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2026年1月25日説教「人間の弱さ」松本敏之牧師

イザヤ書53:7~10
ルカによる福音書22:47~62

(1)どんな誘惑にあうのか。

ルカ福音書を続けて読んでいますが、アドベントとクリスマスを挟みましたので、少し間が空いてしまいました。前回は、11月2日でしたが、オリーブ山の祈り(ゲツセマネの祈り)の箇所でした。そこで、主イエスは弟子たちに向かって、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われましたが、その直後、いや最中に主イエスは逮捕されるのでした。

今日の箇所は、イエス・キリストの逮捕の場面と、その後、ペトロがイエス・キリストを「知らない」と言ってしまう場面です。ルカ福音書は、マタイ福音書やマルコ福音書と少し違う書き方をしている部分がありますが、比較しながら読んでみましょう。まず、こう始まります。

「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダと言う者が先頭に立って、イエスに接吻しようと近づいた。」ルカ22:47

主イエスは「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われましたが、その誘惑の最たるものは、自分が主イエスを裏切るという誘惑でしょうが、その前に最初に出会う誘惑は「仲間の裏切り」という誘惑であったと言えるでしょう。ユダは、ヨハネ福音書12章29節によれば、主イエスの一行のお金を預かる立場にいました。お金を預かる人は、仲間の中でも最も信頼される人でしょう。そういう立場の人の裏切りというのは、「誰を信用してよいかわからない」という信仰を無くしそうになる出来事ではないでしょうか。

しかもユダは主イエスに、キスをして近づいて来ます。ルカ福音書には記されていませんが、マルコ福音書では(マタイ福音書でも)、「『私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と前もって合図を決めていた」(マルコ14:44)とあります。キスは親愛の情を表す挨拶の仕方でした。それが「裏切りの合図」となるのです。この時のユダは、イエス・キリストが自分の期待していたようなメシアでないことがわかり、かえって裏切られたように感じていたかもしれません。そうだとすれば、これも自分の思い通りにいかないことを相手のせいにするという誘惑と言えるかもしれません。

その後、イエス・キリストのまわりにいた人々は、事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言いました(49節)。これも、剣を取って解決しようとする誘惑と言えるかもしれません。そして、こう記されています。

「そのうちのある者が大祭司の僕に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。イエスは、『もうそれでやめなさい』と言い、その耳に触れて癒された。」ルカ22:51

僕の耳を切り落としたという話は、マタイにもマルコにも出て来ますが、癒しの話は、ルカだけが記しているものです。イエス・キリストの優しさが現れているように思います。このところで、マタイ福音書では、「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる」という有名な言葉が付け加えられています。

またマルコやマタイでは、祭司長たちや民の長老たちが遣わした「大勢の群衆」がイエス・キリストを捕まえにやって来るのですが(マタイ26:47、マルコ14:43)、ルカ福音書では、祭司長、神殿の管理者、長老たち自身が押し寄せたとなっています。

(2)最後まで従いたい

これは、66節以下の宗教者による最高法院での裁判にもつながることですので、自戒、もう一度、取り上げてみたいと思います。

今日は、むしろ、54節以下の「ペトロ、イエスを知らないと言う」と題されている箇所を中心に聞いていくことにしたいと思います。このように始まります。

「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠くから付いて行った。」ルカ22:54

イエス・キリストの宗教裁判が行われようとしている同じ頃、建物の外の中庭で、別の人物がやはり偽証をしていました。それはペトロです。彼も、マタイ福音書によれば、「誓いつつ」嘘を語っていました(マタイ26:72)。しかし考えてみれば、ペトロはこんなところまで、いったい何をしにやって来ていたのでしょうか。嘘をつくくらいなら来る必要はなかったのではないでしょうか。他の弟子たちと一緒に逃げ出せばよかったのです。

