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2026年5月24日説教「『父よ』と呼ぶ御子の霊」松本敏之牧師

エゼキエル書37:1~6
ガラテヤの信徒への手紙4:1~11

(1)ペンテコステ

本日は、聖霊降臨日、ペンテコステです。ルカによる福音書と使徒言行録によれば、イエス・キリストは復活した体で、40日間、地上でお過ごしになり、天に上げられました。そしてその10日後、つまり復活日から数えると50日目に、突然、天から激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえて、聖霊が降ったというのです。教会はそこから始まっていきました。

ペンテコステの教会暦の色は赤です。また聖霊降臨の出来事を記した使徒言行録2章3節に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあることから、「ペンテコステの日には、何か赤いものを身につけてきましょう」ということが、幾つかの教会でなされています。鹿児島加治屋町教会でもそれをやっています。私も今日は、このガウンの下に真っ赤なスーツを着てきました。というのは、真っ赤なウソです。でも真っ赤なネクタイをしてきました。私は、派手なネクタイが好きですが、文字通り真っ赤なネクタイは、最近では年に1回しか出番がありません。

(2)養育係としての律法

さてガラテヤの信徒への手紙を読み続けていますが、今回で10回目です。ここから第4章に入ります。この箇所の中に、こういう言葉があります。4章6節です。

「あなたがたが子であるゆえに、神は『アッバ、父よ』と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。」ガラテヤ4:6

これはペンテコステにふさわしい御言葉であると思いましたので、そのままガラテヤ書の続きを読むことにしました。この御言葉については、後ほど触れたいと思いまます。

さてガラテヤ書第4章の初めの部分は、単元としては第3章の終わりの続きとなっています。(4章の初めには表題がついていません)。これまでのところで、パウロは「律法とは何か」と問いつつ、それは「キリストの真実(信仰)が現れる前の、養育係のようなものだ」と言っていました。3章24節、25節には、こう記されていました。

「こうして律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました。私たちが真実によって義とされるためです。しかし、真実が現れたので、私たちはもはや養育係の下(もと)にはいません。」3:24

この「真実」というのは、イエス・キリストが来られた時に(つまりクリスマス)、実現したのですが、実は大昔、信仰の父アブラハムを通して約束されていたことだったということでした。そういう意味において、あなたがたは『アブラハムの子孫、約束の相続人』なのだ」。3章の終わりのところで、パウロはそう語ったのでした。

パウロは、4章の初めにおいて、この世の「相続人」のことをたとえについて話し始めます。パウロは、当時のヘレニズム世界(ギリシャ文化の世界)の法律をもとに記しています。これを通してパウロが言おうとしたことは、「正式な相続人であっても、その人が未成年であるうちは、その相続が全く自由になるわけではなく、後見人や管理人の監督下におかれている」ということです。これを、3章の言葉と重ね合わせてみますと、その後見人、管理人というのが、養育係としての律法であった、ということになると思います。イエス・キリストが現れて、人間は、突然、約束の相続人になったのではない。アブラハムの時から相続人なのだ。ただしそれまではまだ、未成年であったようなものであるから、律法の管理下におかれていたのだ、というのです。

(3)縁起、占いにとらわれる人間

さて3章では、「未成年」である人間を支配・管理しているものとして、「律法」について書いていたのですが、ここで、私たち人間を支配しているもうひとつ別の事柄について、述べ始めます。それは「この世のもろもろの霊力」というものです。4章3節。

「同様に、私たちも未成年であったときは、この世のもろもろの霊力に奴隷として仕えていました。」4:3

「この世のもろもろの霊力」というのは一体、何でしょうか。これだけでは、なんのことかちょっとわかりにくいですね。この言葉は、9節でもう一度出てきます。4章9節の途中からお読みします。

「どうして、再び奴隷になることを望んで、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。あなたがたは、日や月や季節や年などを守っています。」4:9~10

「日、月、季節、年」。この言葉で、パウロは「この世のもろもろの霊力」というもので何を考えていたかが少しおぼろげながらわかってくるのではないでしょうか。今日でも、ぴんとくることです。私たちもいろんな日、月、年にとらわれることがあるのではないでしょうか。「この日は縁起が悪い。この日は縁起がいい。」「丙午(ひのえうま)の年に生まれた女の子はお嫁に行けない。」私たちが気にするのは、日のことだけではありません。方角もそうでしょう。「鬼門」なんていうのがある。「北枕はよくない。」それだけではなく、姓名判断などもそうでしょう。縁起がよい名前と、縁起が悪い名前。「名前の字画が悪い」と言われると、どうも気になって仕方がない。「何か商売がうまくいかないと思ったら、どうも名前が悪いらしい」ということで、名前を変える。私たちを支配するもろもろの霊、あるいは縁起というものを、私たちは案外気にしながら生きているのではないでしょうか。

