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2025年6月22日説教「パウロとイエスの出会い」徳田興一

 

聖書 (1)使徒言行録7章57節~59節「ステパノの殉教」 (2)使徒言行録9章1節~8節「イエスとの出会い」 (3)使徒言行録9章13節~16節「サウロの回心と伝道」

1. ステパノの殉教(使徒言行録9章1~8節)

おはようございます。今日は「奨励」をするように先生から依頼があり、パウロの足跡をお話ししたいと思います。パウロが聖書に登場してくるのは、ステパノが殉教した時に始まります。

パウロはエルサレムでガマリエル師の門下生として律法を学んでいました。使徒言行録26章5節には、ユダヤ教のファリサイ派の一員として生活していたと伝えています。

彼は生前のイエスに会ったことはありませんでした。しかし、イエスの風評は耳にしていたのではないかと思います。イエスのことを知るにつれ、律法を乱す者として、憎しみを心に抱いていたことでしょう。パウロは、当時のラビを志す青年と同じく、結婚をしていました。奥さんも、あるいは子供もあったのではないでしょうか。ところが、思いがけない地震その他の事故により、家族が 犠牲になりました。もちろん、私的な事故と義憤とをごちゃごちゃにするようなパウロではありませんが、そういったことが、彼の行動を駆り立てる要因になったのではないでしょうか。そんな生活の中で、ステパノという、信仰と聖霊に満ちた人が、石打にあって殺されるという痛ましい事件が起こります。更にエルサレムの教会全体に迫害の手が迫ってきて、みんなちりぢりに散らされてしまいました。このステパノ殺害事件が起きたとき、それに賛同した人々の中に、サウロと言う名の青年がいました。後の大使徒パウロとなる人物です。人々はステファノを城外へ引き出し石投げの刑を始め、サウロは皆の服を預かり殺人を見届けます。どんな思いで、その場面を見ていたことでしょう。

しかし、ステパノは天を仰いで主に言います「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」と。 

イエスが十字架で処刑されたことも、パウロは、はっきりとは知らなかったのではないかと思います。 しかし、イエスの弟子たちが、その後復活のイエスに会い、立ち上がりました。

やがて、パウロはステパノの説教を聞き、怒り心頭に達しステパノの殺害に賛同します。

このステパノがどこで殉教したかにつきまして、二つの説があります。一つは、現在のダマスコ門のあたりとし、もう一つは、ケデロンの谷であるとするものです。谷から上にあがったところに、ステパノの門があります。 このステパノの殉教に始まりエルサレムの教会は、大迫害を受けることになります。この迫害により教会の散らばった信徒たちが、地方に福音を伝えることになりました。フィリポがサマリヤに下って福音を伝えたことも、神さまの不思議な計画だと思います。

一方、サウロは、イエスの弟子たちを脅迫して、殺そうとしました。このような行動は、穏健なファリサイ派の先生ではありましたガマリエルの下で学んだこととはどうも矛盾するように思いますが、事実かどうかはわかりません。

2. イエスとの出会い。(コーカブの丘で)使徒言行録9章1~8節

ルカの記すところによりますと、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙をもらったとあります。イエスに従う者たちを縛り上げて、エルサレムに連行しようとしました。ダマスコに行く途中のことですが、ダマスコの南西にあるコーカブの丘、すなわち天の光の見える丘と呼ばれていますが、現地は現在イスラエルとの紛争で争いの場になっています。周囲は軍隊の陣地に囲まれ、高射砲が鎮座しています。写真撮影はできず不審な行動禁止の場所でした。そこに小さな教会が建っていました。そこで私は聖書と瞑想の時間を過ごしました。

サウロはこの丘の上で、イエスさまに出会います。突然、天からの光が周りを照らします。

サウロは地に倒れ、天から光が射してきて、彼をめぐり照らして、彼は光に打たれ地に倒れました。天からの光に打たれたサウロにとっては思いがけないほど大きな衝撃でした。その時天から声が聞こえました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのですか」と呼びかける声を聞きます。サウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねます。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ、立って、町へ入って行きなさい。 そこであなたのなすべきことが告げられるであろう」行伝9章4~6節

