2026年7月5日説教「まだ分からないのか」松本敏之牧師
エレミヤ書23:23~32
マルコによる福音書8:14~21
(1)本日の聖書日課
ただ今読んでいただいたエレミヤ書とマルコ福音書は、本日の日本基督教団の聖書日課の箇所です。本日は、主にマルコ福音書(8章14節から21節)のテキストでお話したいと思います。ここで主イエスは、弟子たちに向かって、「まだ分からないのか。悟らないのか」と言っておられますが、弟子たちは、主イエスの真意がよく分からなかったようです。弟子たちだけではなく、私たちにも、ちょっとわかりにくい言葉です。少し読み解いてみましょう。イエス・キリストは、弟子たちに向かって、「まだ、分からないのか」「まだ悟らないのか」と叱責されるのです。しかしそれは愛情のこもった叱責でした。その「愛情」については後で触れたいと思います。
(2)パン種とは
15節にこう記されています。
「イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分に気をつけなさい』と戒められた。」8:15
最初に「パン種」とは何か、また何を意味しているか、についてお話しておきましょう。まず「パン種」というのは、パンのふくらし粉、イースト菌のことです。よい意味で使われることも、悪い意味で使われることもありました。よい意味で使われる例としては、マタイ福音書13章33節にこういう言葉があります。
「天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って3サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。」マタイ13:33
これは「天の国は、からし種に似ている」というたとえの続きで語られた言葉でした。つまり「天の国はほんの小さな種から大きなものになっていく」たとえとして語られたのでした。もっともからし種の場合には、小さな種そのものが成長していきますが、パン種の場合には自分が大きくなるのではなく、パンを膨らませていくという面では違いがありますけれども、語ろうとしていることはほぼ共通しているでしょう。
しかし、これは例外的な使われ方であって、聖書の中では、パン種は、通常、悪い意味で使われることが多いのです。パウロの手紙の中にもこういう言葉があります。
「あなたがたが誇っているのは、よくないことです。僅かなパン種が生地全体を膨らませることを、知らないのですか。新しい生地のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない純粋で真実なパンで祭りを祝おうではありませんか。」コリント一5:6~8
これは、明らかにパン種を悪いものとして記しています。こちらが聖書の基本的な考え方であると言ってもよいでしょう。
(3)ファリサイ派のパン種-宗教的権威の偽善
イエス・キリストの言葉、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分に気をつけなさい」という言葉は、ルカ福音書の並行箇所では、別の文脈でこういうふうに記されています。
「ファリサイ派の人々のパン種、すなわち、彼らの偽善に注意しなさい。」ルカ12:1
微妙に違いますが、共通して「ファリサイ派のパン種」と言っているので、そこにイエス・キリストの批判の中心があったということがわかります。「ファリサイ派」というのは、当時の宗教的権威と言ってもよいでしょう。宗教的権威に気をつけよ、と言っている。
そしてルカ福音書では、それを「偽善」と結び付けています。悪いパン種というのは偽善と関係があるのです。偽善は、最初はわからない。しかし気が付いてみると、何か違うぞというふうになっていくのではないでしょうか。
宗教は、元来は人を生かすためにあるものでしょう。ここで、イエス・キリストはユダヤ教全般を批判しておられるのではないでしょう。問題にされたのは一部のユダヤ教の指導者たちのことです。しかもファリサイ派全体ではなく、ファリサイ派のある人々です。つまり権威をふりかざして、その権威のもとに人を置こうとする。しかも「救いの道は自分たちが握っている」というように言いますから、なかなか逆らえないのです。
もともとは悪くない宗教でも、そういうふうに偽善が入って来て、人を支配するようになることもあるでしょうし、同時に、カルトとして認定されるべき、全体として問題のある、人をマインドコントロールしていく宗教(もどき)もあると思います。
(4)統一協会の問題
数年前に、統一協会(統一教会とも書きます)の信者を母親にもつ青年が、統一協会に深くかかわっているという当時の安倍晋三首相を銃撃した事件がありました。それを機に、統一協会のカルト性が次々と明るみに出て、さらに政治家との結びつきも明るみに出てきました。そしてつい最近でありますが、統一協会への解散命令が確定しました。統一会側が高等裁判所の判決を不服として、最高裁判所に特別抗告していたのですが、それが最高裁によって却下されたのです。
安倍元首相を襲った青年の母親だけではなく、多くの人が、まあ客観的に見れば、多額の献金をいわばだまし取られて、それが数千万円、あるいは一億円以上にも上りました。大変な大金持ちだと1億円を献金する方はあるでしょう。ビル・ゲイツのような人が1億円献金するのは何でもないかもしれません。そうではなくて、彼女の場合は、それで一家が破産してしまい、子どもたちもそれを恨んでいるのです。そこには明らかにマインドコントロールがあると言えるでしょう。
鹿児島キリスト伝道協力会でも、その頃、統一協会のことが話題になりました。世間では「だから宗教は怖いのよね。宗教っていやよね」と言われる。私たちは、それに対して、カルト宗教と真実の宗教の違いをきちんと伝えていかなければならないでしょうし、私たち自身も気を付けなければならないでしょう。いずれにしろ、それによって社会生活を破綻させてしまう、人間性を崩壊させてしまう宗教というのは間違っています。