「ペトロは遠くから付いて行った」(54節)とあります。この「付いて行く」という言葉は、ペトロが弟子として召された時、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)時の「従う」というのと同じ言葉です。この時、他の弟子たちが逃げ出す中、ペトロはとにかく主イエスに従おうとしたのです。彼はただ興味本位で、あるいは気になって見に来たというのではありません。最後まで従いたいと思ったからこそ、ここまで来てしまったのです。彼は、主イエスと過ごした昨夜(最後の夜)、「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております」(ルカ22:33)と言っていました。本気で、そう言っていたのだと思います。しかし、その言葉を貫くことはできませんでした。ペトロの人間的な弱さを見る思いがします。

(3)3回の否認

少し順を追って物語をたどってみましょう。まず一回目の否認です。

「人々が中庭の真ん中に火をたき、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。すると、ある召し使いの女が、火明かりの中にペトロの座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかしペトロはそれを打ち消して、『あんな人など知らない』と言った。」ルカ22:55~57

ペトロにしてみれば、自分が誰であるかばれずに、なんとかクリアーしました。

「少したってから、ほかの人がペトロを見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは『いや、違う』と言った。」ルカ22:58

第二関門もなんとかばれずに、突破しました。そして3回目。

「一時間ほどたつと、また別の人が、『確かに、この人も一緒だった。ガリラヤの者だから』と言い張った。」(ルカ22:59

マタイ福音書では、「言葉のなまりでわかる」となっています。ここはエルサレムです。彼は、ガリラヤなまりで話していたのでしょう。

ペトロは、「あなたの言うことは分からない」(ルカ22:60)と応えます。今度はとぼけるのです。マタイ福音書では、ここで「呪いの言葉さえ口にしながら、……誓い始めた」(マタイ26:74)と記されています。しかし、「まだ言い終えないうちに」、たちまち、鶏が鳴きました。

(4)自分の出番を待っていたのか

それにしても、主イエスを否定しながらついていく、このペトロの行動は不可解です。私は、ペトロはこの時ひやひやしながらも、自分の出番を待っていたのではないかと思うのです。今は最高法院での裁き、宗教会議なので、彼は入ることはできません。

「もうすぐピラトの裁判が始まる。とにかくその時まで持ちこたえなければならない。その時まで待たなければいけない。もしも主イエスの裁判の場で主イエスに不利なことが起きれば、自分が飛び出そう。主イエスがどんなにすばらしい方であったか、どんなにすばらしいことをしてくださったか、自分が証人になろう。それでも差し止めることができなければ、自分も一緒に裁きを受けよう。自分も主イエスの弟子だと名乗ろう。死んでもかまわない。」

そう思ってチャンスをうかがっていたのかもしれない。彼のような性格の人間は、大舞台になればなるほど、肝がすわるタイプ、実力以上の力が出るタイプ、本番に強いタイプではないかと思います。そして自分の愛するイエス様の隣であれば、それだけの力が出たであろうことは容易に想像がつきます。その時を待っていたのかもしれません。

ところが、イエス・キリストの大裁判が始まる前に、ペトロに対する小さな裁判がすでに始まっていたのです。ペトロはそのことに気づいていませんでした。ペトロにしてみれば、こんなところはまだ自分の出番ではないと思っています。こんなところでつまずいてはいられない。こんなつまらない場面で大騒ぎになって、リンチで殺されでもしたら、自分はいったい何のためにここまでやってきたのか。召し使いの女の言葉などに自分の命をはる必要はない。この場面は何とか切り抜けよう。そういう思いではなかったでしょうか。

(5)ほんの小さな距離

私たちの日常生活を思い起こしてみましょう。ささいな、取るに足らないことの連続です。しかし実はそうした場面で、キリストに従うかどうかが問われているのではないでしょうか。「クリスチャンがそんなことしていいの。」聞くほうも別に本気ではありません。「まあそんな堅いことを言わずに」などと笑って済ませます。そういうことは山のようにあるのではないでしょうか。妻との会話。夫との会話。子どもたちとの会話。職場での会話。そういうささいなところで、自分の生き方が問われ、キリストに従って生きるかどうかが問われている。家族には毎日の生活が見られています。自分がクリスチャンであることをあまり知られたくないような場面、そういう小さな場面で、私たちの小さな裁判が始まっているのです。

