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2022年10月2日説教「旅の途上の宴」松本敏之牧師

マルコによる福音書14章(10~)22~25節

(1)世界聖餐日・世界宣教の日

本日、10月第一日曜日は、世界聖餐日であり、同時に日本基督教団では、この日を世界宣教の日と定めています。

世界聖餐日というのは、「第二次世界大戦の前に、アメリカの諸教派でまもられるようになったもので、戦争へと傾斜していく対立する世界の中で、キリストの教会は一つであることを、共に聖餐にあずかることによって確認しようとしたもの」です。その意味では、今日も、そうしたことが最も求められている時と言えるかもしれません。「戦後、日本キリスト教団でもまもられるようになり、同時に『世界宣教の日』として、キリスト教会は主にあって一つなのだから、世界宣教を共に担う祈りと実践の日と定め」られました(大宮溥、『信徒の友』2004年10月号より)。

「世界宣教の日」が「世界聖餐日」にあわせて定められたというのは、興味深いことです。というのは、世界宣教というのは外へ外へと延びていくことですし、世界聖餐日は、違ったものの一致を目指すものだからです。つまり遠心的な運動と求心的な運動です。下手をすると矛盾しかねない。欧米の教会は、20世紀前半までまだキリスト教を知らない地域にキリストを知らせるということで世界中に宣教師を派遣して宣教してきました。そのおかげで日本にもキリスト教が伝わり、私たちもイエス・キリストの福音に触れることができました。しかし、それは欧米列強(軍事的進出、帝国主義的進出)の進出と裏表であったことも覚えておかなければならないでしょう。今日の世界の争いもそうしたことと無関係ではありません。世界聖餐日がそうした背景、つまり争いへの反省から始められたというのは意義深いことであると思います。

世界が一つであるために、まず教会が一つであらねばならない。そのためにはまず共に聖餐式をまもること、一緒にまもることが無理でも、それぞれの聖餐式で、世界の教会に思いをはせること、教派の違いを超えて祈りあうこと、国を超えて祈りあうこと、それが出発点だということが込められているのではないでしょうか。

コロナ禍の間、聖餐式を中止していた時期があります。2020年と2021年の2回の世界聖餐日(10月第一日曜日)は、聖餐式ができませんでした。それはそれで、痛みを分かち合う意義があったと思いますが、今年は3年ぶりに聖餐式のある世界聖餐日礼拝となりました。感謝したいと思います。

また世界聖餐日・世界宣教の日にあわせて、日本基督教団世界宣教委員会は、世界各地で働く日本基督教団派遣宣教師、または関係教会の報告を載せた『共に仕えるために』という小冊子を、毎年発行しています。今年度の『共に仕えるために』では、これまで私が「共に歩む会」の共同代表を務めてきたブラジルの小井沼眞樹子宣教師が教団の宣教師を隠退されたので、その報告が出ていません。また私がかつて働いたサンパウロ福音教会は、一昨年頃に、日本基督教団の関係教会として、日本から宣教師を迎える体制を維持するのが難しいということで、日本からポルトガル語ができない牧師が来ても務まらないtぽいことで、ブラジル・アライアンス教団に加盟して新たな歩みを始めることになりました。そのために、サンパウロ福音教会の報告もありません。そのことは、私にとっては、少し寂しく感じられることですが、日系人一世で終わっていく教会であるよりは、ブラジル生まれの日系二世、三世の牧師と共に歩むほうが、将来に向けて可能性のあることですから、「道が拓けてよかったな」と思っています。

(2)ユダとその他の弟子たち

さて本日は、先週に続いて、日本基督教団の本日の聖書日課をテキストにいたしました。先週は、マルコ福音書14章1~9節の「ナルドの香油」の箇所でした。今日の日本基督教団の聖書日課は、実はその直後の10節から25節となっています。全体に触れたいと思いますが、少し長いので、聖書朗読は14章22~25節だけを読んでいただきました。

10節は、このように始まります。

「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかと狙っていた。」マルコ14:10~11

先週、ナルドの香油の物語は、「人間の罪というものをいやというほど見せつけられる受難物語の中で、砂漠の中のオアシスのようだ」と申し上げましたが、まさにこのユダの物語は、人間の罪、裏切りというものを見せつけられるものです。

