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2026年4月12日説教「あなたは、私に従いなさい」松本敏之牧師

出エジプト記4章10~17節
ヨハネによる福音書21章20~25節

(1)ペトロの死に方について

本日は、ヨハネ福音書の一番終わりの言葉を読んでいただきました。先週のテキストの続きです。少し振り返ってみますと、復活の主イエスが、シモン・ペトロに対して、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛するか」とお尋ねになります。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と応えると、主イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と恵みの命令を出されました。そうしたやり取りが、3回にわたってなされた後、イエス・キリストは、ペトロにこう告げられました。

「あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。」21:18

このところの筆者は「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)という説明を加えています。ペトロは初代教会の基礎を築いた後、殉教をしたと伝えられています。

(2)主の愛する弟子のこと

その後、別の話が始まります。ペトロがその答えを聞いた後、振り返れば、そこに愛する弟子、恐らくヨハネであろう人物が目に留まりました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)と尋ねました。

筆者は、その人についてこう書いています。

「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、あなたを裏切るのは誰ですか』と言った人である。」21:20

私たちは主イエスの招きに応え、それに従うのですが、どうも人のことが気になります。「自分は、年をとると、行きたくないところへ連れて行かれるそうだけれども、彼は一体、どうなのか。自分だけ、そういう目に遭うのか。」

この二人は筆頭格の弟子で、ある意味でよきライバルのような弟子であったようです。ヨハネ福音書は、そのような書き方をします。

そのようなペトロの問いに対して、イエス・キリストは、「私が来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(22節)と言われました。まわりくどい言い方です。筆者はこう続けます。

「それで、この弟子は死なないといううわさがきょうだいたちの間に広まった」21:23

さらに筆者は、「しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『私の来るときまで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」と、くどい程に説明するのです。

(3)書かれた当時の状況

なぜこんな言葉が記されているのかということを、少し説明しておきましょう。実は、元来のヨハネによる福音書は、20章で一旦終わっているのです。そしてこの21章は、少し後の時代の人が書き加えたものだろうと言われます。

恐らく、この21章が書かれた当時の状況として、第一に「ペトロは殉教した。しかし愛する弟子と呼ばれた人は、殉教はせず、長生きした」ということがあったのでしょう。第二の状況は、その愛する弟子も長生きはしたけれども、やがては死んだということでしょう。そこで「イエス様は、『死なない』とは言われませんでしたよ」ということを伝えようとしているのだと思います。

(4)人は人、あなたはあなた

私たちがこの言葉を読む時に心に留めるべきことは、イエス・キリストの召し出し方です。「あなたは、私に従いなさい」(22節)。「人は人、あなたはあなた」ということです。ペトロが、この答えを聞いて、どう反応したかは書いてありません。しかしこの問いは、いつも繰り返し、繰り返し、私たちの心にのぼってくるものです。それは、ペトロの好奇心を表していると同時に、この福音書が書かれた当時の人々の好奇心をも表しています。そして、私たちの好奇心にも通じるものです。

イエス・キリストへの従い方、宣教の仕方というものは、それぞれに異なっています。その生涯の歩み方もそれぞれに違っています。ペトロのように殉教のような形で生涯を閉じる人もありますし、「愛する弟子」のように長生きをして、長い間イエス様に仕える人もあります。それは、神様が私たちのために備えられることでありましょう。

牧師の中にも、いろんな牧師があります。貧しい生涯を生き抜く牧師もいますし、いわば、(変な言い方ですが)、この世的に「成功する」牧師もいます。そして牧師といえども、どうも他の牧師のことが気になることがあります。

現場の教会の牧師を辞めて、大学の教授になる人もあります。この世的には、どうもその方が成功したかのように見えます。そのほうが、社会的評価が高いからでしょう。神学校の教師や、中学高校の教師になる人もいます。病院のチャプレンになる人もいます。しかしそれは、どちらがいいか、どちらが正しいか、ということではありません。それぞれの仕方で召し出され、それぞれの仕方で従っていく。それでいいのです。

「主よ、この人はどうなるのですか。」この世的に成功すればする程、「あの人はどうなってるの。イエス様の生き方と随分、違うね」という素朴な問いが出てきます。「イエス様を輝かせるよりも、本人が輝いてしまっているね」。しかしそのような問いに対して、主はこう答えられるのです。

「人は人、あなたはあなた。人のことは気にするな。」「あなたは誰にも増して、そして何にも増して、私を愛するか。」「あなたは、あなたの仕方で、真っ直ぐに私に従ってきなさい。」私たちは、その呼び声に、「はい」と答えて従って行くかどうかが問われているのです。

