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2021年12月26日説教「光の中を歩む」松本敏之牧師

ヨハネによる福音書1章14節
ヨハネの手紙一1章1~7節

(1)神は光である

クリスマス、おめでとうございます。今年のアドベントとクリスマス、私たちは「光は闇の中で輝いている」というテーマを掲げて歩んできました。このテーマと4月から読み進めている聖書日課を結びつける説教、今日で5回目になりますが、一応、今日まで、としたいと思います。聖書日課は昨日からヨハネの手紙一に入りました。ヨハネの手紙一1章5節にこういう言葉があります。

「私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(ヨハネ一1:5)

この言葉からだけでも少し想像がつきますが、ヨハネの手紙はヨハネ福音書と通じるものがあります。これ以外の箇所を含め、全体として見ても、用いられている用語や概念、文法的特徴、思惟構造などがよく似ていますので、同じ人が書いたのではないかという説もありました。しかしそれなりの違いもあるので、同じ人が書いたということも考えにくいのです。

そこでヨハネの手紙は、ヨハネ福音書が書かれたのと同じ教会(ヨハネ教団)の中で、少し後の指導者がヨハネ福音書を参考にしながら書いたのであろうと思われます。ヨハネ福音書が書かれたのは紀元90年頃、そしてこの手紙が書かれたのは90年代の終わり頃だろうと言われています。

(2)私は光として世に来た

さていきなり少し込み入った話をいたしましたが、そのような成立事情があるので、私たちはまずこのヨハネの手紙一のもとになったヨハネ福音書のほうを見ていきましょう。

ヨハネの手紙一は「神は光である」と述べますが、ヨハネ福音書には、「神は光である」という言葉は出てきません。少し違っていて「イエス・キリストが光である」ということが述べられます。もちろん同じ方向を指し示していることには変わりありません。イエス・キリストはこう語られました。

「私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。」(ヨハネ12:46)

「私は光として世に来た」というのはまさにクリスマスを指す言葉でしょう。その目的も書かれています。「私を信じる者が誰も闇の中にとどまることのない」ためでありました。これは、今年の私たちのクリスマステーマとして掲げたヨハネによる福音書1章5節の言葉、「光は闇の中に輝いている。闇は光に勝たなかった」に通じるものでしょう。

(3)私は世の光である

さらに心に留めたいのは、8章12節の「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ」という言葉です。この言葉は、先日のキャンドルサービス、またオンラインクリスマスのメッセージでも取り上げた聖句であります。

イエス・キリストは、この言葉を仮庵祭という祭りの時に語られました。神がいイスラエルの民と共におられる、臨在のしるしとして「雲の柱・火の柱」を置かれたように、今、神の臨在のしるしとして、つまりインマヌエルのしるしとして、イエス・キリストが与えられたのです。それは、私たちが闇の中にとどまることがないためでありました。闇の中でも光は輝いており、闇は光に勝たなかったのです。

この「世の光」という言葉、あるいは端的に「光」という言葉は、「勧め」という形でも展開されていきます。それはアドベントからクリスマス、待降節から降誕節へと移行した私たちの生き方を示す指針でもあるでしょう。

先ほどの「私は世の光である」という言葉は、ヨハネ福音書8章に出てきましたが、その次の9章には「生まれつき目の見えない人を癒す」話が出てきます。その文脈で「私は世の光である」という言葉がもう一度語られます。それは9章5節ですが、その前に記されている弟子たちとの有名なやり取りから見てみましょう。

「『先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。』」(ヨハネ9:2~5)

(4)光のあるうちに光を信じなさい

イエス・キリストが世におられる間は光であるけれども、「誰も働くことのできない夜が来る」とはどういうことでしょうか。直接的には、イエス・キリストの受難、十字架による死を予告しているようです。ただしそれだけだとすれば、復活されたその後は、そして今は、もう解決したということになるでしょう。

この言葉は十字架を指し示しつつ、私たちの今の状況をも指しているのだと思います。確かにイエス・キリストは、世の光として私たちと共にいてくださるはずなのに、時にそれが見えなくなってしまう。わからなくなってしまうのです。そういう時が繰り返しやって来るのです。その時への備えとして、光が見えている間に、その光であるキリスト、そしてその源である神様につながっていなければならない。その訓練をしなければならないということでしょう。イエス・キリストは、このようにも言われました。12章35節以下です。

「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。闇に捕らえられることがないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35~36)

これも含蓄のある言葉です。闇に捕らえられることがないように、光のあるうちに歩く。光が見えている間に、しっかりと光を見て、光とつながること、そうしないと闇に捕らわれてしまう。

私は皆さんがここに、この礼拝に来ていること、あるいは動画でこの説教を聞いておられるということは、まだ光が見えているということだと思います。それさえもできなくなる。イエス・キリストが光であることが信じられなくなる日が来るというのです。これは誰にでも起こりうることでしょう。だからこうも言い換えられるのです。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

(5)クリスマス的な生き方

ここで初めて「光を信じる」という言葉が出てきます。闇に捕らえられて、光が見えなくなってしまった時には、わずかな光も見えないかもしれない。その時にこそ、見えなくても「光を信じる」ということが意味をもってきます。それを「光のあるうちに」始めなければならないのです。そしてそうすることによって、「光のあるうちに光を信じる」ことによって、私たちは「光の子となる」ことができるのです。これは、クリスマス的な生き方だということができるでしょう。

