2025年2月9日説教「魚の中のヨナ」松本敏之牧師
ヨナ書2:1~11
マタイによる福音書12:38~40
詩編130:1~8
(1)旧約聖書続編
鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課は、1月に最後のマラキ書まで到達しました。皆さんの中で、今回、最後まで読み通された方はどれ位おられるでしょうか。私は、こわくて、「手を挙げてください」とお聞きできませんけれども、また個人的な会話の中ででもお知らせください。今後はどうしようかと思いましたが、聖書日課として、その箇所を週報に載せたりするのは、これで、一応、終わりとします。聖書を毎日読む習慣が身についた方は、「信徒の友」に出ている、日本基督教団の聖書日課や、アッパールームなどの聖書日課を用いて続けてくださるとよいと思います。私は、と言えば、旧約聖書続編付の聖書を購入しましたので、それを続けて読んでいきたいと思い、2月1日から始まる続編の聖書日課を作成しました。事務の松尾さんがプリントにしてくださり、教会のホームページにもアップされていますので、よかったらご利用ください。
「旧約聖書続編」というのが何か、ご存じない方もあるでしょう。「続編」とは何かご存じない方もあるでしょう。日本聖書協会は、新共同訳の発行以来、「旧約聖書続編付」と「続編」の付いていないものの2種類の聖書を作成しています。続編は、従来の旧約聖書と新約聖書の間に置かれています。聖書を開いてみると、続編の目次の右側に、以下のような説明がついています。
〈以下の13書は、教会によってはアポクリファないし外典としている。カトリック教会においては、最初の10書を第二正典としている。〉
カトリックとプロテスタントが一緒に読むことができる聖書を作る時に、この「アポクリファ」と呼ばれる部分を、どう扱うかが問題になりました。プロテスタント教会では「正典」つまり聖書とは認めておらず、「外典」と呼んでいます。でもカトリックでは「正典」(第二正典)としている。ですから「外典」と呼べば、カトリック教会が納得しないでしょうし、「正典」「第二正典」と呼ぶのではプロテスタント教会が納得しない。それで落としどころが「続編」という呼び名だったのでしょう。
(2)トビト書
ちなみに今は、最初の書物である「トビト書」という書物を読んでいます。トビト書には、以下のようなことが書かれています。
「敬虔なイスラエル人トビトは、捕囚の地ニネベでも律法に従って生活し善行に努めていた。その善行の結果、財産をことごとく失ってしまい、それにふとしたことで失明してしまう。いろいろと非難されますが、トビトは義人としての生活を続ける。しかし、些細なことで妻と激しい口論をし、妻から厳しく非難されるに至ってトビトは神にこの苦しみからの救いを祈る……。」
「その宗教的特徴は、神はこの世の中の出来事や歴史を通じて、イスラエルとイスラエル人の益のために働かれるという信仰、神への忠実さ、他人への愛は必ず報われるという信仰を根本において、神、天使、悪霊などのモチーフを用いて、全聖書に共通する善行への勧めが物語風に記されている。また、本書は『祈りの本』とも呼ばれる数々の祈りが折り込まれており、それらの祈りによって宗教的にも深みを備えた物語となっている。」
(執筆者:中村克孝)
確かにこのトビト書を、聖書の中に入れるとなると、「うーん、これはどうかな」と思う言葉もたくさん出てきますが、逆に、これはプロテスタント教会では、聖書に入れられなかった書物ということを前提にして読めば、きらりと光るような言葉に出会います。
たとえば、今はトビト書を読んでいますが、こんな言葉が出てきます。
(3)トビト書の心に残る言葉
「私の傍らに食卓が設けられ、多くの料理が運ばれた。そこで私は、息子トビアに言った。『わが子よ、捕らわれの身となってニネベの町にいる私たちの兄弟のうちで、本当に神を心に留めている貧しい人を見つけて連れて来なさい。その人と一緒に食事をしよう。子よ、私はお前が戻って来るまで待っているつもりだ。」
トビト書2:2
また次のような言葉もあります。トビト書4章の言葉です。
「(トビトは)そこで息子トビアを呼び寄せ、こう言った。『私を手厚く葬ってくれ。母親を敬い、母が生きているかぎり、見捨ててはならない。母親の前では、その喜ぶことをなし、何をするにしても、母の魂を悲しませてはいけない。わが子よ、お前が母親の胎内にいたとき、母が多くの危険に遭ったことを忘れてはいけない。母親が死んだなら、私と並べて同じ墓に葬りなさい。』」トビト書4:3~4
この言葉から、私は、『讃美歌第一編』510番の「まぼろしの影を追いて」という賛美歌を思い起こしました。また、次の言葉にも心を惹かれました。
