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2025年6月29日説教「主の祈り」松本敏之牧師

マタイによる福音書6章7~13節

(1)主の祈りは「福音の要約」

先ほどは、和田明さんと松本圭使さんが「主の祈り」の歌を、英語と日本語で歌ってくださいました。

「主の祈り」というのは、イエス・キリストが弟子たちに、「こう祈りなさい」と、教えてくださった祈りです。日本語の訳は幾つかありますが、私たちは、敬愛幼稚園と一緒に歩んでいる教会であるということもあり、子どもたちにもわかりやすい、口語体で「主の祈り」を暗唱するようにしています。ただ訳は違っても、どこの教会の礼拝に行っても、必ず祈られるのがこの「主の祈り」です。

今日はせっかくの機会ですので、しばらくの間、主の祈りには、どういう意味があるのか、心に留めたいと思います。

三世紀のある神学者(テルトリアヌス)は、「主の祈りは福音全体の要約である」と言いました。つまり、「キリスト教とは何かを知ろうと思えば、まず主の祈りを学ぶとよい、大事なことはすべてそこに含まれている」ということです。主の祈りは、それほど深い内容をもった祈りです。

(2)前半は、神についての祈り

主の祈りは、前半と後半があるのですが、前半は「神についての三つの祈り」、後半は「人についての三つの祈り」です。

前半の「神についての祈り」の一つ目は、「み名が聖とされますように」あるいは「み名があがめられますように」という祈りです。これは神様の名前が尊ばれることを祈るのですが、わかりやすく言い換えると、神様が神様として尊ばれますように、と言ってもよいでしょう。

二つ目は、「み国が来ますように」という祈りです。「み国」というのは「神の国」ということです。「神の国が来ますように。」この言葉にも深い意味があるのですが、あえてわかりやすく言えば、「神様が望まれる平和な世界が早く来ますように」というふうに、言い換えることができるかもしれません。それは世界各地で戦争が行われている今は、最も切実な祈りであると言えます。それはこれは、「主の祈り」の中心的な祈りであると言ってもよいでしょう。

三つめは、「み心が天に行われるとおり、地にも行われますように」という祈りです。これはちょっと不思議な言葉です。み心、つまり神様の意志は天においてはすでに行われているというのです。それが地上でも同じように行われますようにと、祈るのです。これは二つ目の「み国が来ますように」という祈りを、別の言葉で言い換えたものと言えるかもしれません。

今日、和田明さんが歌われた「主の祈り」の日本語部分は、この三つ目の言葉が二つ目に含まれているような歌詞でした。(英語の方は三つに分かれていましたが)、これは、実は、少しマニアックな話をしますと、「主の祈り」は、聖書の中に2回出てくるのです。そして私たちが今呼んだのは、マタイ福音書に出てくる主の祈りです。もう一つはルカによる福音書に出てくるのですが、ルカ福音書に出てくる主の祈りは、「み心の」の祈りがないのです。「み国が来ますように」という祈りに代表させているのです。ですから、今歌われた「主の祈り」の日本語歌詞はそれに近いのかなと思いました。ただ、少しマニアックなことなので、ほとんどの方は何を言っているのかわからないでしょうから、どうぞスルーしてください。

(3)後半は、人についての祈り

後半に行きます。後半は、人についての祈りです。「私たちについての祈り」とも言えます。後半にも三つの祈りがあります。

一つ目が「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈り。

二つ目が「私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します」という祈り。

そして三つめが「私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という祈りです。

一つ目は、今日食べるものがありますように、という祈り。二つ目は過去に犯してしまった罪の赦しを求める祈り。三つめは、これからも誘惑に陥らないように守ってください、という祈りです。ですから一つ目は、今日についての祈り。二つ目は昨日についての祈り。三つめは明日についての祈り、と言うこともできると思います。

(4)日ごとの糧を求める祈り

今日は、時間も限られていますので、一つ目の「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りについてだけ、少し丁寧にお話ししたいと思います。

私たち日本人の多く、ここに集っている方々の多くは、それなりに食べ物がある方が多いでしょう。そういう人にとっては、今日の食べ物についてはそれほど切実ではないと思われるかもしれません。それよりも、人間関係において、人を傷つけてしまったことを赦してほしいという祈りや、これからも誘惑に陥らないように守ってほしい、という祈りのほうが切実だと感じる方も多いのではないでしょうか。

でもイエス様は、まず食べ物についての祈りを最初に持ってこられました。それはどうしてでしょうか。

「罪のゆるし」を求めるよりも前に、「誘惑からの守り」を求めるよりも前に、「食べ物をください」と祈るのです。もともとは、「日ごとのパンを与えてください」という言葉です。食べ物のことは、精神的なことよりも低次元のことのように思う人があるかもしれませんが、主イエスが「まずパンを求める祈り」を教えられたことは恵みであると思います。主イエスは、食べ物、パンがいかに大事であるかということ、それがなければ他のどんなことも成り立たないほど、大事であることをよく知っておられたのです。

