1. HOME
  2. ブログ
  3. 2026年3月29日説教「民衆の叫び」松本敏之牧師

2026年3月29日説教「民衆の叫び」松本敏之牧師

イザヤ書53:1~6
ルカによる福音書23:13~25

(1)棕櫚の主日

棕櫚の主日、復活前第1主日を迎えました。講壇のキャンドルの火はすべて消えました。イースターの1週間前の日曜日であり、今日から受難週が始まります。イエス・キリストが十字架にかかられるためにエルサレムへ入られたことを心に留める日曜日です。「棕櫚の主日」という呼び名は、ヨハネ福音書12章12節以下の記述に基づいています。こう記されています。

「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。

『ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
イスラエルの王に。』」ヨハネ12:12~13

「ホサナ」とは「どうか救ってください」を意味するホーシーアー・ナー(hoshia na)の短縮形 ホーシャ・ナー(hosha na)をギリシャ語読みしたものですが、キリスト教では、元来の意味よりも、歓呼の叫び、または神をほめたたえる言葉となりました。「万歳」くらいのほうが近いかもしれません。

聖書協会共同訳および新共同訳聖書では「なつめやしの枝を持って」となっていますが、以前の口語訳聖書では「しゅろの枝を手に取り」と訳されていました。どうもこの植物は、日本語のいわゆる「しゅろ」とは違うということで、「なつめやし」と訳し直されたのでしょう。

古来、この棕櫚の主日に始まる一週間、受難週は、聖週間(Holy Week)と呼ばれ、一年の信仰生活において最も厳粛な時、大切な時とされてきました。すべての日に名前があり、カトリックなど教会暦を大切にする教会では、その日ごとの祈りがあります。順番に言いますと、棕櫚(枝)の日曜日のあとは、宮清めの月曜日、論争の火曜日、香油の水曜日、洗足の木曜日、受苦の金曜日、安息の土曜日という具合です。

私たちの教会では、水曜日の朝の「聖書を学び祈る会」を「受難週祈祷会」として、いつもの「ルカ福音書」ではなく、ヨハネ福音書の受難物語でお話をします。夜は木曜日に「洗足木曜日礼拝」を夜7時から礼拝堂で行います。普段の「聖書を学び祈る会」に出られない方も、年に一度、受難週の時くらいは、ぜひイエス様のご受難を覚えて、教会で共に祈るようにしましょう。そのように厳粛な時を経て、来週のイースターを迎えたいと思います。

(2)何とかして赦そうとしたピラト

本日は、先週の続きでピラトの裁判の箇所、ルカ福音書23章13節以下を読んでいただきました。先週も申し上げたことですが、ピラトは何とかしてイエスを赦そうとしました。もう少し厳密に言えば、ピラトはこのことに関わりたくなかった。自分の手で判決を出したくなかったのでしょう。それは、今日の箇所で、よりはっきりします。

「ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。『あなたがたは、この男が民衆を惑わしているとして私のところに連れて来た。私はあなたがたの前で取り調べたが、訴えているような罪はこの男には見つからなかった。ヘロデもそうだった。それで、我々のもとに送り返してきたのだ。この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、懲らしめた上で釈放しよう。』」23:14~16

ピラトの必死さが伝わってきます。「懲らしめた上で」というのは、面白いです。無実であれば、懲らしめる必要もないでしょう。しかしそれでは、祭司長たち、議員たち、民衆が納得しない。だから「懲らしめてやるから、それで十分ではないか」と言うのです。神の子に対する対応としては、あるまじきことですが、ピラトは自分のほうが上に立っていると思っているのでしょう。

その後は、十字架のようなマークがあります。そして17節が抜けています。先を見てみますと、こう続きます。

(3)聖書の写本、底本、異本

「しかし、人々は一斉に『その男は連れて行け。バラバを釈放しろ』と叫んだ。」23:18

ここは少しつながりが悪いです。唐突に、「バラバを釈放しろ」という言葉が出てきます。

聖書のある写本では、ここにある言葉が挿入されています。それがルカ福音書の最後のページに記されているので、少し見てみましょう。159ページです。「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」という言葉があって、その二つ目に、23章17節があります。こういう言葉です。

「祭りの度に、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらねばならなかった。」23:17

これがあると、つながります。今は、ちょうど過越祭です。誰か一人を釈放するならば、まさにイエスがぴったりだと思ったのでしょう。しかし民衆はそれを拒否して、別の人間、つまりバラバを釈放しろ」と叫ぶのです。またしてもピラトの思惑がはずれました。

