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2023年4月30日説教「ダビデ、最大の罪」松本敏之牧師

サムエル下上12章1~10節
ヨハネの手紙一1章7~9節a

(1)サムエル記下

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課を始めて、3年目に入りました。4月はサムエル記下18章から始まり、サムエル記下はすでに終えて、詩編をはさんで、4月21日からはその次の列王記上に入っています。サムエル記下については、説教でまだ取りあげていませんでしたので、遅ればせながらではありますが、本日、取りあげることにいたしました。

サムエル記上は、イスラエル最初の王が立てられていく話、そして最初の王サウルの統治の時代の話、そしてダビデが台頭してくる話、ダビデがサウル王に命を狙われる話などであした。そしてサウル王が死ぬところで終わります。

サムエル記下はその後、ダビデが王として立てられていくところから始まります。2章のところで、まず南ユダ王国の王となりますが、5章のところで北イスラエルでも油注ぎを受け、北イスラエルと南ユダの全土で王として立てられます。

7章はナタンの預言と題されています。神様は、預言者ナタンを通して、このように告げられるのです。

「万軍の主はこう言われる。牧場で羊の群れの後ろにいたあなたを取って、私の民イスラエルの指導者としたのは私だ。あなたがどこに行こうと、私は共にいて、あなたの前から敵をことごとく絶ち、地上の大いなる者の名に等しい名をあなたのものとする。」サムエル記下7:8~9)

ダビデはその言葉を聞いて、このように応答しました。

「主なる神よ、取るに足りない私と、私の家を、ここまでお導きくださるのは、なぜでしょうか。」サムエル記下7:18)

「主なる神よ、あなたはまことに大いなる方。私たちの知る限り、あなたのような方はなく、あなたの他に神はありません。」サムエル記下7:22)

サムエル記下7章の後半には、ダビデの信仰、謙虚な心を表す、祈りの言葉がずっと並んでいます。しかしそのような謙虚な心をもっていたはずのダビデも、王になった後は、そうでもなくなってしまいます。ダビデ物語について語る時に、どうしても触れておかなければならないのが11章に記されている、ダビデ最大の罪の物語です。

(2)バト・シェバを自分のものとするために

イスラエルの全軍が、アンモン人と戦っている時でした。ダビデは王宮にいました。寝床から起き上がり、屋上を散歩していたところ、一人の女性が水浴びをしているのが屋上から見えました。彼女はとても美しい人でした。ダビデは人をやってその女のことを調べさせます。「あれはエリヤムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻です」という知らせを受けました。

ダビデは、バト・シェバが人妻だと知って、自分の欲望を理性で抑制するのではなく、平気で、彼女を召し出すのです。そして床を共にしました。彼女には抵抗する術もありません。そして彼女は帰って行きました。やがて彼女は身ごもりました。そして人をやってダビデに告げました。「私は子を宿しました。」原語では単純に、「私は妊娠しました」という言葉です。

そこでダビデは、どうしたかと言うと、夫であるウリヤを戦地から呼び戻します。ウリヤがダビデのもとに来ると、ダビデは何食わぬ顔をして、ウリヤの上官であるヨアブの安否を問い、兵の安否を問い、戦況を尋ねました。そしてウリヤにこう言いました。「家に帰って、足の汚れを落とすがよい。」「足の汚れを落とす」というのは、性交、セックスを意味する隠語でした。そして贈り物をたくさん持たせます。つまりダビデは、バト・シェバの妊娠を夫ウリヤによるものと見せかけようと企んだのです。

しかしウリヤは、ダビデの計画通りには動いてくれませんでした。彼はユダヤ人ではなく、ヘト人でしたが、自分の上官であるヨアブにも、その上に立つダビデにも忠実な家臣であり、仲間たちに対しても誠実な心を持った人間でした。仲間が敵と戦っている最中に、自分だけ家に帰ることはできないと考えて、家には帰らず、王宮の入口で眠ります。ダビデは再びウリヤを呼び出して、「どうして家に帰らなかったのか」と問うと、「どうして自分だけ家に帰って妻と寝ることができましょうか」と答えました。ダビデの作戦は失敗に終わりました。

ダビデが次に考えたことは、戦地で敵の手でウリヤを殺してしまうことでした。その指示について書いたヨアブ宛の書簡を、よりによってウリヤに持たせるのです。ヨアブは家臣のウリヤを他の兵士たちと共に戦いの熾烈な最前線に送り込み、討ち死にさせました。そしてヨアブは、人をやってそのことをダビデに報告しました。ダビデは使いの者にこう語りました。

「ヨアブにこう伝えよ。『このことで、心配するには及ばない。いずれにせよ、剣は人を餌食にするものだ。雄々しく戦い、町を攻め落とせ。』そう言って、彼を励ますように。」サムエル記下11:25

