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2026年4月5日説教「復活の主のゆるしと委託」松本敏之牧師

イザヤ書42章10~13節
ヨハネによる福音書21章15~23節

(1)ローマ教皇の枝の主日メッセージ

イースター、おめでとうございます。

私たちは、受難節(レント)の間、講壇の6つのキャンドルを一つずつ消していくという消火礼拝を行ってきました。先週の棕櫚の主日ですべての火を消しました。そして本日、イースターにあたり、6つのキャンドルにもう1本加えて、7つのキャンドルに火をともして、イースターの礼拝を行っています。

世界情勢がとても心配な状況にあって、心からお祝いできないような気持ちです。アメリカのトランプ大統領は、今朝のニュースでは、「地獄が降り注ぐまであと48時間」とイランに警告し、ホルムズ海峡の開放など、あるいは自分たちの出した15の条項に同意するように、対応迫ったようです。

自称クリスチャンのトランプ大統領、そして側近たちは、イースターが終わるまでは、混乱を避けたいという思惑があるのかもしれません。先週の日曜日、棕櫚の主日(枝の主日)、ローマ教皇は、珍しく、アメリカをけん制するようなメッセージを出しました。

イラン戦争を「残虐極まりない」と非難し、イエス・キリストはいかなる戦争の正当化にも利用することはできないと言明し、「これがわれわれの神、平和の王イエスだ。イエスは戦争を拒絶される。誰も戦争の正当化にイエスを利用することはできない」というメッセージを訴えました。よく言ってくれたと思います。今のローマ教皇レオ14世は、初めてのアメリカ人の教皇ですから、彼に何か言って欲しいと前々から思っていました。これまでは抑制的に語っていましたが、ここに来てかなり強いメッセージを出しました。

イースターには、より強いメッセージを発せられるのではないかと思っています。これについては、4月25日の礼拝で、「主よ、守りたまえ、平和を」という年間主題で説教をすることにしていますが、そこでもう一度取り上げたいと思います。

(2)挫折

ヨハネ福音書の21章は、次のような言葉で始まります。

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。」 21:1

イエス・キリストが復活されて、弟子たちの前に姿を現されてから大分日が経っているようです。しかも場所も移動しています。ティベリアス湖というのはガリラヤ湖の別名です。弟子たちは、エルサレムから、ペトロたちの故郷であるガリラヤヘと舞い戻っているのです。この物語は、優秀な弟子たちの物語ではなく、復活の主イエスと出会っても、なお挫折する弟子たちの物語です。その意味では、これはその後何度も教会が繰り返し経験してきた物語であるとも言えるでしょう。

人生に浮き沈みがあるのと同様、信仰生活にも浮き沈みがあります。洗礼を受けたいと願う時、私たちの信仰は高揚していますが、そうした気持ちを持続することがいかに難しいことであるか、私たちはよく知っています。

ペトロは、一旦は網を捨て、漁師であることをやめて、イエス・キリストに従いました。それだけではなく、復活の主に出会って聖霊を受け、使徒として派遣されました。20章にそのことが記されています。ところが、そのペトロがまたガリラヤでやり直そうとしている。そこに挫折感がないはずはありません。決して「故郷に錦を飾る」というようなことではありません。使徒としての働きもうまくいかなかったのでしょう。

(3)原点に立ち返る

ペトロは、この時、「私は漁に出る」と言いました。特に仲間を誘う言莱ではありません。まずは自分自身を立て直さなければならない。彼の信仰の原点は、かつて漁の時に、イエス・キリストと出会ったことでありました。

ペトロは事柄がうまくいかなくなった時、信仰の危機を経験した時に、信仰の原点に立ち返ろうとしました。「何とかしなければならない」、「何かしなければならない」という思いから、「漁でもやろう」と網をとる。それは間違っていなかったでしょう。

この時のペトロの自分自身に対する言葉、「私は漁に出る」という言葉に反応して、他の弟子たちも「私たちも一緒に行こう」と言い合いました。みんな同じ挫折経験をしていたのでしょう。しかし、それでどうなったでしょうか。それでもうまくいかないのです。

「彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」21:3

だめな時は何をやってもだめです。魚にもこちらの気持ちを見透かされているようです。信仰生活にも仕事にも疲れ果てています。

(4)主が突破口を開かれる

しかしそこへ事態を打開する出来事が起こります。

「すでに夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」21:4

だめな時というのは、立ち直るきっかけがすぐそばにまで来ていても、それが分からないということを示しています。

その人は、

「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ。」21:6

彼らは半信半疑で、網を打ちます。この頃すでにぼんやりと、「何かこれと同じ経験をしたことがあるぞ」と思い始めていたかも知れません。デジャヴ(既視感)のような経験です。「あれ、確かどこかで同じ経験したことがある。」皆さんも、そう感じることはないでしょうか。彼らは、言われたとおりに網を打ち、引き上げようとすると、あまりにも多くの魚がかかっていたので、もはや網を引き上げることができませんでした。

結局、このスランプ状態から突破口を開いてくださったのは、イエス・キリストでありました。「舟の右側に網を打ちなさい」と示して、大漁を導いてくださった。キリストは言葉を与え、それに従う者を生かしてくださるのです。私たちの思いを超えて、できない者ができる者に変えられるのです。

