2026年4月19日説教「破棄されない約束」松本敏之牧師・奏楽椎名雄一郎
創世記12:1~3
ガラテヤの信徒への手紙3:15~20
(1)遺言と契約
ガラテヤの信徒への手紙を続けて読んでいます。これまでのところ(3章前半)において、パウロは、「人は律法を守って、自分の正しさを示そうとするが、そうした仕方では誰も救われない。それで救われようとするならば、全部律法を守らなければならなくなるが、そんなことは誰にもできない」と言いました。「そうではなく、人はただ神の恵みにより、あるいはまたそれを信じる信仰により、神さまに受け入れられるのだ。」それがパウロの言おうとしていたことであります。
今日のところも、大きくはその話を引き継いでいるのですが、少し角度を変えて話し始めます。「きょうだいたち、人間を例にとって話しましょう」(15節)と述べます。文字通りに訳せば、「人間的な仕方で言おう」という言葉です。新共同訳聖書では、「兄弟たち、分かりやすく説明しましょう」となっていました。もう一つ前の口語訳聖書では、「世のならわしを例にとって言おう」となっていました。それで次のようなたとえを持ってくるのです。
「人間の契約でさえ、法的に有効となったら、誰も無効にしたり、それに追加したりできません。」3:15
誰かが契約を結び、それが法的に有効と認められれば、あとの人は誰もそれを勝手に書き替えられない。文書偽造ということになってしまう。これはよくわかる話です。パウロは何でこんな話をしたのかと言えば、これがその後の17節の伏線になっているのです。17節にも「契約」という言葉が出てきますが、この「契約」という言葉は、「遺言」という言葉とギリシャ語では同じ言葉なのです(ディアセーケー)。新共同訳聖書では、15節のほうは、「遺言」と訳されていました。17節を読んでみましょう。
「私が言いたいのは、こうです。神があらかじめ有効なものとされた契約が、それから430年後にできた律法によって破棄され、その約束が無効になることはないということです。」3:17
人間の契約(遺言)でさえ一旦成立したら、それは後の者が勝手に変えられないならば、ましてや神さまとの契約が、後の誰かによって無効にされると言うことがあるわけないではないか。そういう論理です。
430年とは一体何なのかと言うと、もう少し具体的に説明しましょう。これはアブラハムからモーセにいたる年数なのです。これについては本当にその通り、430年であったのかどうかは、疑問があります。しかし当時はそういうふうに計算したのです。いずれにしろ、それだけ長い年月が経っている。大昔、神さまがアブラハムと契約を結びました。(もっとも「契約」と言っても、ここでは「約束」という言葉になっています。この点は大事なことなので、あとでお話しいたします。いずれにしろ、アブラハムに対して一つの約束が与えられました。)それから430年が経って、今度はモーセに律法が与えられました。ただしその律法がアブラハムに与えられた約束を変更することはできない、無効にすることもできない、ということです。大分話が見えてきたと思います。
(2)「子孫」とはイエス・キリスト
それでは、アブラハムに与えられた約束とは何であったのでしょうか。その間の16節を読んでみましょう。
「さて、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この子孫とは、キリストのことです。」ガラテヤ3:16
アブラハム物語の中にこういう言葉があります。
「私はあなた、あなたに続く子孫との間に契約を立て、それを代々にわたる永遠の契約とする。私が、あなたとあなたの子孫の神となるためである。私はあなたが身を寄せている地、カナンの全土を、あなたとあなたに続く子孫にとこしえの所有地として与える。こうして私は彼らの神となる。」創世記17:7~8
パウロは、「この『子孫』という言葉は単数形になっているだろう。だからある一人の人物を指しているのだ。そしてその一人の人物こそが他ならないイエス・キリストであったのだ」と主張するのです。これは文法的に言っても、残念ながらかなり強引な解釈です。「子孫」というのは、複数形になっていなくても、多くの人を指す集合名詞だからです。しかしパウロは恐らくそんなことは承知の上で、この話をしたのだと思います。この「子孫」という言葉に、ぴーんとインスピレーションが働いた。それこそ「霊的解釈」と言えるかも知れません。