なんとしらじらしい言葉でしょう。バト・シェバは夫ウリヤが戦死したと聞いて嘆き悲しみました。喪が明けると、ダビデはバト・シェバを引き取り、バト・シェバは子どもを生みました。ダビデは、ウリヤが家に帰らなかった時は、少しあせったでしょうが、結果的にすべてうまく行ったと思ったかもしれません。ウリヤも恐らく何も知らなかったでしょう。バト・シェバもなぜウリヤが死んでしまったのか、うすうす感じていたかもしれませんが、もしかすると知らなかったかもしれません。事の真相を知っているのは、ダビデとヨアブだけです。いや、そのはずでした。しかし神様は、知っておられました。聖書は、こう記します。

「ダビデのしたことは主の目に悪とされた。」11:27

(3)ナタンの告発

神様は、ダビデのもとに、さきの預言者ナタンを遣わしました。ナタンは、こんな話をしました。先ほど読んでいただいた12章です。

「ある町に二人の男がいた。
一人は富み、一人は貧しかった。
富める男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
貧しい男は自分で買い求めた一匹の雌の小羊のほかは
何一つ持っていなかった。」12:1~3

貧しい男はそのたった一匹の雌の小羊を、娘のようにとても大切にしました。一方、富める男のもとに一人の旅人がやって来るのですが、その富める男は自分の家畜を殺して料理するのはもったいないと考えて、その貧しい男の大事な小羊を取りあげて、それを殺して料理しで旅人をもてなしました。預言者ナタンはそういう話をしたのです。それを聞いていたダビデは、「けしからん奴だ」と思って、ナタンにこう言いました。

「主は生きておられる。そのようなことをした男は死ななければならない。」12:5

預言者ナタンは言います。

「それはあなたです。」12:7

ダビデは、実際にそういうことをした男がいると思ったのでしょう。しかしそうではありませんでした。ダビデに自分のしたことがどんなに重い罪であるかを悟らせるために、客観的に判断させるために、ひとつのたとえを用いて、話したのでした。ダビデは、どきっとしたことでしょう。ナタンはこう続けます。

「なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。あなたはあのヘト人ウリヤを剣にかけ、彼の妻を奪って自分の妻とし、アンモン人の剣で彼を殺した。それゆえ、剣はあなたの家からとこしえに離れることはない。あなたが私を侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って、自分の妻としたからである。」12:9~10

(4)十戒を破ったダビデ

ダビデのしたことは人の目に隠されていたとしても、神の前では隠されることはなかったのです。それが預言者ナタンによって暴露されます。
ダビデは、この時、十戒の中の少なくとも三つ、あるいは四つの戒めを破っています。

第一は「姦淫してはならない」という第七戒です。ダビデは、バト・シェバがウリヤの妻と知りながら、バト・シェバと床を共にしました。第二は、「隣人の妻、男女の奴隷、牛とろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」(貪ってはならない)という第十戒です。彼はウリヤの妻を欲しました。第三は、「殺してはならない」という第六戒です。ダビデは卑劣な手段によって、戦いの犠牲者のように見せかけて、ウリヤを殺しました。あるいは「盗んではならない」という第八戒を、これに加えることができるかもしれません。彼はウリヤから妻を盗んだのです。

かつてのダビデであれば、そういうことをしなかったでしょう。権力が彼を変えてしまった。この時も、ダビデは信仰者であることをやめたわけではありません。彼は信仰と権力、あるいは良心と権力のはざまで、堕落してしまったと言えるでしょう。権力は人を堕落させるのです。

ダビデの前のサウル王もそうでした。サウルも王になる前は神様の御心に適う歩みをしていましたが、自分の権力を脅かすかに見えるダビデが登場すると、そのダビデを亡き者にしようと、自分の権力を用いで、あるいは兵力を用いて、ダビデを追い掛け回すのです。サウルが手にした権力がサウルを狂わせたと言ってもよいでしょう。

その時のダビデは、何度もサウルを殺すチャンスにめぐり合わせながら、サウルを殺すことはしませんでした。しかし今や、権力を手にしたダビデは、いとも簡単にウリヤを死に追いやってしまうのです。またダビデがねらったのはウリヤ一人でしたが、その策略のせいいで、何人もの兵士がウリヤと共に犠牲になっています。しかもダビデはそのことを何とも思っていないようです。全く気にかけてようです。権力の恐ろしさを思います。

力を持つ人間と持たない人間の対比は、ナタンのたとえ話によって、鮮やかに描かれます。しかもダビデは、「それはあなたのことです」と言われるまで、自分のことだと気づかないのです。

(5)財務省決算文書、改ざん問題

そういうことは、今日でも起きうるし、起きていることでしょう。絶対的権力者のもとでは、その権力の犠牲となって殺されている人は数知れないでしょう。いや絶対的権力者でなくとも、力を持つ者と持たざる者の間で同じようなことは起きているのではないでしょうか。