イエス・キリストは、弟子たちに向かって、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と言われました。この言葉、この仕草で、彼らはかつての、なつかしいイエス・キリストと共にある食事を思い起こしたに違いありません。イエス・キリストはパンを取って弟子たちに与え、魚も同じようにされました。彼らは、至福の時を経験したことでありましょう。彼らは、もう一度、恵みの原点に立ち返って、イエス様の言葉に基づく生き方をしよう、伝道活動をしよう、と決心したに違いありません。

(5)最上の愛

食事の後で、イエス・キリストは、ペトロに尋ねられました。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか。」21:15

「この人たち以上に」という言葉に、違和感を覚えられる方もあるでしょう。「イエス様は、人と愛の比較をされるのか」。「この人たち以上に」というのは、「これらのこと以上に」とも訳せるものです。英語で言えば、”more than these”です。 “Do you love me more than these?”と聞かれたのです。these というのは、「これらの人」とも訳せますが、「これらのこと」、つまりこの前の食事と取ることもできます。どちらにしても内容的には、「すべてに優って」ということかと思います。ペトロに対して、「最上の愛」を求められたのです。

(6)三度も同じことを聞く

ペトロは答えました。

「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」21:15

このペトロの返事に基づいて、イエス・キリストは、こう命じられました。

「私の小羊を飼いなさい。」21:15

しばらくして、イエス・キリストは再び尋ねられます。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」(16節)。ペトロは、再び同じ答えをします。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」(16節)。イエス・キリストは、再び命じられます。「私の羊の世話をしなさい」(16節)。

またしばらくしてから、イエス・キリストは、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と、尋ねられました。ペトロは、イエス・キリストが三回も同じことを尋ねてこられたので、悲しくなりました。

普通、確認の時は二回までではないでしょうか。コンピューターのパスワードでも、「確認のため、もう一度入力してください」とよく出てきますが、三回はありません。

ペトロは、はっきりこう答えました。

「主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」21:17

そして、イエス・キリストも、ペトロにはっきりと命令されます。

「私の羊を飼いなさい。」21:17

(7)三度の否認を赦すため

それにしても、なぜ三回も同じことを聞かれたのか。それは恐らく多くの人が指摘するように、ペトロが三度、「イエス・キリストを知らない」と否定したことと関係があるのでしょう。ペトロとイエス・キリストは、主イエスが十字架にかかられる前夜、こんな会話をいたしました。

「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』」13:36~37

この時、ペトロは随分、威勢のいいことを言いましたが、イエス・キリストは、こう釘を刺されます。

「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」13:38

そしてペトロは、事実イエス・キリストが逮捕された時、あの勇ましさもどこへやら、主イエスの予言どおりになってしまうのです。ペトロは十字架の日の明け方、鶏が鳴いた時に、そのことを思い知らされたのでした(ヨハネ18:27)。

恐らくペトロにとっては、この出来事はずっと心に引っかかっていたのではないでしょうか。「自分は、イエス様にあわせる顔がない。一番大事な時、一番イエス様に寄り添うことが必要であった時に、『そんな人は知らない』と言ってしまった。しかも一回だけではなく、三回も。もう言い訳はできない。」

イエス・キリストは、そんなペトロの気持ちを思いやって、三回、ペトロに「私はあなたを愛しています」と言わせたのではないでしょうか。一回ごとに、ペトロがイエス・キリストを否定したことを取り除くようにして赦し、そして三回、「私の羊を飼いなさい」と、言葉を変えながら命じられる。これは、恵みの命令です。イエス・キリストのゆるしと委託がここにあります。いったん挫折し、もう弟子と呼ばれる資格がなくなったような者をさえ、もう一度立たせて、遣わされるのです。この時に「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできないが、後で付いて来ることになる」(13:36)と言われたことの意味がはっきりしてきます。

ペトロは、その後、初代教会の指導者として、立派にその役割を果たしていくことになります。教会は、そこから大きく成長していくのです。その様子については、使徒言行録に詳しく記されています(2~5章、10~12章)。

(8)ペトロの殉教

さらにイエス・キリストは、ペトロにこう言われます。

「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」21:18

21章の筆者は「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)という説明を加えています。

ペトロは初代教会の基礎を築いた後、殉教をしたと伝えられています。21章の筆者が、この言葉を書いた時、ペトロはすでに殉教していたのでしょう。ペトロもイエス・キリストと同じように十字架にかけられたと言われています。しかも彼は、聖書新約外伝のひとつ、『ペトロ行伝』によれば、自ら希望して、頭が下で、足が上になるように、逆さはりつけになったと伝えられています。

さて、元のテキストに戻りますと、イエス・キリストは、ペトロにもう一度、「私に従いなさい」(19節)と言われるのです。恵みの命令です。私たちは、繰り返しイエス・キリストに召し出され、繰り返し従う決心をするのです。

いつも新しく、主は私を召してくださる。そして「あなたは私を愛するか」と問いかけられる。その声に「はい」と答え、従って行きたいと思います。命の続く限り、生涯、この主イエスの愛に応える道を歩んで行きましょう。

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