この後、過越の食事の準備がなされます。これがいわゆる最後の晩餐となるのですが、十二人の弟子たち一同が食事の席に着かれた時、イエス・キリストはこう言われました。

「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」マルコ14:18

そう言われると、弟子たちは心を痛めて「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めました。これは、みんな心のどこかで、「自分も、もしかすると、イエス・キリストを裏切るかもしれない」と思っていたということではないでしょうか。誰も、イエス・キリストを裏切らないという確信をもつことができなかったのです。ユダは、何か例外的なとんでもない人間であったのではなく、弟子たちの中にもユダ的要素はあったし、まさに私たちのうちにも、〈ユダ〉は潜んでいるのです。

もしもイエス・キリストが、この場にいらして、私たちの前で、「あなたがたのうちの誰かが、わたしを裏切ろうとしている」と言われれば、この礼拝においでになって、どうでしょうか。誰しも身に覚えのあることとして不安になるのではないでしょうか。「いや私は絶対にそういうことはありません」と言い切る人もあるかもしれませんが、個人的確信というのは、あまり当てになりません。このすぐ後、ペトロは「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)と言い切ります。しかしそのペトロでさえも、結局はすぐにつまずいてしまうことになります。また他の弟子たちも皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいます。

「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)と記されているとおりです。そういう意味では、他の弟子たちも多かれ少なかれ、イエス・キリストを裏切ったのです。ユダとの違いは、積極的に裏切ったか(売り渡すという形で)、消極的に裏切ったかの、相対的な差でしかないと言えるでしょう。

(3)ユダのためにも祈るイエス

それにしても、どうしてユダは弟子に加えられたのでしょうか。イエス・キリストは十二人を選ばれた時、後にそうなることを見抜くことができなかったのでしょうか。そうだとすれば、主イエスに見る目がなかったということになるでしょう。あるいは、そうなるかもしれないと、うすうす感じつつ、いずれ自分が訓練してやろうと思って、弟子になさったのでしょうか。そうだとすれば、弟子教育に失敗したということになるでしょう。

私は、そうではなく、イエス・キリストは、こうなることをすべて見越した上で、イスカリオテのユダを弟子の一人に加えられたのだと思います。つまりユダのような人間も、イエス・キリストの弟子として行動を共にし、弟子たちの輪の中に加えられることが、み心であったのです。特にこの主イエスの地上における最後の夜の食事に、ユダが加わっていることは重要です。食事だけではありません。主の晩餐、言い換えれば、最初の聖餐式にユダもあずかっているのです。

なおヨハネ福音書を見ると、洗足、つまり、イエス・キリストが弟子たちの足をひとつひとつお洗いになったことが記されています(ヨハネ13章)。この時、主イエスはイスカリオテのユダの足も洗われました。そのために、ユダもこの弟子の輪の中に加えられていた。私は、そのことの意義は大きいと思います。

ユダの物語を心に留める時に、私たちの最も暗い闇の部分を見せつけられるような思いがいたしますが、その暗闇が濃ければ濃いほど、深ければ深いほど、そこに現れ出る恵みの光も大きいのです。

イエス・キリストは、このユダのためにもパンを裂き、ぶどう酒を用意し、このユダのためにも身をかがめて足を洗われました。さらに突っ込んで言えば、このユダのためにも祈り、このユダのためにも十字架で死なれた。私は、このユダも確かに受け入れられていたからこそ、私も受け入れられていると、信じることができます。私も洩れていない。ユダでさえも受け入れられているから、確かに私もこの輪の中にいると、確信できるのです。

(4)驚くべき主の恵み

イエス・キリストは、「人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうがその者のためによかった」(マルコ14:21)と言われました。随分、厳しい言葉です。新共同訳聖書では「災いあれ」の部分は「不幸だ」という訳でした。私は、「災いあれ」というのは、呪っているように聞こえかねません。これは、珍しく以前の訳のほうがよかったのではないかと思っています。「災いあれ」というと呪っているように聞こえかねないですが、この元の言葉は「ウーアイ」という、いわば叫び声のような言葉です。「ああなんということだ」という感じです。本田哲郎訳では「嘆かわしいことだ」と訳されていました。柳生直行訳では「本当に悲惨だ」と訳されています。いずれにしろ、イエス・キリストがユダを呪われることはないと思います。