8節ではこう述べています。

「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ではない神々に奴隷となっていました。」4:8

ここでは、「この世のもろもろの霊力」というのを、「本来神ではない神々」と言い換えています。パウロがこの手紙を宛てたガラテヤ地方というのは、本来ユダヤ人の住んでいた地域ではありません。そこはギリシア文化の影響を大きく受けている地域でした。ギリシア文化と言えば、ギリシア神話にあるようなさまざまな神々が伝えられていたことであろうと思います。

ユダヤ人はこれまで、律法に縛られていたけれども、異邦人は異邦人で(ギリシア人はギリシア人で)、そうしたもろもろの霊、神ならぬ神々の奴隷となっていた。イエス・キリストが来られたということは、そうしたもろもろの霊、神ならぬ神々の奴隷から解放されると言うことなのです。

私たちに当てはめてみましょう。私たちもクリスチャンになるということは、もうそうした力を恐れる必要がなくなった、ということであるはずなのに、現実的にはなかなかそうではない。クリスチャンになった後でも、いろんな縁起であるとか、占いであるとかを気にしながら生きている人が少なからずあるのではないでしょうか。当時のガラテヤの人々もそうだったのです。「なぜ逆戻りするのですか。」

(4)さまざまな名前を持つ諸霊

今日の私たちは、過去の人間に比べれば、迷信などから解放されているように見えます。いろいろな縁起にはこだわりますが、かつての日本人やこの聖書の当時の人々程ではないでしょう。しかし、そういう私たちでも、何か「もろもろの霊力」と呼ばざるを得ないような、いろんな力に取り憑かれているのではないでしょうか。例えば、「暴力」という名前の霊がいます。「武力」という名前の霊がいます。神々と言ってもいいかも知れません。「武力」という名前の神。私たちは簡単にその奴隷になってしまいます。人間がそれをコントロールしているつもりが、気がついてみると、自分自身ではどうすることもできない力に支配されていることに気づくのです。そういう名前、つまり「暴力」とか「武力」という名前の霊や神ならまだいいのかも知れません。

もっとやっかいなことには、「正義」という名前の霊がいるのです。私たちはその霊を、神から遣わされたものであると思いこんでしまう。でもそれは似て非なるものであることを見破らなければなりません。その「正義」という霊は次第に本性をあらわして傲慢になり、真の神を追い出して、神の玉座に座り、私たちを奴隷にし始めるのではないでしょうか。私たち人間が「正義」を語っていたのが、いつのまにか私たちの手に負えなくなって、私たち自身が「正義」の奴隷になってしまいます。やっかいなことにこの霊は、しょっちゅう名前を変えます。たとえば、アメリカ人は、すぐに、「ゴッド・ブレス・アメリカ」という名前の霊の奴隷になってしまう。そこで正義を振りかざします。

(5)タブーと奴隷化

私たちの日本も、「ゴッド・ブレス・アメリカ」と似たような霊を持っているかもしれません。「君が代」とか「日の丸」という名前の霊かも知れません。この種の霊の特徴は、相手を強制的に支配しようとすることです。最近のニュースでは、「国旗損壊罪」(こっきそんかいざい)という法案が出されるようです。日本の国旗、つまり日の丸を損壊することに対する刑罰を規定した「国旗損壊罪」を新設する法律案です。これは、「日の丸」が力を持って、私たちを支配してくるということにつながっていくのではないでしょうか。それはタブーのある世界です。

この世界にイエス・キリストが来られたということは、イエス・キリストによって、私たちはそのようなタブーのある世界から、私たちに隷属を強いてくるもろもろの霊から解放されたということに他ならないと思うのです。

しかし何かとてつもない事件に遭遇すると、私たちはいとも簡単にその信仰がぐらついてしまう。たとえば、9・11後のアメリカがまさにそういう事態に陥ったのではないかと思います。クリスチャンが大半を占めるはずのあの国において、いざとなったら、イエス・キリストの名を唱えながら、そこに真の正義の神に委ねるよりも、自分で「正義」と名付けた、武力の霊に身を委ねて解決しようとする。