ここで、「日ごとの」(「必要な」)と訳された元の言葉(「エピウーシオス」というギリシア語)は、実は新約聖書の中でも最も訳すのが難しい言葉のひとつだそうです。聖書の他の箇所にも、ギリシア語の古い文献にも出てこないので、似た言葉から想像するしかありません。ですから何と訳すか幾つかの可能性があるのですが、どの言葉にも共通する大事なことは、それは豪華なぜいたくな食事を求めるのではなく、「私たちが生きるのに必要な日々の糧」を求める祈りだということです。「ステーキ」とか「黒豚しゃぶしゃぶ」とか「上等のお寿司」ではなく、そこに私たちの生命がかかっている、そういう食べ物のことです。

そうだとすれば、なおのこと、今の私(たち)にはそれほど必要な祈りには思えない人も多いかもしれません。私たち多くの日本人は、恐らく何らかの食べ物を手にすることができるからです。もっとも日本国内にも食べ物に困る人がどんどん増えてきていることも忘れてはならないでしょう。ただし一般的に言えば、この祈りよりも、罪のゆるしや誘惑から逃れることのほうがずっと切実だという人も多いと思います。しかしそういう私たちにとっても、この祈りは二つの意味で、とても大切です。

(5)「私たち」の祈り

第一に、これは「私」の祈りではなく、「私たち」の祈りだということです。私自身、私たち自身は、日々、生きていくのに必要なだけの食べ物があるかもしれませんが、この世界にはそうでない人のほうが多いのです。

地球人口、約80億人のうち、半分以上の人は、十分に食べるものがありません。少し古い統計ですが、2009年11月に開催された国連の世界食料安全保障サミットにおいて、当時の国連事務総長は、「飢えに苦しむ人々は10億人以上に達し、子どもの死者は年間6千万人。一日あたり1万7千人が死亡しており、6秒に1人の割合で餓死している」と述べていました。発展途上国の数億人規模の子どもが飢餓の危険にさらされ、うち九割以上がアフリカ、アジア諸国に居住しているとのことです。

私はかつてブラジルに住んでいましたが、ブラジルでは、とりわけ貧富の差が大きく、お金持ちが飽食の生活をしている一方で、何百万人、あるいはそれ以上の人がわずかな食べ物を求めて生ゴミをあさっています。教会の前の通りでも、早いうちにゴミを出すと、必ず誰かが袋を破って中を調べたあとがありました。それが世界の現実です。「私」の現実ではないかもしれませんが、「私たち」の現実なのです。

そしてこのことは、私たち日本国内においても決して他人ごとではないというふうになってきています。子ども食堂を大勢の人たちが必要としています。そして日本国内においても、食べるのにぎりぎりの生活を強いられている人が多くなっています。イエス・キリストはそういう現実の地平で、この祈りを祈ることを求めておられるのです。

バシリウス(4世紀)という人は、こう言いました。「あなたの家で腐っているパンは、飢えた人々のパンである。あなたのベッドの下で白カビをはやした靴は、はだしで歩いている人の靴である。大カバンに死蔵させた衣服は、裸でいる人の服であり、金庫にしまい込まれ、使われないお金は貧しい人々のものである」。

まさに私たちの生き方が問われているのだと、思わざるを得ません。現在、この地球上にある食糧を全部合わせれば、それは地球人全員を養うのに、十分な量であるそうです。つまり飢えは、食糧の不足の問題ではなく、食糧の分配の問題だと言えるでしょう。

(6)私たちを養ってくださる父

第二に、この祈りは私たちが「生きる」ということ、「いのち」という最も基本的なことに立ちかえらせてくれます。「私たちに日ごとの糧を今日も与えてください」ということは、「私たちを養ってくださるのは、あなたです。あなたは毎日必要な糧を、日ごとに与えてくださいます。それを信じさせてください」ということでもあります。

旧約聖書の出エジプト記16章には、モーセをリーダーとして、イスラエルの民がエジプトを脱出してから、その日ごとに、マナという不思議な食べ物をいただいて養われていたことが記されています。(日本にも「マンナ」という赤ちゃんがよく食べるビスケットがありますが、その名前は、旧約聖書のこの物語から来ています。)マナが実際にどういうものであったのかは、よくわかりません。しかし大事なことは、それは、神様ご自身が備えられた天からの糧であったということです。

毎日、必要な分だけを与えられました。欲張って翌日の分まで取ったら、虫がついて臭くなってしまった、あるいは日が高くなると溶けてしまったとあります。おもしろいことに、ある人は多く集め、ある人は少なくしか集められませんでしたが、はかりで量ってみると、みんな必要な分がぴったり与えられたというのです。一生懸命がんばって取っても同じだとがっかりする感じもしますが、その代わり、病気か何かで少なくしか取れなくても、必要な分は与えられたということになるでしょう。安息日の前日に限り、二日分を取ることができ、しかも腐らなかったというのも興味深いことです。そこには何かこの世の原理とは違う力が働いていました。必要な分は、神様が定められ、その分は必ず神様が与えてくださったのでした。だからこそ、こう言われます。

「あなたの神、主がこの四十年の間、荒れ野であなたを導いた、すべての道のりを思い起こしなさい。……(主は)あなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった。」申命記8・2~3

パンを求める祈りにより、私たちは自分で生きているのではなく、天の父によって生かされているのだということを知るのです。これが二つ目の意味です。

主の祈りは、シンプルな言葉ですが、そこには深い意味が込められているのです。皆さんも、ぜひこの「主の祈り」を覚えて味わっていただきたいと思います。

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