私は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)という主イエスの十字架上の祈りには、ユダも含まれていると思います。ユダも本当は自分のしていることの罪深さをわからなかったのです。マタイ福音書によれば、ユダはこの後自死してしまうのですが、それはやはり自分が何をしているのか分からなかったから、後で後悔をしたのだと思います。

私は、イエス・キリストはこのユダのためにも、いやこうしたユダのような人間のためにこそ、両手を広げて十字架にかかって死なれたと信じるのです。イエス・キリストは限定された人(たとえばクリスチャン)のために死なれたのではないでしょう。そして、主イエスがすべてをささげて十字架上で祈られたこの祈りがむなしく終わる(聞き届けられない)と想像することはできない。むなしく終わると考えるほうが十字架を低く見積もることになり、かえって不信仰なことでしょう。「イエス様の十字架でも救えない罪、十字架よりも重い罪もあるよね」と考えることのほうが不信仰なような気がします。私はこの主イエスのなさった、桁違いの圧倒的な恵みのみ業を深く心に留める時に、身震いする思いがいたします。そして、ただ「アーメン」と思うのです。

イエス・キリストは、私たちがどちらを向いていようと、私たちがイエス・キリストを裏切ろうと、私たちのほうを向いて待ち、祈っておられる。そういう方であるからこそ、「では、どんな生き方をしてもよいのだ」と居直るのではなく、逆に、この方のほうを向いて生きていきたいと思うのです。

(5)過越祭

その後、「主の晩餐」と記される、最後の晩餐となります。私たちの行っている聖餐式のもとになったもの、最初の聖餐式と言ってもよいでしょう。制定の言葉が語られます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これは私の体である。』また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられた。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流される、私の契約の血である。』」マルコ14:22~24

(6)神の国で新たに飲む

これに続いて、主は謎のような言葉を語られました。

「よく言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものをのむことはもう決してあるまい。」マルコ14:25

これは別れの言葉です。これが「最後の晩餐」となることを、弟子たちがまだよく理解しないでいる時に、イエス・キリストは、「これが最後だ」と告げられたのです。しかし単純に「これが最後だ」と告げられたのではありませんでした。あくまで「地上ではこれが最後だ」ということです。「これが最後の最後、というわけではない」ということを、間接的な表現で、そっと告げられておられる。つまり別れの悲しみの中で、終末の日の宴について語っておられる。この言葉の順序を変えて言うならば、こうなるでしょう。「いつか神の国で再び、あなたがたと共にぶどうの実から作られたものを飲む日が来る」。

私は、私たちが行う聖餐においても、いつもそのことを思い起こしたいと思うのです。私たちは、確かにイエス・キリストが私たちのために死んでくださったことを思い起こしつつ、聖餐を執り行います。イスラエルの民が過越の食事をしつつ、自分たちに表された主の恵みを思い起こすように、私たちも聖餐式をしながら、過去に起きた一度限りの主の十字架の恵みを思い起こすのです。パウロも、聖餐式の制定の言葉で、こう述べました。

「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」コリント一11:26

しかし聖餐というのは、そのように過去を思い起こすためだけにあるのではありません。あるいは、そのように今日も注がれている主の恵みを心に留めるためだけにするのでもありません。パウロもさりげなく語っています。「主が来られるときまで」。そうです。終わりの日に何かが起こる!私たちは、再び主の食卓に招かれて、あずかるのです。

私たちが、この世で執り行う聖餐は、さまざまです。カトリックとプロテスタントではかなり理解が違います。全くちがうと言ってもよいほどです。プロテスタントの中にもさまざまな理解があります。また私たちの教団(日本基督教団)の中にも、さまざまな理解があり、いつも議論が絶えません。私は私たちの行う聖餐式は、それぞれに不完全であり、しかしそれでいて終わりの日の宴、完全な聖餐を示す徴であると思います。それを認め合わなければならないでしょう。ですから私たちの聖餐は、イエス・キリストの「最後の晩餐」によって制定され、終わりの日、「神の国の宴」をもって完結する、旅の途上の宴であるということができるでしょう。イエス・キリストの十字架と死を思い起こすと同時に、終わりの日の宴を、希望をもって思い起こす時なのです。 受難物語は重い物語です。しかしその重い物語の隙間から、終わりの日の喜びを指し示す希望の光が、垣間見えているのです。

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