「そうだったのか。あのアブラハムに与えられた祝福の約束は、モーセをはるかに通り越して、一直線にイエス・キリストを指し示していたのだ。」ダビデ王も貫いています。しかし目指していた「一人の人」とは、ダビデ王ではない。それは中間地点に過ぎない。目指すはイエス・キリスト。パウロには、アブラハムからイエス・キリストを指し示す一本の道が見えたのです。アブラハムに与えられた祝福の約束は、イエス・キリストにおいて成就する。
(3)契約と約束
先ほど申し上げましたように、パウロはここで、「約束」という言葉と「契約」という言葉をほとんど同じような意味で使っています。意識的にそうしているのか、無意識にそうなったのかはわかりません。しかし私は、このところにも深い聖書的真理があるのではないかと思います。普通はいかがでしょうか。「約束」と「契約」はどう違うでしょうか。私の語感で言いますと、「約束」の方が広い意味を持つ。「契約」は約束の一形態、という感じがいたします。ちなみに手元の古い『広辞苑』(第二版、1969年)で、「契約」を調べてみますと、第一の意味は、「約束」となっていました。ですから、「約束」と「契約」を織り交ぜて使っても、そうまちがいではありません。第二は、こうなっていました。「債権の発生を目的とする二人以上の当事者の意思表示の合致によって成立する法律行為。」つまり「契約」ということを、単なる「約束」ということを超えてもっと厳密に考えるならば、二人以上の当事者の意思表示の合致によって成立する」、つまり両方に守るべき条件があるのです。
「一日何時間、働いてください。そうすれば、いくら支払います」。「わかりました」。契約成立です。「家賃はいくらです。それからこれこれのことは必ずやってください。月曜日と木曜日はゴミ出しをしてください。そうすれば、ここに住んでいただいて結構です。」「わかりました」。両方に条件があるのです。両者の合意によって成り立っている。だからどちらかがその約束を破れば、「契約不履行」ということになってしまいます。
そういう意味で「契約」ということを考えるならば、実はアブラハムよりもモーセの方がこれに近いのかも知れません。モーセには律法が与えられました。その根幹にあるのは、十戒と呼ばれている十の戒めです。十戒は旧約聖書の中で、出エジプト記と申命記に二回出てくるのですが、その申命記のほうの十戒のすぐ後には、こういう言葉が出てくるのです。
「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。……そうすれば、あなたがたは生き、幸せになり、あなたがたが所有する地で長く生きることができる。」申命記5:32~33
ここに「そうすれば」という条件がついています。もう一つ、この直後の申命記6章の冒頭には、こう記されています。
「これは、あなたがたの神、主があなたがたに教えられた戒め、掟と法であって、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地で行うべきものである。あなたも、子も孫も、生きているかぎり、あなたの神、主を畏れ、私が命じるすべての掟と戒めを守って、長く生きるためである。イスラエルよ、あなたはよく聞いて、守り行いなさい。そうすれば、幸せになり、あなたの父祖の神、主が告げられたとおり、乳と蜜の流れる地で大いに増える。」申命記6:1~3
ここにも「そうすれば」という言葉があります。祝福を得るには、条件があるというのです。「契約」ということであれば、あのアブラハムよりも、こちらのモーセの方があてはまるように思えます。「あなたがたは律法を守りなさい。そうすれば祝福を得る」ということです。
その当たり前のようなことを承知の上で、いやそれが常識のようになっているからこそ、パウロは「契約」という言葉でモーセを引用するのではなくて、むしろモーセを退けつつ、アブラハムを前面に押し出してくるのです。どう違うのかと言いますと、もうおわかりかもしれませんが、モーセの「契約」の方は条件付きです。「律法を守りなさい。そうすれば幸いを得る」ということです。一方、アブラハムの方は、条件なし。「そうすれば」というのがないのです。神さまの方が、先に一方的に祝福の宣言をされた。前回お読みした創世記15章では、神さまはアブラハム夜空の星を見せて、「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。条件なし。そしてその後で、アブラハムは「それを信じた」。そして「神はそれをアブラハムの義と認められた」となっていました。そういう展開です。