「飢えている人に、お前のパンを、裸の人にはお前の衣服を分け与えなさい。余分なものはすべて施しなさい。施しをするときに、あなたの目のためらいがあってはならない。」トビト書4:16
何かどきっとする言葉であります。同時に、自分に必要なものは取っておきながら、余分のものは施しに用いなさい、というのはすてきな言葉であると思いました。そして、マタイ福音書25:35以下の「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」という言葉につながるメッセージがあると思いました。
よかったら、この「続編」の聖書日課を用いて、一緒に読んでみてください。今から約7か月で、8月30日に読み終える予定です。
日本聖書協会は、この「続編」だけを独立して発行してくれれば、飛ぶように売れると思うのですが、そうすると、逆に、そればっかり売れて、続編付聖書が売れなくなる心配があるので、作っていないのかもしれません。
(4)神から逃れようとするヨナ
さて、先月も申し上げたことですが、旧約聖書(正典)の最後に置かれている「十二小預言書」は、すべて取り上げることはできませんでしたが、その中で、物語としても面白い、ヨナ書だけは、1章ずつ、少し丁寧にお話しすることにしました。4章ありますので、全部で4回となります。今日は、その第2回目で、第2章を先ほど読んでいただきました。
先ほどのトビト書も、ニネベの地に捕囚の身となっているトビトの物語でありましたが、このヨナ書も、ニネベと深い関係があります。
ニネベの町が堕落してしまっているから、神様がイスラエルの預言者ヨナを呼び出して、ニネベに遣わそうとしていました。そして、「この町は悪い街だから、40日後に滅びる」と告げさせようとするのです。しかし、ヨナはそれを不服として、ニネベとは逆方向のタルシシュへ行く船に乗り込んだのでした。
しかし神様は、そのヨナを連れ戻して、本来の使命に着かせようとします。ヨナが乗った船は大嵐にあい、それが誰のせいであるか、くじ引きをしたところ、ヨナにあたります。。ヨナは、自分のほうから、船員たちに、「自分を海の中に投げ込んでください」と告げます。船員たちは、最初は躊躇して、港へ引き返そうとしますが、無理でした。それで、とうとうヨナは海に投げ込まれます。そうすると、これまでの嵐が嘘であったかのように、海は凪になりました。それが1章に記されていることでした。
(5)魚に呑み込まれたヨナ
そしていよいよ第2章です。
海に大嵐を放たれた神様は、今度は巨大な魚に命じて、ヨナを吞み込ませます。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいたというのです。これが、第2章のテーマです。
ヨナが魚の腹の中から、祈りをささげると、主が魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出しました。新約聖書では、このことは、イエス・キリストの死と復活のしるしとして使われています。先ほど読んでいただいた、マタイ福音書の12章39~40節です。このたとえの解釈は重要な点をついています。
ヨナ書は、特にユダヤ人の歴史について、適切に妥当する比喩の役割を果たしているのです。1章に記されている、神の命令を拒否して逃亡したヨナは、バビロン捕囚前のイスラエル民族の姿を示していると言われます。イスラエルは、諸民族に神様の意志を伝える役割を負わされていたのに、その課題を裏切ってしまう。神様からの逃亡の結果、海に投げ込まれ、魚に吞み込まれてしまう。それは、イスラエル民族の滅亡であり、バビロン捕囚を指し示していると言われるのです。
そこで、人々は強いエルサレムへの郷愁を示していました。またどんなに強く、エドムとバビロンに対して憎しみを抱いていたかをみることができます。
ヨナ書の歌は、バビロンの捕囚を陰府へ下っていくこととして描いています。
ヨナは、神の前から追放されて、深い海へ(4節)、深淵(6節)へと、地の底(7節)までも沈んでいきました。
6節に「大水が私を取り囲んで喉にまで達する」とありますが、「喉」というのはヘブライ語で「ネフェシ」という言葉です。それは「魂」と訳すこともできます。いずれにせよ、 象徴的表現です。「大水が私の身をとりまき」、ヨナは、地下の世界に完全に閉ざされてしまいました。しかしそこから彼が神に助けを求めて叫ぶと、神様は叫びを聞いてくださいました。
この歌の後半は、祈りが聞かれた「感謝の歌」になっています。
「しかしわが神よ、あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。
