。モーセ自身という解釈もありますが、そう限定する必要はないでしょう。神様が必ず、そういう使いをあなたの前において、あなたを守り導いてくださるということです。
実際に十戒の具体的適用法がここに収められると言っても、私たちが直面する現実はもっともっと複雑であります。その都度その都度、具体的判断を問われる。一体、どうすればよいのか。祈りをもって、「神様は今、私をどういう風にするようにと導いておられるのか」ということを、謙虚に、柔軟に、聞いていかなければなりません。
私たちには、モーセの時代の人々と違って、イエス・キリストという、さらに神様と直結した方がクリスマスの日に与えられました。「山上の変容」と呼ばれる物語において、イエス・キリストを指して、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声が、雲の中から聞こえてきました(マタイ17:5)。旧約聖書のさまざまな掟、律法を読む時も、私たちはイエス・キリストというレンズを通して見る時に、枝葉末節ではなく、その本来的な精神に立ち帰らされていきます。
聖書の言葉というのは、いかようにも解釈できる。自分に都合のいいように解釈しようと思えば、できなくもない。「神様は果たして、今、私に何を求めておられるのか。」そこで聞こえてくる声は、時に自分の利害に反するものであり、自分が歩みたくないと思う方向のものであるかも知れません。しかしその声を素直に聞き、そこでその声と対話していくことによって、私たちの進むべき道が示されていくのではないでしょうか。
(7)敵を恐れさせる力
この神の使いを「聖霊」と呼んでもよいかと思います。聖霊がいつも私と共にあり、私の前にあって、私を導いてくださる。
「私は、私への恐れをあなたの先に送り、あなたが入っていく先のすべての敵を混乱させ」(27節)とあります。この「恐れ」というのは私たちに対する「恐れ」ではなくて、私たちに敵対する者を恐れさせるものです。
それは4節に出てきたような「敵」ではなく、私たちの前に立ちはだかるもの、例えば死であるとか、病気であるとか、あるいは憎しみ、というものも含んでくるでしょう。しかし、この方が共にいてくださるならば、私には恐れることはない。
「たとえ死の陰の谷を歩むとも 私は災いを恐れない。 あなたは私と共におられ(る)。」詩編23:4
私たちは誰かに、何か悪いことをされる時にも、自分で復讐するのではなく、正義と公平の神様を信じて、むしろお互いに平和を築いていくことにこそ、心を用いていくべきではないでしょうか。パウロは、その精神を引き継いで、先ほど読んでいただいたテサロニケの信徒への手紙の中で、こう述べています。
「きょうだいたち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを導き、戒めている人々を重んじ、彼らの働きを思って、心から愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい。きょうだいたち、あなたがたに勧めます。秩序を乱す者を戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者を助けなさい。すべての人に対して寛大でありなさい。誰も、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。互いに、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい。」一テサロニケ5:12~15
私たちのゆく手に主が先立っておられる。この神の使いを前に見て、歌いつつ、祈りつつ、歩んでまいりましょう。