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2022年11月6日説教「ラハブの存在」松本敏之牧師

ヨシュア記2章1~15節
マタイによる福音書1章5~6節a

(1)ヨシュア記とは

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課は、先週の金曜日、11月4日からヨシュア記に入りました。皆さんは、聖書通読を続けておられるでしょうか。一度ドロップアウトされた方も、旧約聖書はこのヨシュア記からまた新しい部分に入りますので、ここから再び合流されてもよいかと思います。

最初に、ヨシュア記とは、どういう書物であるかについて述べておきましょう。旧約聖書の最初の5つの書物、すなわち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記は、モーセ五書と呼ばれて、ひとつのセットになっています。律法(トーラー)と呼ばれることもあります。伝統的にはモーセがこれを書いたとされてきましたが、今ではそうではないということがわかっています。ヨシュア記はそのモーセ五書を受けて書かれているのですが、ここから新たなグループになります。ヨシュア記、士師記、そして小さなルツ記をはさんで、サムエル記上・下、列王記上・下がそのグループです。またおいおいお話することになると思います。

先ほど、ヨシュア記はモーセ五書を受けて書かれている、と申し上げましたが、ヨシュア記は一言で言えば、創世記で約束されていた「約束の地」カナンを手に入れる物語です。創世記12章5節のところで、アブラハム(アブラム)はカナンに向けて出発したことが記され、そのすぐ後でこう記されていました。

「主はアブラムに言われた。『私はあなたの子孫にこの地を与える。』」創世記12:7

また創世記28章13節では、ヤコブに対して、こう言われました。

「私は主、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神である。今あなたが身を横たえているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地の塵のようになって、西へ東へ、北へ南へと広がってゆく。」創世記28:13~14

しかしこの約束は、そのまま継続的に成就するわけではありません。ヤコブ、ヨセフの時代に、飢饉に見舞われ、その地を離れてエジプトに逃れて生き延びるのです。ところが、その後の400年の間に、逃れの地、救いの地であったはずのエジプトが、彼らにとって捕らわれの地、奴隷の地になってしまうのです。その段階で、あのアブラハムに対する約束、ヤコブに対する約束は途絶えてしまったかのように見えました。アブラハムの子孫たちはすでに約束の地を離れています。しかし約束は忘れ去られてはいませんでした。エジプトにおいて、モーセがリーダーとして立てられて、奴隷の地エジプトから導き出され、約束の地、カナンへ向かって出エジプトの旅をするのです。そして40年におよぶ旅の後、モーセが死んでいくところで申命記が終わります。そして新たなリーダー、ヨシュアが立てられて、カナンの地に入っていくのです。

ヨシュア記の終わり近く、23章43節には、こう記されています。

「主が先祖に与えると誓われた地を、ことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを所有し、そこに住んだ。主は、彼らの先祖に誓われたとおり、周囲から彼らを守り、安住の地を与えられた。」ヨシュア23:43

「主がイスラエルの家に告げられた恵みの言葉のうち、実現しなかったものは一つもなく、ことごとく成就した。」ヨシュア23:45

(2)皆殺しの物語をどう読むか

ただヨシュア記を読んで辟易すること、そして気をつけて読まなければならないことは、カナンに住んでいた人々を、皆殺しにしてそこを征服するという書き方がなされていることです。近代現代の民族大虐殺のルーツをここに見てしまう人もあるかもしれません。しかしそれは区別して読まなければならないでしょうし、この物語から、決して民族大虐殺を正当化してはならないでしょう。また現代のイスラエル国家が、「ここは自分たちに与えられた土地だ」として、パレスチナ人を追い出したり、支配したりすることの根拠にしてはならないし、させてはならないでしょう。

ここに記されていることは、あくまで弱小であったイスラエルの民、神の民が、神の恵みと力を受けて、そこに定住することができるようになったということを記す信仰の物語であり、記されたのも、ずっと後の時代のことです。かなりの誇張があると思われます。むしろそれはイスラエルの民自身が、異教の神や先住の人々が持っていたものに誘惑されないように、という自らの戒めという意味合いが強いということです。実際に、ここに書かれているような民族大虐殺が行われたということは他の歴史書や考古学などで調べる限りでは確かめられないことです。

(3)「強く、雄々しくあれ」

それらのことを念頭に置きながら、ヨシュア記の最初に戻って、物語を少したどってみましょう。ヨシュア記は、このように始まります。

「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者であったヌンの子ヨシュアに言われた。『私の僕モーセは死んだ。さあ今、あなたとこの民は皆立ち上がり、このヨルダン川を渡りなさい。その先には、私がこの民、イスラエルの人々に与える地がある。』」ヨシュア1:1