命が衰えようとする時、私は主を思い起こした。
私の祈りはあなたに届き、
あなたの聖なる宮に達した。」ヨナ2:7b~10
この歌が過去形になっていることも一つの特徴です。舞台としては、魚の中から歌っていることになっていますが、過去に起こった出来事の感謝の歌として、これが記されているのです。今後は、いかなることがあろうとも、主への忠節を捨てることはない、とヨナは誓って、神への感謝のいけにえをささげると約束しました。そして主が魚に命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出しました。それはヨナの復活を示す出来事でした。
(6)この物語は何を意味しているのか
さて、これは実際にあったことなのかどうかは、私たちにはわかりません。科学的にはありえないことでしょう。ヨナはお魚の中で溶解しなかったのか。魚の歯にかまれなかったのか。でも、そういうふうに考えていくことはあまり意味がないでしょう。むしろその出来事が何を指し示しているかに注目したいと思うのです。
ヨナの逃亡は、神様のことを知らない者の逃亡ではありません。神様の愛も、期待も知っている者の逃亡です。神様が求めておられることも知っていながら、そこから逃げようとする。
私は、それは新約聖書、ルカ福音書15章に出てくる放蕩息子の話に通じるものがあると思いました(最近では放蕩息子という言い方よりも、失われた息子と呼ばれるようになってきていますが)。
あの次男は、父の愛を知りつつ、そこから抜け出して、飛び出そう(逃げ出そう)といたしました。父のほうは、それでも息子のことを忘れることはありませんでした。この次男は、町で放蕩のかぎりを尽くして、お金も全部、失ってしまいます。そしてようやく雇われたところで、豚が食べるエサの豆さえ食べたいと思う程落ちぶれていきました。そこで父の愛を思い起こすのです。
それは、ヨナが神様の命令から逃げ出して、陰府にまで落ちてしまったところで、神様の愛を思い起こして、帰って行きたいという願ったことに通じるものがあるのではないでしょうか。
放蕩息子の父親は、息子を忘れることはなく、彼が戻ってきた時に、真っ先にそれを見つけ、迎えて、抱き寄せるのです。
(7)笑っている魚
さて、このヨナ書で講解説教をしているペンツァックという人がいますが、この人が、その説教集に「笑っている魚」という題を付けています。ペンツァックによれば、北ドイツのある若い彫刻家が、ヨナ物語のこの場面を彫刻している作品があり、その作品では、魚が大きく口を開いて笑っているのだそうです。ペンツァックは、その作品を指して、次のように述べています。
「ヨナは、最後の力をふりしぼって、揺れ動く海藻の房にしがみついています。そこにはすでに、大きな口を開いた魚が近づいています。その魚がヨナを殺すのは確実です。しかし見て下さい。魚の顔には、見過ごすことのできない喜びの笑いがあるのです。それは、嘲笑の笑いでもなく、同情の笑いでもありません。知っている者の笑なのです。この笑っている魚は、失われたものをかえりみ、愛し、救う救い主である神の愛の光の反映のようなものです。暗闇の真っただ中で、ヨナを取り囲んでいるのは、すでにあらわになっている神の救いのみ手なのです。出口のない、最終的で、最もきびしい誘惑のなかにも、ひとつの道が、神の愛の道があるのです。それがヨナのしるしです。」ペンツァック『笑っている魚』45~46頁
ヨナのほうは、もうあきらめて、自分はこのまま死んでいくばかりだ、と思っていても、魚のほうは笑って、ヨナを、愛をもって受け入れようとしている。滅びの場所だと思っていたところが、ヨナの守りの場所となり、ヨナをよみがえらせるのです。ヨナの復活を指し示す何かが、この魚の中にあるのです。このことは、ヨナ書のテーマ、それだけではなく、聖書全体のテーマをよく示しているのはないでしょうか。
「笑っている魚」。私たちが苦難に陥る時、困難に陥る時、それは自業自得のこともあるでしょうし、もしかすると、自分のせいではないことで、「もうだめだ。これで終わりだ」ということもあるかもしれません。しかし、まさにそう思っているところで、口を開いている魚は笑っているのです。そして大きく口を開いて自分を呑み込もうとしているものが、守りの器のようになるのです。
そしていみじくもイエス・キリストが、「ヨナのしるし」と言われたように、受難と同時に、復活を指し示すしるしにもなっているのです。
私たちの困難、苦難のところに、実は笑っている魚がいる。口を開いているその魚は、私たちを守り、育み、そして新たに生かしてくださる。そういうことを心に留め、信じて歩んでいきたいと思います。