モーセが召し出された時も、彼は躊躇しました。そして何度も何度も、従わなくてもよいような理由を見つけようとしました。従うことを避けようとして言い訳をするのです。「私は舌の重いものです。口下手です」しかし神様は、それを認められません。「そこまで言うのか」という感じで、「あなたには兄弟アロンがいるではないか」と言って、アロンを同行させるのです。

このことは牧師だけではないでしょう。クリスチャン一人一人も同じことがあるのではないでしょうか。清貧に生き抜く信仰者もいますし、社会的に成功し、名声を得る人もいます。しかしながら、先日も申し上げたとおり、そうした人が、その地位にいるからこそできる大きな働きをすることもしばしばあります。「決断(ディシジョン・メイキング)の幅が広がる」と。まわりの人にはわからない、そうした立場の人ならではの苦労も、きっとあるのでしょう。神様の人の用い方の不思議さというのを思わざるを得ません。

(5)ヨハネ福音書の著者

そして、こういう言葉が続きます。

「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。」21:24

「これらのこと」というのは、直近の21章のことと読むこともできますが、20章までのヨハネ福音書全体と読むのが自然でしょう。このヨハネ福音書を書いたのは、伝統的にイエスの愛する弟子ヨハネだとされてきました。「ヨハネによる福音書」という書名もそこから来ています。

しかし聖書学者たちの研究によれば、イエスの愛しておられた弟子(ヨハネ)が、この福音書を書いたとするのは、年代的にも、他の点でもかなり無理があるようです。ただし全く無関係でもない。ヨハネ福音書の著者(厳密に言えば、ヨハネ福音書1~20章の著者)は、イエスの愛しておられた弟子(ヨハネ)から生まれた教会、ヨハネを特別視する教会の中の、誰かであろうと言われています。

21章の筆者は、わざわざ「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」と記していることからも、明らかに21章は、20章までの著者とは違う人物が書き加えたということがわかるのです。

(6)書き切れない程の恵み

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。その一つ一つを書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」21:25

すごい表現です。それほどまでに多くのわざをなさった。私は、これは決して誇張ではないと思います。

21章の筆者が生きた時代は、主イエスの時代よりも少し後の時代でしたが、その段階でもそうであったわけです。その後、2000年が経ちました。イエス・キリストのしるし、イエス・キリストのわざは、私たちのところまで脈々と連なっています。そのことを思う時に、このヨハネ福音書の言葉は、時代を超えて、私たちに実感として響いてくるのではないでしょうか。イエス・キリストが2000年前より今日までに、多くの人々を用いてなさったことはとても数え切れないものです。

(7)ヨハネ福音書の執筆目的

最後に、先ほど触れたヨハネ福音書の20章の締めくくりの言葉を心に留めましょう。

「本書の目的」と題されています。

「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。」20:30

これは、「自分はイエス・キリストの言葉とわざ、そして不思議なしるしをすべて書き記すことはできない」という無力な思いであったのでしょうか。むしろ、「イエス・キリストのなさったことは、とてもここに収まりきれない程の恵みに満ちた、あふれ出る程のものだ」という喜ばしい思いでありましょう。そして、こう続きます。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を得るためである。」20:31

この言葉は、二つのことを述べています。

一つは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」ということです。メシアというのは、キリスト(救い主)です。ぜひイエスが神の子であり、キリストであることを信じて欲しい。そこにこそ著者の執筆意図があり、そこにこそ著者の願い、祈りが込められているのです。

二つ目。「イエスは神の子メシアであると信じる」ことには、さらに、究極の目的があります。それは、「あなたがたが信じてイエスの名により命を受けるため」ということです。このことに促されて、ヨハネ福音書の著者は、この書物を書きました。

「命を受けること」は、永遠の命そのものであるイエス・キリストに連なることです。著者は、そのためにこそ、イエスが神の子メシアであることを明らかにしようとしたのです。そこには、これを読む人の救いに対する熱い思いがあります。

(8)神様の配慮

しかし私は、そこにもう一つ深い配慮があったことを思わざるを得ません。このように聖書の著者の熱意を促したものは、一体、何だったのでしょうか。そこには、直接の著者、筆者を超えた、もう一人の著者、と言いますか、誰かを動かして、福音書や手紙を書かせたお方の熱意があるのではないでしょうか。その方の思いが真実であればこそ、それに促されて聖書の各書を記した人の思いも真実なのです。

そこには、ただ単にこの福音書の目的だけではなく、神様の大きなご計画の目的があります。その目的のためにこそ、御子イエス・キリストは、遣わされたのだと言えるでしょう。ヨハネ福音書は、それを次のように述べていました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネ3:16

この神様の熱意が、ヨハネ福音書の著者の熱意へとなだれ込んでいると言えるでしょう。私たちもこの熱意を受けとめ、イエス・キリストの名により命を得たいと思うのです。

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