大指導者モーセの後継者となったヨシュアは、その責任の重さにひるんだのではないでしょうか。そのヨシュアを、神様はこのように励まされるのです。

「私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。私がこの民の先祖に誓い、今この民に与える地を、彼らに受け継がせるのはあなただからだ。あなたはただ、大いに強く、雄々しくありなさい。」ヨシュア1:5b~7a

しかしそれでもヨシュアは自信がもてなかったのでしょうか。神様はしつこい程に、ヨシュアにこう言われるのです。

「強く、雄々しくあれと、私はあなたに命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの神、主があなたと共にいるからだ。」ヨシュア1:9

私たちも、何か大事な仕事を引き受けなければならない時に、ひるんだり、うろたえたりしがちです。神様のこのヨシュアに対する励ましは、そうした私たちへの励ましとして響いてきます。そしてその役割を引き受けていく勇気が与えられるのです。

(4)二人の斥候を助けたラハブ

続く第2章は、今日、読んでいただいたところですが、ヨシュアは、これから入っていこうとする地エリコに、先に二人の斥候を使わして、偵察させるのです。

彼らはラハブという名前の遊女の家に入り、そこに泊まりました。なぜそこに宿をとったかは記されていませんが、遊女と遊ぶためではなかったでしょう。そこはいろいろな人が出入りし、情報を集めやすいからではないかと思います。しかし逆に、彼らがそこに泊まっていることをエリコの王に告げるものがありました。エリコの王のもとから、ラハブのところに人が派遣されて、こう言わせるのです。

「お前のところに来て、家に入り込んだ男たちを引き渡せ。その者たちはこの地の探るために来たのだ。」ヨシュア2:3

しかし彼女は、彼らを引き渡すことはせず、かくまい、こう答えました。

「確かに、その人たちは私のところに来ましたが、どこから来たかは知りません。暗くなって城門が閉まる頃、あの人たちは出ていきましたが、どこへ行ったかは知りません。急いで後を追えば、追いつけるでしょう。」ヨシュア2:4~5

そういう嘘をつきながら、彼女は二人を屋上へ上らせ、屋根に積んであった亜麻の束で隠していたのでした。私が想像するには、彼女は、ふだんからそれに似たことをやっていたのではないでしょうか。ふだんは彼女のところに遊びに来た男たちの妻が嫉妬にかられてラハブの家に押しかけて来た、そういう状況を思い浮かべます。男たちはラハブに、「すまん。どこかに隠れるところはないか」と言って、彼女は屋上に彼らをかくまったことでしょう。しかし今回は違います。もっと深刻であり、ラハブも命がけです。ラハブは、イスラエルの一行のうわさを聞いていたのでした。やはり彼女のところには情報が集まるのでした。彼女は、エリコの王の使いたちが去った後、屋上へ行って、二人にこう言いました。

「主があなたがたにこの土地を与えられたこと、そのため、私たちが恐怖に襲われ、この地の住民たちもあなたがたの前に恐れおののいていることを、私は知っています。」そして神様が、これまでイスラエルの民になしてくださった不思議なわざについて語り、こう語りました。

「あなたがたの神、主こそ、上は天、下は地において神であられるからです。」これは異邦人ラハブのヤハウェの神に対する信仰告白と言ってもよいでしょう。そしてこう付け加えました。

「私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたも、私の家族に誠意を尽くすと、今、主の前で誓ってください。そして、確かなしるしをください。私の父、母、兄弟、姉妹、そして彼らに連なるすべての者を生かし、私たちの命を死から救ってください。」ヨシュア2:13

二人は答えました。「あなたがたのために我々の命を懸けよう。もし、あなたが我々のことを誰にも漏らさなければ、主がこの地を我々に与えられるとき、あなたがたに慈しみとまことを示そう。」(ヨシュア2:14)

そしてラハブは、二人をこっそりと、城壁の壁面にあった彼女の家の窓から二人をつり降ろして、逃がしてやるのです。はらはらどきどきの場面です。彼女も命がけです。

やがてイスラエルの民が、この地にやってきたときに、ラハブの一族の命を救うためのしるしは「深紅のよりひも」(真っ赤なひも)でした。真っ赤なひもをつけたところは攻め入らないのです。これは「小羊の血を塗った家は災いを過ぎ越す」といった、あの出エジプトの出来事をほうふつとさせるものがあります。