死んだはずのキリストに出会い、イエスを拒み、弟子たちを迫害していた者から、一転してイエスにどこまでも従う者に変わりました。

彼は目が見えなくなり落馬します。その後、ダマスコに連れていかれました。三日間、目が見えないまま、食べることも飲むこともできないままで過ごします。

3. イエスとの出会い。(コーカブの丘で)使徒言行録9章1~8節

ダマスコには、アナニヤという一人のイエスの弟子がおり、パウロはダマスコの直線通りの路地にあるユダの家に案内されます。このアナニヤが、ユダの家にやってきました。そのアナニヤが「兄弟サウロ 、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元通りに目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」と語り、サウルの頭の上に手を置くと、目から鱗(うろこ)のようなものが落ちて、元通りに目が見えるようになり、アナニヤから洗礼を受けました。

このように、パウロの回心は、単なる内的反省としての改心ということではありません。この事実は、多くのキリスト者が経験したものとは決定的に異なっています。

パウロの回心は、まさしく復活のイエスにあいまみえ、半ば強いられた形での劇的な転換で ありました。そうして、パウロはその後使徒としての使命を自覚するようになります。主は「行け、あなたを、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ者である。」と言われました。こうして後の大使徒パウロが誕生します。

現在、ダマスコの南西十七キロのところにあるコウカプの丘に、パウロの回心を記念して、 1965年に、ギリシア正教会の定礎がなされ教会が設立されました。どうしてここがパウロの回心の地と特定されたのかといいますと、このコウカプの地でビザンチン時代のランプが発掘され、それに「ここがパウロの回心の地」であると記されていたことによるものです

周囲はイスラム教徒の人たちが住んでいるところですので、ふだんは教会の集会はもたれておりません。わたしが、ここを訪ねたときには、人っ子一人見かけませんでした 。近くには、 シリアの軍事基地がありますので、写真は教会を撮ることだけがゆるされました。

この回心を経験したサウロ(パウロ)は、今までとは違い、イエスの福音を宣べ伝えはじめました。これが、ダマスコに住んでいるユダヤ人たちを慌てさせることになりました。しかし、ガラテヤ書によりますと、ダマスコでの回心と受洗の後に、パウロはアラビアに行ったことが書かれています。パウロは回心後、アラビアに行きましたが、そのことを誰にも相談しませんでした。そこから再びダマスコに戻ってきましたが、その間パウロは何をしていたか不明です。また、パウロの行ったアラビアとは、パルミラとも言われています。紀元前十世紀、イスラエルのソロモン王は、シリア砂漠の荒野に、タデモルという町を建設しました。それが現在のパルミラです。(歴代誌下8章4節)異教の神バアルを祭った巨大なベール神殿が往時を偲ばせてくれます。

パウロはダマスコに帰ってきたのですが、アレタス王の代官に掴まえられそうになり、ダマスコからほうほうの態で、逃げ出しました。そのときの様子は、コリントの信徒への手紙二 11章32,33節に書いてあります。このようにして、パウロは、回心後、ダマスコのキリスト教徒の集団に加わりますが 、エルサレムの教会とは別に、宣教活動にあたりました。このことは、異邦人伝道の使徒としてのパウロの使命に重大な意味をもたせていたと思われます。

ダマスコに帰ってから、ルカによりますと、パウロはユダヤ人たちにもつけ狙われることになります。東門から南西約三百メートルのところに、パウロが籠に入って壁を伝って逃げたといわれている言い伝えの場所があります。その話は、使徒言行録9章23~25節に記載されています。ユダヤ人がパウロを殺そうとして、昼も夜も町の門で見張っておりました。そこで、弟子たちは夜の間にパウロを連れ出して、町の壁を伝って下に降ろしました。その場所と信じられている門の近くに教会が建てられました。リシア正教会による小さな礼拝堂がたてられ、出入り口の外壁の上に、「聖パウロの窓」と呼ばれている石でできた突き出た部分が残っています。礼拝堂の中には、パウロが窓からつり降ろされるところを描いた絵がかかっています。

このようにして、ダマスコでの働きの三年間の後に、紀元38年のことですが、ダマスコを逃げ出し、エルサレムに上るのです。そこでは、ペテロに会い、また主の兄弟のヤコブにも会います。しかし、他の使徒たちとは会っていません。そのことを、パウロはガラテヤの信徒への手紙第1章18節、19節に書いています。

ところが、ルカによりますと、バルナバがパウロの回心と宣教とについて、使徒たちに紹介したことにより、パウロはエルサレムでも、主の名によって恐れず教えるようになったとしています。さらにエルサレムでも、身に危険が及ぶようになり、カイザリヤに下ります。その後、生まれ故郷のタルソスに帰りましたが、その後の14年の歳月については、バルナバがパウロを迎えに来るまで、どのような活動をしていたかは、聖書には書いてありません。

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