ペトロは自分がイエス・キリストを否定したとは思っていなかったでしょう。ほんの少し距離を置いただけです。今でも、キリストの弟子のつもりです。だからこんなところまでやってきたのです。まだこれから、死ぬ覚悟をすることもあるかもしれないと、心の準備をしようとしているところです。ほんの小さな距離。自分とキリストの関係は、こんなささいなことでは崩れないと思っています。

こうした小さな場面で、私たちもいかにしばしばキリストに距離を置いていることでしょうか。公の場所ではっきりと、自分の立場を聞かれたら、「クリスチャンです」と答えます。誰も見ていないような場面、たいしたことのない場面ではキリストに距離を置きます。私たちは「ペトロはよくもキリストを三度も『知らない』と言えたな」と考えてしまいそうですが、自分に照らしてみれば、私たちはあっという間に三度くらい、キリストに距離を置いているのではないでしょうか。

(6)有罪宣告と無罪判決

そのとき鶏が鳴いて、ペトロははっとしました。主イエスの言葉を思い出しました。

「ペトロ、言っておくが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」ルカ22:34

主イエスの言われた通りになってしまいました。もしも主イエスがそう予告しておられなければ、ペトロは自分がキリストを否定した、という自覚すらなかったかもしれません。それほど小さな出来事です。しかし主イエスの言葉と鶏の鳴き声が、ごまかすことのできない形で、すべてをあらわにしました。ペトロが思い起こした主イエスの言葉は、ペトロに対する明確な有罪宣告でした。

その時、イエス・キリストは、振り向いてペトロを見つめられます。このことを記しているのは、ルカ福音書だけです。この後、歌います「ああ主のひとみ」という賛美歌は、その時のことをあらわしています。

ペトロは外に出て激しく泣きました。自分が情けなくて情けなくて、泣いたのだろうと思います。しかしそれだけではありませんでした。「イエス様は、あの時すでに自分が否認することを知っておられた!」ペトロが自分の弱さに気づいた時、イエス様のほうではすでにペトロの弱さを知り抜き、それでもなおペトロを受け入れておられることを悟ったのです。つまりイエス様の言葉は、ペトロに対して有罪の宣告をしつつ、それを赦し、無罪の判決を出していると言えるでしょう。ペトロはそのことにはっと気づいたからこそ、いっそう激しく泣いたのではないでしょうか。その恵みの中でこそ、彼は自分の惨めさ、弱さ、ずるさ、罪深さを悟ったのです。

(7)兄弟たちを励ましてやりなさい

イエス様は、このようにも語っておられました。

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:32

このペトロのイエス様を知らないと言ったエピソードは、ヨハネ福音書を含めて、4つの福音書すべてに記されています。4つの福音書が書かれた時には、ペトロは押しも押されもせぬ教会の大指導者になっていました。その大指導者の過去の汚点のような話です。それがどうして、すべての福音書に記されているのでしょうか。それは、ペトロ自身が、後にいつも自分の信仰の原点、再出発の話として、どこへ行ってもこの話をしたからではないでしょうか。

(8)私たちも同じように

私たちもこの恵みの中でこそ、そしてこの主イエスの祈り、ゆるしの中でこそ、生きることができるのではないでしょうか。ここにおいて初めて、自分の罪を直視することができるのではないでしょうか。そうでなければ、私たちの罪は重すぎて、目をそらさなければ生きていくことができないかもしれません。「それでも主イエスに受け入れられている」。この主イエスのみ手の中で、私たちも本当の自分を受け入れることができるのだと思います。

「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:32

そのように、イエス・キリストが言われたとおり、ペトロはこの話をしながら、「きょうだいたちを励ましたのでしょう。私たちも、同じように、主イエスの恵み、祈り、ゆるしの中でこそ、新たに生き始めることができる。ここにおいてのみ、私たちは新たに立つことができる。ここにおいてのみ、私たちは生まれ変わることができるのです。その恵みを感謝しつつ、キリストにあって、新しく生き始めましょう。

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