ただしそうしたことはカルト宗教ではなくても、一般的に認められている宗教においても、そして正統的とよばれるキリスト教においても(規模は小さくても、社会問題にはならなくても)、起きうることではあります。指導者が絶対的な力を持っている教派や教会においては危険です。イエス・キリストが「ファリサイ派のパン種に気をつけなさい」と言われた時には、そうしたカルトでなくても、宗教的権威が、人をその権威のもとに置き、その心を支配してしまうことが起きるという現実があるということ、そしてそういうことに対して気をつけなさい、と言われたのではないでしょうか。
宗教者の側は、無意識のうちにかもしれませんが、その権威を用いて支配しようとするのです。イエス・キリストは、そうしたことを敏感にかぎ分けて、それと闘われたとも言えます。それだからこそ、宗教的権威のもとで裁かれ、十字架にかけられたとも言えるでしょう。それには十分、気をつけなければなりません。
(5)ヘロデのパン種-政治的権威の偽善
さて、マルコ福音書では、あわせて「ヘロデのパン種に気をつけなさい」と言われました。ヘロデというのが、イエス・キリストがお生まれになった時のヘロデ王ではなくて、領主ヘロデ・アンティパスのことでしょう(マルコ6:14~29)。妻へロディアの連れ子サロメの要求に従って、洗礼者ヨハネの首をはねた人です。
彼は、当時、王のような権威、政治的権威をもっていました。それには誰も逆らえないのです。しかしそれが神の意志に従った形ならまだよいのですが、神の意志を無視し、あるいはそれを否定して、自らが神の位置に着こうとする。
しかし政治的権威の問題はむしろ今日のような民主主義の時代にこそ、起こりうると思います。昔は最初から王は王として権威を振りかざしていました。それに有無を言わせず、従わせようとする。従わざるを得ない。ところが現代は民主主義です。投票によって政治家を選びます。ですからその時には民衆のほうを向いています。あるいはそういう顔をするのです。しかし気が付いてみると、民意に即した形になっていかない。だんだんずれていく。むしろ今日のような形でこそ、偽善が入り込み、支配しようとしてくるのです。民意に即した政治をすると約束しながら、トリッキーに人を欺いて、あるいはそれさえも気づかせない形で、国をリードしていく。あるいはミスリードしていくということが起こる。
一般の人々が投票の際には、あまり深く考えないで投票した結果、国がどんどん間違った方向に進んでいく。なぜこうなってしまったのか、よくわからない。いつの間にか、そうなってしまっている、ということがある。イエス・キリストの「ヘロデのパン種に機をつけなさい」という言葉には、そうした現代人への戒めが込められているのではないでしょうか。
イエス・キリストが「ヘロデのパン種に気をつけなさい」と言われたのは、そういうふうに人を支配するもの、偽善、表向きには見せないけれども、裏で何がつながっているかということをよく見抜いておられたからでありました。
そのことは、例えば現代で、アメリカの「福音派」と呼ばれるグループとトランプ政権と結びついていて、トランプ大統領の決断を祝福していることや、あるいはロシアのプーチンの政権とロシア正教、特にキリル総主教の結びつきをあげることができるかもしれません。
ロシア正教会のキリル総主教こそ、神様の名のもとに活動するのであれば、プーチンの、ロシアのウクライナ侵攻を真っ先に批判して止めるべき立場にあると思いますが、それができないで、むしろ宗教的権威によって、ロシアのウクライナ侵攻を正当化していく。プーチン政権も、そうした中で、ロシア正教会を保護のもとにおき、恩恵を与えていくのです。そういう関係があるのです。宗教的権威のパン種と政治的権威のパン種、偽善が結びついた時に、それはもう、エスカレートして、誰も止められなくなっていく。
(6)弟子たちもまだ分かっていない
私は、イエス・キリストが弟子たちに対して、こう述べられたこと、これはかなり危ない、きわどい発言であったと思います。そして事実、そういう発言をするからこそ、十字架へと追いやられていった、とも言えるでしょう。
「そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた」(8:16)とあります。イエス・キリストは、弟子たちが勘違いをしている、誤解をしているということに気づいて、こう言われました。
「なぜパンを持っていないことで議論をしているのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」マルコ8:17~18
(7)恵みの叱責
ここでイエス・キリストの言葉、「まだ分からないのか。悟らないのか」という言葉は、二つのことを指し示していると思います。一つは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」という言葉の意味がまだわからないのか。あの人たちは危険だぞ、ということです。それについては、先ほど述べました。
もう一つは、恵みの叱責です。イエス・キリストは、弟子たちの間で、パンの話が出た時に、5千人の人々をおなかいっぱいにさせた奇跡と、4千人の人々をおなかいっぱいにさせた奇跡を思い起こさせました。
「覚えていないのか」(マルコ8:18)と言って、その奇跡のことを示されたのです。イエス・キリストは、パンがなくて悩んでいる、困窮している人々にパンを与えることができる方です。「そのことを忘れたのか。思い出しなさい」という恵みの叱責、愛情のこもった叱責であったと思うのです。主イエスが二度も同じような奇跡をなされたこと自体、弟子たちに、何度もイエス・キリストが恵みの主であることを忘れないようにさせられたのだと言えるのではないでしょうか。
私たちは、そうしたイエス様の恵みさえもすぐに忘れてしまいます。そういう私たちに対して、何度も恵みをもって追いかけて来られるのです。そして「まだ分からないのか」「まだ悟らないのか」と言って、恵みの叱責をされるのだと思います。