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2022年10月23日説教「人生の宝」松本敏之牧師

ルカによる福音書12章13~21節

(1)愚かな金持ち

本日は、日本基督教団の本日の聖書日課の前半部分をお読みいただきました。「『愚かな金持ち』のたとえ」と題されています。

それまでイエス・キリストの話を聞いていた群衆の一人が、こう尋ねました。

「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」ルカ12:13

彼は、イエス・キリストのそれまでの話を聞いていて、自分が抱えている一番の問題を「この人なら解決してくれるかもしれない」と思って進み出たのでしょう。

お金はなければないで苦労しますが、あったらあったで苦労するものです。なんて、あたかもいっぱい持っているかのような言い方をしてしまいましたが、そう想像するだけです。特に遺産の問題で、兄弟姉妹が絶縁状態になってしまうというのはしばしば聞くことです。教会がそういう問題に巻き込まれることもないわけではありません。以前、私が働いた教会で、お子様のいない教会員が、自分の財産で、寝たきりの妻の介護に必要なお金を取りおいて、その他すべてを教会に寄付するという遺書を遺された方がありました。結局、親族との間で、少しぎくしゃくしたことがありました。

この聖書の記事では、イエス・キリストは、直接、その人の頼み(「私に遺産を分けるように兄弟に言ってください」という頼み)にはこたえず、「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(14節)と言い、一同に向かってこう言われました。

「あらゆるどんな貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」ルカ12:15

そしてある金持ちの話を始めます。たとえとありますが、実際にそういう人がいたのではないかと察します。その年は大豊作でした。その人は「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らして、こう言いました。

「こうしよう。倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込んで、自分の魂にこう言ってやるのだ。『魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。』」ルカ12:18~19

しかしその瞬間、神はこう言われるのです。

「『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意した物は、一体誰のものになるのか。』自分のために富を積んでも、神のために豊かにならない者はこのとおりだ。」ルカ12:20~21

(2)ブラジルでの教科書の話

それでは、どういう生き方をすればよいのでしょうか。

私がブラジルで使ったポルトガル語の教科書に、こういう話が出ていました。ある働き者と怠け者の対話です。怠け者のほうは、お金もないのですが、食べられるだけのものを得て、あとはつりをしてのんびりやっています。そこへ働き者がやってきて、「お前はそんなにのらりくらりしていて、どうするんだ。もっと働け」と叱ります。そうすると怠け者が反論いたします。「そんなに働いてどうするんだ。」「お金を貯める。」「お金を貯めてどうするんだ。」「立派な家を建てる。」「それからどうするんだ。」どんどん聞いていって、最後にどうなるかというと、働き者は「そこでのんびり、つりでもして暮らすよ」と答えます。そうすると、怠け者は、「それならば、おれはもうやっているよ」と言うのです。

ただ働いてお金を貯めていくだけの生き方を皮肉っているのでしょう。私はなんとなくブラジル人と日本人の対話のようで、おもしろいと思いました。

それでは、「財産を蓄えても仕方がないから、遊んで暮らせ」ということなのでしょうか。そうではないと思います。イエス・キリストは、勤勉に働いて真剣に生きることを否定されませんし、財産を蓄えることの大事さを語られました。「地上」ではなく「天に」財産を蓄えなさいと言われるのです(マタイ6:19~20)。

(3)ルター「労働は、神に喜ばれるよいこと」

カルヴァンというルターと並ぶ宗教改革者がいました。カルヴァンは、近代主義に道をつけた人、特に、労働ということを信仰的に位置付けた人と言えます。

それまでの(カトリック)教会では、労働というのは生きるために仕方なくするものという位置付けでした。ですから、本当は世俗的な労働などせずに、修道院に閉じこもって黙想をし、修道の生活をするほうが神様に近いと考えられていました。しかし宗教改革者ルターは、「どんな仕事にも意義はある」と言うようになります。「牛の乳搾りをしていようと農奴の仕事をしていようと、人間がなすいっさいにおいて神が働いており、どれほど卑しく思われる仕事でも等しく神に喜ばれるのである」と言いました(『面白いほどよくわかるキリスト教』127頁)。これはルターです。

ルターではまだ消極的な評価でしたが、カルヴァンは、もっと労働に積極的な評価をします。職業のことを英語でcalling (神様からの召命)という言い方をします。ドイツ語ではBeruf という言い方をしますが、同じような意味です。

(4)カルヴァンとマックス・ウェーバー

カルヴァンは、真面目に働くことは神様に喜ばれることだと言い、実はそこに(勤勉に働く姿に)その人が天国に行けるかどうかのしるしがあるというようなことまで言いました。プロテスタントの禁欲主義も、そういうことと関係があります。それは、やがてマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本(思想)へとつながっていきます。

どういう話かというと、カルヴァンという人は「予定説」ということを強調しました。もっと言えば、二重予定説。予定説というのは、「神は、誰が天国へ行けるかということを、生まれる前からすべて知って、定めておられる」ということです。それがわからないような神であれば、全知全能の神とは言えないということでしょう。カルヴァンは、全知全能の神であれば、それくらいのことはわかるはずだと言いました。あまり評判音よくない教理です。人間の行いは関係ないのかということになる。しかしそれは人の目には隠されていて、誰が天国に行けるかは、人間にはわからないとも言いました。ただし、先ほど言いましたように、「真面目に働くことは神様に喜ばれることだと言い、実はそこに(勤勉に働く姿に)その人が天国に行けるかどうかのしるしがある」と言ったのです。おもしろいですね。つまりよいことをしたら天国へ行けるというのではない。逆です。天国へ行けるような人は、地上でもよいことをする傾向があると言ったのです。そうすると、何が起こったというと、「よいことをしたら天国へ行ける」と言ったのと同じように、みんなよいことをし始め、誠実に、一生懸命、働き始めたというのです。そしてそうしたことがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本に書かれているということです(私はその本を読んでいないので、受け売りですが)。