「神様よりも武力の方が頼りになる。力がある」。今のトランプ政権もそうかもしれません。そのように、いとも簡単に信仰以前の状態に逆戻りしてしまうのです。パウロにしてみれば、「本当の信仰に帰ってこい」という思いであったでしょう。私たちは謙虚にこの言葉を聞かなければならないのではないでしょうか。

(6)「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊

4節にこう記されています。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から生まれた者、律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の下にある者を贖い出し、私たちに子としての身分を授けるためでした。」4:4~5

私たちをそうした律法から贖い出すために、そしてもろもろの霊の支配から贖い出すために、イエス・キリストは来られた。「女から」という表現は、処女降誕の話ではなく、むしろ他の人間と変わらない仕方で来られた、ということを強調しています。私たちと同じ人間としてお生まれになった。私たちと同じところに立つため、そしてそこにうずくまってしまうのではなくて、そこから共に立ち上がらせるためです。

「律法の下に生まれた者として」。この言葉も、私たちと同じ悩み、同じ苦しみの下におかれている者として、イエス・キリストはこの世界に来られたということを表しています。神様がそれを、時を定めて、イエス・キリストを通して実現された。それによって、私たちは、真実な意味で、「神の子」とされた。それがこのテキストの言おうとしていることです。

イエス・キリストがまことの神の子であるがゆえに、それに連なる私たちも(クリスチャンであろうとなかろうと)神の子と認められるのです。イエス・キリストは、私たちを神の子とするために、この世に来られた。これは、クリスマスの意義について語っていると思います。この部分を読んでいると、おもしろいことに気づかされます。

「あなたがたが子であるゆえに、神は『アッバ、父よ』と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。」4:6

4節の方では、御子イエス・キリストの派遣について語っていましたが、6節では、聖霊の派遣について述べています。イエス・キリストがこの世界に遣わされたというのは、世界に対して一回限りの出来事です。しかしその一回限りの「御子の派遣」という出来事は、私たちにとっては、「御子の霊の派遣」という形で実現する。それこそが、ペンテコステのことを語っていると言えるでしょう。クリスマスとペンテコステはつながっているのです。イエス・キリストが来られたということは、自分の身近なこととしてはそのようにして起こるのです。霊がわたしのところへやってきた。そしてその派遣された霊は、私たちのうちに留まって、「アッバ、父よ」と呼び求めるのです。

この「アッバ」というのは、アラム語で子どもがお父さんを呼ぶ言い方です。恐らく人間が生まれて最初に発する「アバババ」という音が、すでに「お父さん」という言葉になっているということだと思います。それは実は、私たちの内側から、その霊が私たちに代わって、神さまに向かって叫ぶことによって、父なる神と一体化することが許されたということでしょう。

そこで何が始まったか。父なる神を「お父ちゃん」あるいは「パパ」というように本当に身近に感じ、その神さまに対して、全く自由に、そうしない自由も認めつつ、礼拝することができるようになったということです。

(7)信仰を持って生きるとは

パウロは9節において、「だが、今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに」、と語ります。神を知っているということは、同時に神に知られていることだ。

パウロは、他の手紙も含めて、手紙を自分で書いたのではないと言われています。彼のアシスタント、あるいは秘書が、パウロが語る言葉を口述筆記したのです。パウロはここで「だが、今や神を知ったのに」と言った後で、「ちょっと待って!」と言って、「いや、神に知られているのに」と言い直したのではないでしょうか。その様子が彷彿としてきます。パウロのそういう言い換えの中に、私たちと神様との本当の関係というものが、かいま見えているように思いました。

今日の世界において、私たちが信仰を持って生きるということは、一体どういうことでしょうか。それは、どんな状況にあっても、正義と愛の神様が生きておられることを信じることではないでしょうか。自分で復讐しなければならないという思いから解放され、忍耐をもって歩み、神の意志がどこにあるのかを尋ね求めつつ、どんなことに出会っても失望せず、絶望せず、希望を掲げて、分かち合いの世界に向けて、たゆまない努力をしていく勇気をもつことではないでしょうか。もろもろの霊から解き放たれた私たち、神の子として、喜んで、真の神さまに従っていきたいと思います。

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