先ほどの23章17節について、少し説明しておきましょう。聖書というのは、すべて手書きの写本で伝えられてきました。現代のようなコピー機はもちろんありませんし、印刷機もありません。それはグーテンベルクまで待たなければなりません。手書きの写本だから、ところどころ違いがあるのです。学者がそれを見比べて、どちらが元の形に近いかを決めるのです。そこで決められた仮の原本のことを底本と呼びます。底本(新約聖書ではギリシア語)が定まったら、それをもとに世界中の言語に訳されていくのです。2種類の写本があった時にどちらが元のものかを決める時にさまざまな基準があるのですが、その一つが「わかりにくいものほど古い」という原則です。つまり「わかりやすいものをわざわざわかりにくく書き換える人はいない」ということです。わかりにくい文章に出会ったら、それを読者の便宜を図って、わかりやすく書き換える人がいたのです。「ここにこういう説明があったらわかりやすいのに」とか「こういう言葉がないとつながらないよね」ということで書き足してしまう。あるいは「自分の前の人が間違えたのではないか」と思って書き直す。これを「写本家の誘惑」と言います。本当は絶対にしてはいけないのです。誰かがそれをやってしまうと、それ以降の写本がみんなそうなってしまうのです。ですから、わかりにくくてもわかりにくいまま書き写さなければならないのです。かなり早い時期に書き換えられたものはその地域の写本が全部そうなってしまうのです。シリア地方に伝わった「シリア写本群」とか、北アフリカのアレクサンドリア地方に伝わった「アレクサンドリア写本群」とか、言われます。それで後で書き加えられたと判断された聖句は削除されます。ところが、それ以前に「節」が降られてしまっていますので、それを削除すると、説が飛んでしまいます。そのように飛んでし合った節を、それぞれの福音書などの後ろにまとめて、「底本に節が欠けている箇所の異本(異本と言うのは採用されなかった写本ということです)による訳文」と書いてあるのです。そういう説明なしには、ふつうは一体何のことかわからないですよね。ということで説明を終わります。

(4)民衆

このピラトの裁判において、最も不気味な存在は、民衆ではないでしょうか。民衆、それは匿名の集団です。名前がない。顔が見えない。主体性をもたない。責任を取らない。それでいて確かに存在し、国の総督をも動かすほどの力をもつのです。ピラトは何度も「釈放しよう」と提案するのですが、民衆はそれを受け入れませんでした。「そしてついに、その声がまさった」(23:23)と記されています。

この民衆は、最初からイエス・キリストを憎んでいたわけではなかったでしょう。イエス・キリストの一行がエルサレムに到着した時には、大いなる喜びをもって、興奮してイエス・キリストを迎えました。それこそ棕櫚の主日の名前のもととなった出来事です。ルカでは、マタイやヨハネほど興奮してイエスを迎えたようにしるされてはいませんが、それでもこう記されています。

「イエスが進んで行かれると、人々は自分の上着を敷いた。」19:36

これはリスペクトをもって迎えられたということを表しています。その同じ民衆かどうかはわかりませんが、とにかくなぜかこんなことになってしまったのです。

彼らも一人一人をとってみれば、さほど悪い人間ではなかったでしょう。もしもピラトのように自分の責任で、このイエス・キリストが有罪か無罪かを決定しなければならなかったならば、恐らくみんな躊躇したのではないでしょうか。しかし大勢になると、急に方向転換をしたり、突っ走ったりし始めるのです。

(5)いじめ

今日の社会においても、これと同じようなことが存在します。これまで大多数の人々が「日本国民は憲法九条を絶対に守らなければならない」と言っていたのに、最近では、「あれは時代にそぐわなくなってしまった」という声が大きくなってきました。それがある一線を越えると、もう誰も止められなくなりそうです。高市総理になって、その危険性が一層高まってきました。今日の箇所にあるように、「ついにその声がまさった」というふうになりそうです。

もう少し身近なレベルでは、私はあちこちの学校で、そして会社で起こっているいじめのことを思います。みんなからかい半分ですが、そこで誰かが犠牲になっているのです。そして時には自死にまで至る。死に至る事件に発展してはじめて、責任者の追及が始まるのですが、誰も責任を負おうとはしません。