そしてその約束、誓いは、ヨシュア記6章のところで果たされることになります。6章25節にこう記されます。

「また、遊女ラハブと彼女の家族、彼女に連なるすべての者たちはヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住み着き、今日に至っている。彼女は、ヨシュアがエリコを偵察しに遣わした使者をかくまってくれたからである。」ヨシュア6:25

(5)ラハブはどういう人物であったか

さて、このラハブとはどういう人であったのでしょうか。ラハブの行動をどう評価すればよいのでしょうか。見方によっては、彼女は自分の同族を裏切って、勝ち目のありそうなイスラエルのほうに寝返った打算的な人物というふうに見ることもできるかもしれません。しかし私は、ラハブはエリコの町で最下層に置かれ、虐げられ、解放をもとめていた人間であったのではないかと想像します。決して好きで遊女になったわけではない。そのようにしてしか生きていくすべがなかったのでしょう。

そうした彼女のもとに、解放を予感させるおとずれ(よきおとずれ)が来たのです。そして彼女は、ヤハウェの神を信じたのです。そして信じただけではなく、とっさの判断で大胆な行動に打って出ました。それは信仰に基づく命がけの行動でありました。

(6)信仰の先達としてのラハブ

ヨシュア記6章のエリコの陥落の後、ラハブの名前は旧約聖書の中に、なぜか一度も出てきません。ただし新約聖書の中には、実は3回登場するのです。

ひとつはヘブライ人への手紙11章31節です。ヘブライ人への手紙の11章は、このように始まります。

「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。」ヘブライ11:1

聖書協会共同訳は少し難しい言葉になりました。新共同訳聖書では、こういう言葉でした。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」ヘブライ11:1、新共同訳

こちらの日本語のほうがわかりやすい気がしますが、新しい聖書協会共同訳のほうが原文に近いのでしょう。信仰はまだ実現していないけれども、神様がおられるのであれば、必ずこのようにしてくださるに違いないということを信じ、幻によって見せられたことを確信することなのでしょう。そこから11章2節はこう続きます。「昔の人たちは信仰のゆえに称賛されました。」そして、旧約聖書ダイジェストのように、信仰の先達の模範が次々と紹介されるのです。一例をあげれば、アブラハムについて、こう書いてあります。

「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出ていくように召されたとき、これに従い、行(ゆ)く先を知らずに出ていきました。」ヘブライ11:8

その後、信仰者列伝のように、「信仰によって、イサクは~」(20節)、「信仰によって、ヤコブは~」(21節)、「信仰によって、ヨセフは~」(22節)、「信仰によってモーセは~」(23節)と続きます。その最後に、「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た者たちを穏やかに迎え入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びることはありませんでした」(31節)と、その信仰が称えられるのです。

(7)行いを伴った信仰の模範ラハブ

二つ目に新約聖書に出てくるのは、ヤコブの手紙2章25節です。ヤコブの手紙という書物は、行いを伴わない信仰を、徹底的に批判した書物です。「信仰によって義とされる」というけれども、その信仰が行いを伴っていなければ、意味がないではないかと厳しく言いました。その行いを伴った信仰の持ち主の模範としてラハブが数えられるのです。ヤコブはこう言います。

「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、遊女ラハブも、あの使いの者たち家に迎え入れ、別の道へ送り出したとき、行いによって義とされたのではありませんか。」ヤコブ2:24~25

ラハブの信仰に基づいた行いが称えられているのです。

(8)イエスの系図の中のラハブ

そして三つ目。そして最も重要だと思われるのは、先ほど読んでいたただいたマタイによる福音書1章5節です。イエス・キリストの系図の中に、さらりとラハブの名前が登場します。

「サルモンはラハブによってボアズをもうけ、ボアズはルツによってオベドをもうけ、オベドはエッサイをもうけ、エッサイはダビデ王をもうけた。」マタイ1:5~6

つまりラハブはダビデ王の曾祖父の母(ひいひいおばあちゃん)として記されているのです。

この系図の中に、女性が5人だけ記されています。タマルとラハブとルツとウリヤの妻(バトシェバ)とマリアです。今日は、その一人一人について詳しく述べることはできませんが、それぞれに、いわくつきの女性たちであり、差別され、どん底を経験した人たちでした。彼女たちの存在そのものが、救い主を待ち望む歴史であったともいえるでしょう。その典型的なのが遊女ラハブでしょう。イエス・キリストは、そうした厳しい現実を背負ってこの世界に来られたのだということを、この系図は示しているのです。

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