先週は、「アドベント的生き方」という話をしました。それは「闇の中にあるような時でも、必ず光が来ることを知っている者として、それを待ち望んで生きるということ、それはまさにアドベント的な生き方です」と話しました。

今度は、今は光があることを知っている者として、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じること」、それがクリスマス的な生き方であると言えるでしょう。

もちろんそれらは象徴的な言い方であって、私たちはその季節であろうとなかろうと、一年中アドベント的生き方をし、一年中クリスマス的生き方をする。ひいては一年中受難節的生き方、一年中イースター的生き方をするのです。

(6)教会内部の分裂と対立

さて、ヨハネの手紙のほうに再び目を移していきましょう。
ヨハネの手紙のほうも、このクリスマス的生き方、つまり「勧め」のほうがさらに展開されていきます。ただしヨハネの手紙は、ヨハネ福音書と同じ教会の中で書かれたと申し上げましたが、時代が少し下って、執筆された状況、執筆目的が少し違ってきています。

ヨハネ福音書が書かれた当時は、ユダヤ教との違いをはっきりさせる必要があり、対決姿勢も鮮明でした。いわば教会の外との対立という状況です。第一の危機とでも言えるでしょう。そうした中、外に向かって、キリスト教としてのアイデンティティーを確立する必要があった。そこでは、「イエス・キリストこそ神の独り子である」ということが大きなメッセージとして前面に打ち出されていました。

ヨハネの手紙のほうは、その後の時代の状況を反映しています。それは教会の外部との対立ではなく、教会の内部の分裂、対立という問題です。違った教えが出てくるのです。グノーシス主義という考え方の影響なのですが、詳しいことは煩雑になりますので、避けたいと思いますが、教会の内部で分裂、対立が生じるというのは、現代の教会でも起こることでしょう。

(7)互いに愛し合いなさい

先ほどのヨハネの手紙一1章5節から読んでみます。

「私たちがイエスから聞いて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。神と交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、私たちは偽りを述べているのであり、真理を行ってはいません。」(ヨハネ一1:5~6)

厳しいトーンの言葉ですが、これは教会を分裂させるような異端が現れてきたことが背景になっています。その続きを読みますと、少し励まされる思いがします。

「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(ヨハネ一1:7)

私たちが光の中を歩もうとする時に、再び交わりを持つことができるようになる。そして、御子イエスの血によって清められる、というのです。さらにこう続いていきます。

「愛する人たち(そのように呼びかけること自体が大事です。建前ではありません)、私があなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めです。その古い戒めとは、あなたがたがかつて聞いた言葉です。」(ヨハネ一2:7)

ここで筆者は、ヨハネ福音書を思い起こさせようとしているのでしょう。

「しかし、私は、あなたがたにこれを新しい戒めとしてもう一度書き送ります。それは、イエスにとっても、あなたがたにとっても真実です。」(ヨハネ一2:8)

私たちは何度でも忘れてしまう。知っているつもりでも、何度でも新しい教えとして聞き直さなければならないことを思います。

「闇が過ぎ去り、すでにまことの光が輝いているからです。光の中にいると言いながら、きょうだいを憎む者は、今なお闇の中にいます。きょうだいを愛する者は光の中にとどまり、その人にはつまずきがありません。」(ヨハネ一2:8~10)

はっとさせられる言葉です。この後で、その古くて新しい戒め「互いに愛し合いましょう」という戒めが繰り返し出てきます。

「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたが初めから聞いている教えだからです。」(ヨハネ一3:11)

「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。」(ヨハネ一3:16)

「子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(ヨハネ一3:18)

そしてヨハネの手紙一は、「神は光である」という前半のメッセージから「神は愛である」という後半の中心主題へと少しずつシフトしていくのです。有名な4章7節以下です。

「愛する人たち、互いに愛し合いましょう。……神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちの内に現わされました。」(ヨハネ一4:7~9)

まさにクリスマスのメッセージです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する人たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも愛し合うべきです。」(ヨハネ一4:10~11)

これはまさにヨハネ福音書の中心主題でした。私たちがヨハネ福音書で聞いていたその原点に立ち返るようにと、ヨハネの手紙一は促すのです。

(8)主が関係を修復してくださる

ただいくらそうしようと思ってもできないこともあるかもしれません。そこでこうも言い換えます。

「愛には恐れがありません。完全な愛は恐れを締め出します。」(ヨハネ一4:18)

もちろん完全な愛というのはイエス・キリスト以外には不可能なことでしょう。しかしその原点であるイエスを見つめ、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という戒めのもとに身を置く時に、私たちも、恐れを締め出すイエス・キリストの愛にならうことができるようになるのではないでしょうか。

どうしても私たちの間の関係修復が難しいと思ってしまうこともあるかもしれません。そのような時にも、天使ガブリエルがマリアに告げた言葉、「神にできないことは何一つない」という言葉を信じ、イエス・キリストは和解の主であること、イエス様が私たちの間に立ち、関係を修復してくださることを信じて歩んでいきたいと思うのです。クリスマスのこの時、私たちもイエス様の愛に感謝しつつ、互いに愛し合う群れとして成長していきたいと思います。

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