2026年5月3日説教「ぶどうの木と枝」松本敏之牧師
詩編80編9~20節
ヨハネ福音書15章1~10節
(1)私は何々である
本日は、日本基督教団の聖書日課をテキストにして説教します。ヨハネ福音書15章1~10節です。
「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」15:1
今日の箇所は、この有名な言葉で始まります。ぶどうは、オリーブと共に、パレスチナ地方では、いたるところに栽培されていた植物で、聞く人々にもとても身近なたとえとして受けとめられたことでしょう。
「私は何々である」という表現は、原語では「エゴー・エイミ」というギリシャ語ですが、ヨハネ福音書独特の大事な言葉です。「メシア的定式」とか「啓示の定式」とか言われます。英語では「Iam ~」という風になりますが、これは旧約聖書の出エジプト記に出てきた神の名「ヤハウェ」(「私はいる」「私はある」、出エジプト3:14)に通じるものです。「私は何々である」というのは、ヨハネ福音書の中に全部で7つ出てくるのですが、これが7つ目で最後の定式です。全部紹介しておきましょう。
①「私が命のパンである。」(6:35)。
②「私は世の光である」(8:12)。
③「私は門である」(10:7、9)。
④「私は良い羊飼いである」(10:11、14)。
⑤「私は復活であり、命である」(11:25)。
⑥「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)。
⑦「私はまことのぶどうの木(である)」(15:1)。
以上の7つです。それぞれに大事な言葉です。
「私はまことのぶどうの木(である)」という表現は、「わたしはよい羊飼いである」が、偽物の羊飼いとは違うということがあったのと同様、そこにはまことではない「偽りのぶどうの木」というのが想定されていて、それとは違うのだと言おうとしているのでしょう。
(2)神のわざ、ぶどうの木の栽培
先ほど述べましたように、パレスチナ地方はぶどうの産地であり、ぶどうは人々に親しまれた植物でしたので、旧約聖書においても、しばしばイスラエルの民がぶどうの木にたとえられました。先ほど読んでいただきました詩編の80編もそうです。
「あなたはエジプトからぶどうの木を引き抜き
諸国民を追い出して、これを植えられました。
あなたはそのために地を開き
根を下ろさせ、地を満たされました。
その陰は山々を覆い
その枝は神の杉を覆いました。
大枝は海にまで
若枝は大河にまで伸びました。」詩編80:9~12
ここでは、神様のなさった業というものを、「ぶどうの木の栽培」でたとえているのです。さらにその後、苦しみについて述べた後、詩編の詩人はこう言います。
「私たちはあなたを離れません。
私たちを生かしてください。
私たちはあなたの名を呼び求めます。
万軍の神、主よ、私たちを元に返し
御顔を輝かせてください。
その時、私たちは救われるでしょう。」詩編80:19~20
「私たちはあなたを離れません」という言葉は、今日のヨハネ福音書15章の「ぶどうの木と枝」の言葉をほうふつとさせるものではないでしょうか。
(3)悪しきぶどうの木
もう一つ、ぶどう畑の有名な箇所として、イザヤ書5章1~7節があります。
「私は歌おう、私の愛する者のために
ぶどう畑の愛の歌を。
愛する者は肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。
彼は畑を掘り起こし、石を取り除き
良いぶどうを植えた。
また、畑の中央に見張りのやぐらを建て
絞り場を掘った。
彼は良いぶどうが実るのを待ち望んだ。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」イザヤ5:1~2
神様がイスラエルの民をいかに愛されたかが伝わってくるようです。しかし、イスラエルの民は、神様の期待に反して、悪しきぶどうの実を結ぶ、野ぶどうとなってしまったというのです。それが「偽りのぶどうの木」であると言えるでしょう。
イスラエルの民は自分たちが神の選びの民であり、神の祝福の継承者であると誇っていましたけれども、神様に選ばれただけでは、「まことのぶどうの木」とは言えない。神様の約束が真実なものとして宿っているイエス・キリストご自身も、その「まことのぶどうの木」に、私たちはつながらなければならないということを、ヨハネ福音書は語ろうとするのです。イスラエルの民であることが救いの条件ではなく、イエス・キリストにつながって、実を結ぶ者こそが救いにあずかるのだということです。
(4)宣言と命令
このぶどうの木のたとえは、わかりやすいようですが、ちょっとひねりがあって、分かりに行く部分もあります。今日は、聖書の言葉に即して、丁寧に読み解いてみたいと思います。
「私につながっている枝で実を結ばないものはみな、父が取り除(かれる)。」15:2
「わたしはまことのぶどうの木」という宣言に続いてすぐ、このような厳しい警告が発せられるので、どきっとする方もあるでしょう。しかし続けて慰めと励ましの言葉が語られます。
「実を結ぶものみな、もっと豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私の語った言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。」15:2~3
私たちは、よい実を結ぶように、自分で一生懸命、清くならなければならない、と思うかもしれませんし、そうならなければ、自分は切り捨てられるのだろうかと不安になるかもしれませんが、イエス様は「私の語った言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」のだと、言ってくださいました。命令以前に、事実として、そう宣言されたということを心に留めたいと思います。イエス・キリストにあって、イエス・キリストにつながっている者は、それだけで既に主の言葉によって清くなっていると言われるのです。
「イエス・キリストはぶどうの木」、「父は農夫」、「あなたがたはその枝」。父なる神様と、イエス様と、私たちクリスチャン、この三者の関係が、そういうふうにたとえをもって語られました。
「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。」15:4
私たちに呼びかけると同時に、イエス様自身がそのように私たちに手を差し伸べておられる。そういう姿勢がよく表れているのではないでしょうか。「あなたがたは枝である」(5節)という宣言と、「私につながっていなさい」(4節)という命令は、一見矛盾するように聞こえます。しかしそういう一見矛盾するような表現は、信仰の本質をついているように思います。イエス・キリストはぶどうの木として、私たちに関係をもち、私たちひとりひとりをその枝として結び付けてくださる。しかもそれを自分から積極的に言われる。それは確かな事実です。