パウロが言いたいのはこういうことです。みんな「契約」というと、モーセを通してなされた契約のことを思い浮かべるだろうけれども、実は、アブラハムの契約の方が先なんだ。モーセよりも430年も前に成立してしまっている。そこには「こうこうすれば」というような条件などなかった。それを430年も後から、いろいろと条件をつけるのはおかしい。
私たちの世界では、契約が一旦成立してしまった後から、「いや実は、あれもこれもしてください」という話が時々あります。生きている人間の契約だと、時々そういう風に契約変更ということもありえます。両者が合意すればそれも成立します。だからこそ、パウロはここで「遺言」という契約をたとえに出したのだと思います。当人は死んでしまっているから、もうその遺言は勝手に変更できない。神さまとの契約はそのようなものだ、ということです。神さまが死んでしまった、ということではありません。あのアブラハムの時は条件なしだったけれども、やっぱり条件を付けます。そういうことはしない、ということです。だからこそ、パウロは、ここでアブラハムの時の「契約」を、「約束」という言葉で置き換えて使っているのです。アブラハムとの間の「契約」とは、実は、神さまのほうからの一方的な約束だったのだという含みがあるのです。
それで18節を読むと、大分わかるのではないでしょうか。
「もし相続が律法によってなされるのなら、もはや、これは約束によるものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムに相続の恵みをお与えになったのです。」3:18
アブラハムに対してなだれた約束は、モーセによっても破棄できない、ということです。
(4)違反を明らかにするため
パウロはそれを受けて、次に、それでは律法とはいったい何なのかということを、19節以下で述べます。19節。
「では、律法とは何でしょうか。律法は、約束を受けた子孫が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられ、また、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものにすぎません。」3:19
ここに三つのポイントが語られています。一つは(日本語の語順では真ん中ですが)、「違反を明らかにするために付け加えられ」たということです。つまり律法がなければ、何が罪であるかもわからない。律法があることによって、人間は初めて、違反・罪をはっきり知ることができる、ということです。
日本人は、「教会で、罪、罪と言うけれども、罪とは何であるかよくわからない」と言います。ぼんやりとした罪意識くらいならあるかも知れない。何か悪いことをした時に、罪意識をもつ。いやその罪意識というのも、厳密に言えば、罪意識ではなくて、恥意識だと言う人もいます。日本の文化は恥の文化だと(ルース・ベネディクト『菊と刀』)。恥というのは、人と人との間の関係における意識です。相対的なのです。ある絶対的な基準というものがありません。「人様に迷惑をかけるようなことをしてはいけない」ということが行動基準となります。そうすると、人に迷惑をかけていなければ何をしてもよいのかということになりかねない。もちろん犯罪というのははっきりしています。法律があってそれに違反をすれば、犯罪行為になる。
それと同じように、パウロは律法がなければ、私たちは神さまの前で何が罪であるかがわからない。律法によって罪が明らかにされる、というのです。言い換えれば、律法によって、人間はこうあるべきだ、こう生きるべきだという、正しい人間のあり方のスタンダードが示されたということができるでしょう。
(5)キリストが来られる時まで
二つ目は、律法が有効であるのは、「約束を受けた子孫が来られるときまで」だということです。「約束を受けた子孫」というのは、パウロによれば、イエス・キリストのことでした。そのイエス・キリストが来られたら、もう律法は用が終わるということです。
ただし、これも少し説明が必要かも知れません。パウロ自身、別の箇所では「それでは、私たちは信仰によって、律法を無効にするのか。決してそうではない。むしろ律法を確立するのです」(ローマ3:31)と言っています。イエス様も、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と言っておられます。
この矛盾するような言葉を、どう解釈するかということになりますが、私はこういうことだと思うのです。イエス・キリストが来られるまでは、神と人間の関係は、この律法を守ることによって保たれていたけれども、キリストが来られたからには、神と人間の関係は、この律法によって支えられているのではない。アブラハム以来、約束されていたこの神の御子によって支えられるようになる。