この民衆に罪はないのでしょうか。やはりこの民衆にも、罪と責任はあります。ピラトは、民衆に判断を委ねたからです。それも三度も問うています。

「一体、どんな悪事を働いたというのか。この男には死刑にあたるような罪は何も見つからなかった。」23:22

それゆえに、民衆はもはや、「あれはピラトの裁判だった。私たちにはどうしようもなかった」と言い逃れることができなくなりました。彼らの中には、内心では、そんなむごいことをするべきではないと思った人もいたでしょう。しかし何も言わなかったのです。だとすれば、結局は同じ責任が問われるのではないでしょうか。

何も言えなかったのかもしれません。ただ成り行きを見守ることしかできなかった。まさにその時に、「この人を十字架にかけてはいけない」と言うことができなかったのです。

(6)バラバとは

さて、ここに一人の人物が登場します。それはバラバという男です。このバラバについて、ルカは「都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」(23:19)と記しています。

バラバは死刑になるはずでしたが、ある日裁判の場に引き出されました。自分の目の前には、イエスという男が立っており、その男のために、突然釈放されることになったのです。彼にとっても、何が何だかよくわからない出来事であったでしょう。民衆の間で、このバラバのほうが人気があったということではなく、民衆は、ただイエスのほうが、より憎かったのです。あのキリスト・イエスを赦すくらいであれば、バラバを赦すほうがましだと思ったのです。バラバの内には何も赦される理由はありません。赦される理由は彼の外に、つまりイエス・キリストにあったのです。

イエス・キリストの姿も印象的です。民衆の叫びを前にして、イエス・キリストはじっと黙っておられます。不思議な姿です。ピラトはイエス・キリストに弁明する機会を与えましたが、お答えになりません。イエス・キリストは、ここで勝手な人々のなすがままにされています。人々のなすがままにされているということは、彼にとっては父なる神のなすがままにされているということでもあります。というのは、神がお止めにならなかったからです。神が、「こうならなければならない」と、判断されたからです。

(7)小説『バラバ』

このバラバが釈放された後の彼の生涯を描いた『バラバ』という小説(スウェーデンの作家ペール・ラーゲルクヴィスト作。1951年度ノーベル文学賞受賞)がありますが、その中に、こういうくだりがあります。

「もし神の子だったら、いやと思えば磔刑(はりつけ)になんかなる必要はなかったはずではないか。してみると、あの男は自らそれを望んでいたに違いなかったのだ。本当に奇妙な、気味の悪いことだ――彼は苦しみを望んでいたに違いない。……彼はもっとも残忍な方法で苦しみ死ぬことを欲し、それを免れることを欲しなかったのだ。それでこんな結果となり、彼は放免されたくないとの自分の意思を貫徹したのである。彼は代わりにバラバを赦免させたのだ。彼は命じたのだ《バラバを放免し、わたしを十字架につけよ》
……彼は人たちのために死んだのだ、と彼らはいっていた。あるいはそうだったかも知れない。だが、本当はバラバのために死んだのであって、それはだれも否定できないことだった! バラバは実はほかの人たちよりも、ほかのだれよりもずっと彼に近く、まったく違った意味で彼とつながっていたのだ。」『バラバ』54~55頁

この小説は、バラバが、自分がなぜ釈放されたのかを尋ね求め、イエスの弟子たちの集団に近づいていく話です。そして最後は、彼も期せずして、キリスト者として捕らえられ、磔刑に処せられるのですが、息を引き取る前に、こう言うのです。「おまえさんに委せるよ、おれの魂を」(前掲書165頁)。これは、イエス・キリストの最後の言葉「父よ、私の霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)をほうふつとさせるものです。

さて、この自分の内には何も赦されるものをもたないのに、ただイエス・キリストが現れたことによって、自分が代わりに赦されたという意味において、このバラバの存在はなんと私たちに似ていることでしょうか。

(8)罪と義の取りかえ

3月8日の説教で、宗教改革者ルターの祈りを紹介しました。こういう祈りでした。

「主イエス・キリストよ。あなたは私の義。私はあなたの罪。あなたは、私のものをご自分の身に引き受け、ご自分のものを私に与えてくださいました。ご自分の存在でもありはしなかったものを、身に引き受けてくださり、これが私のものとは言えなかったものを、私に与えてくださったのです」(ルターの祈り。加藤常昭訳『加藤常昭説教集、マタイ第4巻』より)。罪と義の取り換えが起こっているということです。

それは、まさにこのバラバを例に考えると、よくわかるのです。そしてそれは、私たちにとってもあてはまることなのです。

関連記事