ただし私たちは、それをそのまま受けとめるわけではありません。私たちはそれを見失い、離れて行ってしまう。深いところでは、受けとめられているけれども、私たち自身がそれを認識していなければ、実際には離れているのと、同じ状況になってしまうのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書3章18節にこういう言葉があります。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。」それに通じるものがあると思います。「従っていく」という呼びかけへの応答が伴っていなければ、本当に「聞いた」「信じた」ということにはならないでしょう。
(5)信仰生活に卒業はない
ですから私は、こういうふうに命令と宣言が同時に語られる時に、そこには、私たちに、「本来的な自分に帰れ。イエス様が何をしてくださったか。原点を思い起こせ。そしてそのイエス様の言葉の中に留まり、その愛に生きる道を歩みなさい」と言っているように思うのです。
私たちは、信仰をもって生きる時に、どこまで行っても、このまことのぶどうの木から離れることができないということを、わきまえておかなければなりません。信仰生活が長くなりますと、もう立派なクリスチャンで、これでひとり立ちできるかなと思うかも知れません。一般の社会ではそういうこともあるでしょう。「もう先生の世話にならなくて、自分ひとりの力で大丈夫です。」ところが信仰ということについて言えば、それはあり得ないのです。そのまことのぶどうの木、先生であり、友と呼んでくださるそのお方から、一歩離れてしまっては、もはや信仰とは言えません。ですから教会で私たちが信仰生活を続けるというライフスタイルには、卒業ということはあり得ません。一生、ある意味で求道者であり続けるのです。そして一生つながっていなければ、命を失ってしまうものです。私たちは、それをしばしば見失って、忘れてしまいますが、そこへいつも立ち帰って行くようにということが促されているのではないでしょうか。
(6)何でも願いなさい
そしてイエス様はこう続けられました。
「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」15:7
これと似たような言葉はこれまでにも出てきました。
「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう。」14:13
マタイ福音書ではもっとストレートに、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)という言葉があります。しかし私たちは、そういう言葉を聞きながら、いつも「本当にそうかな。必ずしもそうはならないではないか」という思いをもつのではないでしょうか。
以前にも申し上げたことがありますが、「求めなさい。そうすれば、与えられる」というのは、私たちが、求めているものがそのままで与えられるということではないと思います。イエス様のほうが、私たちに本当に何が必要であるかをご存知であって、私たちが求めているものとは違った形で、あるいはそれを超えた形で、答えられることがしばしばあるのです。また私たちが求めている時に答えられるとは限らない。時を延ばされて、違った時に答えられるということもあるでしょう。神様は、最もふさわしい時に、最もふさわしい形で、(それは時に私たちの期待に反するような形であるかも知れませんが)、答えられるのではないでしょうか。
ヨハネ福音書の「私の名によって願うことを」とか、「あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にとどまっているならば」とかいう条件付きの表現は、「どんなわがままな願い、非人間的な願いも、すべて言うとおりにかなえられるのではない」ということを示していると思います。「神さま、どうかあの人たちを殺してください。」「あの国を滅ぼしてください」というような願いをした時に、そのまま全部答えられるわけではないというほうが、かえって救いであると思います。その奥にある願いが何であるのか。本当は何を求めているのか。それを私たちよりも一つ高い次元で受けとめてくださって、形を変えて答えてくださるのではないでしょうか。そうであってこそ、私たちのまことの主、まことの神様であると思います。
(7)私の愛とどまりなさい
「私の愛にとどまりなさい。私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」15:9~10
この言葉は、二つのことを指し示しています。一つは、「私たちがこの愛を受けて生きているということを、いつも思い起こしなさい」ということです。イエス・キリストこそが愛であることを忘れないようにしなさい。それが「私の愛にとどまりなさい」ということの第一の意味でありましょう。もう一つは、「あなたもその愛に生きなさい」ということです。イエス様ご自身が示してくださった、その愛をあなたがたも生きなさい。それがまことのぶどうの木につながる枝として、私たちに求められていることでしょう。
私たちも、私たち自身がぶどうの木に連なり、生かされていることを知る。同時に、それをまた人に伝えていく。ただ言葉によって伝えるだけではなく、私たちの生き方、生きざまによって伝えることによって、まことのぶどうの木の枝が広がっていくのではないでしょうか。そこから一旦離れてしまう時に、ちょうど植物が養分を補給できないように、その命は止まってしまうものです。
私たちは、3月、受難節の日曜日に、毎週、『讃美歌21』の305番を歌いました。
「イエスの担った十字架は、いのちの木となり、よい実を結ぶ
キリエ・エレイソン 死のとりこから よみがえらせてください」
これはとてもイメージ豊かな歌です。イエス・キリストの十字架があたかも根を張った生きた木のようなイメージをもっています。その十字架の木こそが、まことの命の木ということでしょう。それは豊かな実を結ぶというのです。そして私たちを支えるのです。この十字架の木こそが、「まことのぶどうの木」と言えるかもしれません。
私たちは、これから聖餐にあずかります。パンとぶどう酒(ぶどう液)によって、イエス・キリストが制定された儀式であります。これを受けることによって、イエス様ご自身を私たちの中に受け入れ、私たちもその愛にとどまり、その愛に生きる者となりたいと思います。