それを根本的な関係として、その上で律法も新たな意意味を持つようになる。いやむしろ、そこで初めて、律法にあらわされた神さまとの御心というものが明らかにされたということでしょう。それが律法の完成。律法の確立ということでありましょう。
(6)仲介者のあるなし
パウロは、三つ目にこういうことを語っています。
「(律法は、)天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものにすぎません。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束については、神はひとりで事を運ばれたのです。」3:19
律法はモーセという仲介者の手を経て、人間に与えられた。約束は直接、神から与えられた。仲介者が間に入る場合と、仲介者が入らない場合を比べると、入らない関係の方がいいに決まっている、と言いたいのでしょう。
私たちの場合もそうでしょう。「誰かが仲介(仲裁)に入らなければならない」と言うこと自体が、すでに何か問題がある場合なのです。誰かと誰かの関係が壊れた場合、自分たちだけで関係を回復できない場合に、家庭裁判所、弁護士に仲介者となってもらいます。律法というのは、天使たちを通して示され、しかもモーセの手に委ねられたということは、そのように神と人間の間の関係が壊れていることを前提としているのだ、というのです。
「イエス・キリストもモーセのように仲介者ではないか」と思われる方もあるかも知れませんが、むしろ、新約聖書は、イエス・キリストというのは、むしろ神ご自身が、人となってもっと直接に人間と向き合われたその姿であるという方が、ふさわしいと思います。
「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理は、イエス・キリストを通して現れたからである。」ヨハネ1:17
(7)長男ののこした遺書
最後にあるエピソードをご紹介いたしましょう。キリスト教が禁じられていたある国で、クリスチャンたちは密かに地下で礼拝をしていました。その地下教会へ向かう途中で、警官に見つかってしまいます。「どこへ行くのだ」と呼び止められました。そうすると、そのクリスチャンはこう答えたと言うのです。
「実は私たちの長男が死んだのです。そしてその長男が遺書を残しました。私たちはその遺書について調べに行くために、父の家へ行くところであります」。こういう風に言い逃れをしたというのですが、これは全くの「嘘」ではありません。「長男が遺書をのこして死んだ。そしてその遺書について調べるために、父の家へ行くところだ。」先ほど、「契約」という言葉と、「遺書」という言葉が同じ言葉であると申し上げました。英語でも、Testament という言葉には、その含みがあります。
「長男」というのは、みなさんもお察しのように、イエス・キリストのことです(ローマ8:29)。イエス・キリストによる遺書、その契約が、 New Testament であります。それを調べるために父の家へ行く、というのは、教会へ行くということの隠語です。アブラハムに対して与えられた契約が無にならないために、イエス・キリストを遣わされ、そのイエス・キリストによって契約が成就した。その契約は最初に無条件であると言いましたが、それは私たちに対しては無条件ということであって、契約が成り立つためには、実はイエス・キリストという条件があったのです。それを神ご自身が提供された。聖餐式の時に、いつもこういう言葉が読まれます。
「この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。」コリント一11:25
私の血による「新しい契約」。 New Testament 。この契約には、イエス・キリストの血が注がれている。人間の側では無条件だけれども、そのアブラハムに対してなされた契約が無にならないために、神さまはご自分の方で、その契約を全うするべく、イエス・キリストを遣わし、イエス・キリストの血で、契約を新たにされた。これが新約聖書の語る福音です。私たちはそれに賭けて生きていきたい。そこにこそ、私たちが生きる道がある。神さまは約束を破棄されない。命がけでそれを守られる。その契約のほころびを、神さまは自分で修復される道をつけられた。最後にヨハネ福音書3章16節の言葉をお読みしたいと思います。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16