私たちも、働くことは神様に喜ばれること、こつこつと働いて生きることは大切であると確認したいと思います。

(5)自分の主人は誰か

それでは、この人の何が問題であったのでしょうか。彼は、自分の安心の拠り所をどこに求めようとしていたでしょうか。それは、この世のお金であったり、土地であったり、何かしら、この世的に価値があるところです。そういう生き方が愚かだと言うのです。

それがなぜ愚かであるのかと言えば、二つのことがあるのではないでしょうか。

一つは、それによって、私たちの人生の本当の拠点は神様であり、命を定められるのも神様であることを視野に入れていないということです。神に人生の拠点を置く時にこそ、初めて有意義な、そして死をも超えた人生の受けとめ方ができるようになるのではないかと思います。
もう一つは、財産を貯めて安心感を得ようとする生き方は、他人(ひと)のことが二の次になっているということです。その財産をひとり占めして、自分のためだけに使おうとする。そうした思いの中に、実は、いわば悪魔が潜んでおり、そういう思いが逆に私たちをとりこにしてしまうと言えるかもしれません。

財産というのは、それそのものの中に否定的な要素があるわけではないと思います。それは、神様との関係の中で正しく位置付けられる時に、生きてくるものです。財産というのは生かされるものです。

主イエスは、ここで「財産を捨てろ。それは悪魔だ」とおっしゃっているのではなく、それを人生の主人にしてしまうこと、それに頼って生きることを問題にしているのです。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)。

イエス・キリストは、別のところでは、こう語られました。「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

この「富」というのは(原文では「マモン」)、人格をもって私たちを奴隷化する、あるいは魅惑する強い力をもったものです。日本語でも、「物質神」と訳されることもあります。悪魔がそのように私たちを神様から引き離そうとしていると言うこともできようかと思います。私たちは、ただ真の神を神とすることによってのみ、その力から自由になるのです。

私たちは、自分の生活の中で、必ず何かを主人として生きています。いや、自分は何ものも主人としていないという人がいるかもしれません。私は、そういう人は、そう判断している自分自身を、あるいは自分の理性を主人にしているのだと思います。「頼れるものは自分しかいない」と明言する人もいます。しかし、「あなた自身は、それほど頼れるものですか。あなたは、あなた自身についてどれほどのことを知っていますか。あなたは、あなた自身の主人としてふさわしいものですか」と聞きたくなります。私自身に関して言えば、「ノー」です。自分がどれほど頼りにならないかは、自分自身が一番よく知っています。すぐに、あっちへふらふら、こっちへふらふらします。そして空席になった自分の主人の座に、すぐに別のものが来て座り込む。一番簡単に飛びこむのは、やはりお金です。「やっぱり頼れるのはお金だ」ということになりがちです。

(6)財産をひとり占めにしない

「天に財産を蓄える(天に富を積む)」とは、どういうことでしょうか。ある昔の人がこう言ったそうです。

「人に与える富を除いて、お前がいつまでも自分のものとして享受できるものは他にない。人に与えられたものは、運命の危険から免れているからだ」カルヴァンがよく引用した言葉

一生懸命に貯えていても、銀行が倒産するかもしれないし、家に置いておいても泥棒に盗まれるかもしれないし、火事になるかもしれない。私たちは、自分の財産を自分のために取っておいても、それはいつか紙くずになってしまうかもしれないし、誰かに取られるかもしれない。人のためにすでに使った財産だけが、そういう危険から免れ、いつまでもなくならないということです。もちろんそこには、「献金」ということも含まれてくると思います。神様の喜ばれることのために用いる。逆説のようですが、含蓄のある言葉です。「天に富を積む」とはそういうことと深い関係があるのではないかと思います。私たちは、自分の財産を神様に喜ばれる形で有効に用いていくことによって、天に「貯金」をしていくのです。

4世紀に生きたバシリウスという人は、こう言いました。

「あなたの家で腐っているパンは、飢えた人々のパンである。あなたのベッドの下で白カビをはやした靴は、はだしで歩いている人の靴である。大カバンに死蔵させた衣服は、裸でいる人の服であり、金庫にしまい込まれ、使われないお金は貧しい人々のものである。」

先ほどの言葉同様、これもまた含蓄のある言葉です。まさに私たちの生き方が問われているのではないでしょうか。もちろん、私たちには生きていく上でのさまざまな心配があります。それは、この後に記されている「思い悩むな」という箇所で取り上げられているのですが、神様はそのような心配を十分承知の上で語っておられるのだと思います。私たちは自分の生きる根拠をどこに置くのか。この世の次元を超えたもの、永遠のもの、そして人とかかわるものにこそ、私たちは人生の拠点を置いていきたいと思います。

(7)貧しくもせず、富ませもせず

最後に、箴言の有名な言葉を皆さんと分かち合いたいと思います。

「私は二つのことをあなたに願います。
私が死ぬまで、それらを拒まないでください。
空しいものや偽りの言葉を私から遠ざけ
貧しくもせず、富ませもせず
私にふさわしい食物で私を養ってください。
私が満ち足り、あなたを否んで
『主とは何者か』と言わないために。
貧しさのゆえに悩み、神の名を汚さないために。」箴言30:7~9

これもまた含蓄のある言葉であると思います。

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