たとえば、学校法人「森友学園」をめぐる財務省の決裁文書改ざん問題で、自死された近畿財務局の元職員、赤木俊夫さんのことを思います。

赤木さんの妻であった、雅子さんは、改ざんの遠因は安倍晋三元首相の国会答弁にあったと訴えましたが、私もそうだろうと思います。

安倍さんの国会答弁というのは、2017年(平成29年)2月の衆院予算委員会での「私や妻が関係していたら総理大臣も国会議員も辞める」という発言でした。赤木雅子さんによれば、改ざんについて、安倍氏の国会答弁が原因だったのではないかと当時の財務省幹部に尋ねたところ、「『間接的にあれが原因であろう』という話をされた」ということが報道されていました。

しかし誰も罪に問われることはありませんでした。安倍さんは、赤木さんの自死について、「本当に胸が痛む」とコメントしていましたが、誰がその改ざんに責任があるのか追及しようとはしませんでした。一番責任が重いとされる、当時の財務省理財局長であった佐川宣寿氏についてもそうでした。国会での参考人答弁では、野党からの追及に対して、首相補佐官から「もっと強気で行け」というメモを渡されていたという報道がありました。佐川氏は、その後も職にとどまり続け、さらにより重要なポストに起用されています。ダビデのヨアブに対する伝言を思わせるものではないでしょうか。

「ヨアブにこう伝えよ。『このことで、心配するには及ばない。いずれにせよ、剣は人を餌食にするものだ。雄々しく戦い、町を攻め落とせ。』そう言って、彼を励ますように。」サムエル記下11:25

この場合は、一人の権力者というよりは、そんたくを含め、ある政治的組織の組織ぐるみの隠ぺい作戦と言えるかもしれません。

(6)富める国に住む私たちの隠れた罪

しかし、このダビデの罪の物語は、それほど権力をもっていない私たちと無関係な話ではないと思います。私たちは社会構造的に、力を持っている側にいること認識しておかなければならないでしょう。

私たちの豊かさの追求、富の追求、快適な生活を維持しようとすることが、構造的に力を持たない人びとのわずかな財産を奪い取っているようなことがあるのではないでしょうか。それはまさにあのナタンの「富める男と貧しい男のたとえ」のようです。私たちは多くの財産を持っているのに、より安い商品を求めていく。あるいは安い農産物を求める。こんなに安い商品があったと無邪気に喜ぶ。私もその一人に他なりませんが。しかしそれらは、往々にして、アジアやラテンアメリカの国々の貧しい人たちの低賃金労働の上に成り立っているのです。

私たちが直接罪に問われることはありませんが、無関係とも言えないでしょう。

この大きな構造的問題は、自分一人でできることは少ないかもしれませんが、信頼できるフェアトレード商品を買うことなどはその一つの方法かもしれません。

(7)ダビデの悔い改め

さて、この話を読んで思うことのひとつは、ダビデは決して非の打ちどころのない理想の王ではなかったということです。普通の人が手の届かないような地位にあったがゆえに、普通の人が犯さない、犯し得ないような罪を犯した人でありました。それでもダビデは立てられ続けていくのです。

ナタンの預言は、「見よ、私はあなたの家の中から、あなたに対して災いを起こす」(12:11)と続きます。確かに、この後、サムエル記下、そして列王記上下を読んでいくと、様々な混乱が広がっていきます。それでもダビデは、サウルと違って用い続けられます。

それは一重に神さまの選びと恵みによるものでありましたが、それに対する応答としてのダビデの悔い改めも忘れてはならないでしょう。

サムエル記下12章13節で、ダビデはナタンに対して、こう言いました。

「私は主に罪を犯しました。」12:13

ナタンもダビデに告げます。

「主もまたあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない。」12:13

その後、災いの預言がなされるのですが、神さまがダビデの悔い改めにより、ダビデの罪を取り除かれると言われたことは大きいと思います。

(8)詩編51編 悔い改めの詩編

詩編の中には、この時のダビデの悔い改めを広げた詩があります。51編です。

最初に、こう記されています。「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたことで、預言者ナタンがダビデのもとにきたとき。」(詩編51:1~2)というト書きがついています。そしてこう始まるのです。

「神よ、私を憐れんでください
あなたの慈しみによって。
深い憐れみによって
私の背きの罪を拭ってください。
過ちをことごとく洗い去り
私を罪から清めてください。」詩編51:3~4

そして12節では、こう祈ります。

「神よ、私のために清い心を造り
私の内に新しく確かな霊を授けてください。」詩編51:12

「そうでなければ、もう私は立ち行くことができません」というダビデの思いがよく表れています。

これは今日では、ダビデ自身が書いたのではないだろうと言われますが、この時のダビデの心をよくとらえていると思います。そして私たち自身の悔い改めにも通じるものです。

「悔い改め」という言葉、新しい聖書協会共同訳では、多くの箇所で「立ち帰り」と訳しています(エゼキエル書14:6等)。「悔い改める」とは心の問題だけではなく、生活を含めて、神さまのほうに向きなおること、「立ち帰る」ことです。最後に先ほど読んでいただいたヨハネの手紙一1章9節の言葉に、もう一度、耳を傾けたいと思います。

「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」ヨハネの手紙一1:9

この言葉の傍らにはイエス・キリストが立っておられることを心に留めたいと思います。

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