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2025年12月14日説教「久しく聖徒の待ちしくにに」松本敏之牧師

イザヤ書11章1~9節
マタイ福音書1章1~17節

(1)長い歴史の中の悩み苦しみ

講壇のキャンドルに、三つ火が灯り、待降節第3主日礼拝を迎えました。鹿児島加治屋町教会では、今年のクリスマス、「地に住むひとには平和あれ」というテーマを掲げて歩んでいます。この言葉は、「天なる神にはみ栄えあれ」という賛美歌(『讃美歌21』265番)の中のフレーズであること、そして日曜日ごとに、この賛美歌の中のワンフレーズを説教題として、その言葉にちなんだ説教をしていることは、すでに申し上げました。

本日の説教題は、「久しく聖徒の待ちしくにに」です。この言葉は、この賛美歌の以下の4節の中の言葉です。

「み使いの歌う 平和来たり
  久しく聖徒の 待ちしくにに
  主イエスをわれらの 君とあがめ
  あまねく世の民 高くうたわん。」

そういう歌詞です。先週の日曜日は、マリアの夫なったヨセフの悩みを通して、私たち一人一人の人間にも悩みがある。その悩みの中で、神は出会ってくださる、ということメッセージに耳を傾けました。本日は、そのような悩み苦しみは、ずっと長い歴史の中にもあり、救い主の誕生はそうした歴史を通して待ち望まれてきたということに、耳を傾けていきたいと思います。

(2)何のための系図か

そうしたことを心に留めながら、今日は、マタイ福音書冒頭の言葉を読んでいただきました。この部分は、新約聖書の冒頭にありながら、あまり評判のよくない箇所です。いかにも飛ばして読みたくなるような言葉です。皆さんの中にも、「よし聖書をはじめから全部読んでやろう」と決心して読み始めたら、いきなり最初のところでつまずいてしまった、という経験をお持ちの方もあるのではないでしょうか。1章のはじめから、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけ、ヤコブはユダとその兄弟たちを(もうけ)」、と続いていきます。舌を嚙みそうになります。どんどん誰それは誰それをもうけ、と続いた後、最後の16節のところで、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記されます。

「何で、こんなによくわからない名前ばかり、ずらずらと並べているのか、何のことかわからない。」そう思ってしまう人もあることと思います。しかし、マタイが一番初めに、名前を記し、「イエス・キリストの系図」(1節)と書きましたのは、イエス・キリストの生涯を語るのに、系図が非常に大事だと考えたからでしょう。マタイはイエス・キリストについて書き始めるのに、どうして系図などをもってきたのでしょうか。

系図が大事であると考えるのは、マタイだけではありません。系図というのは、よく誰かを権威づける時に用いられます。日本でも天皇を「万世一系の系図」(かなりあやしいようですが)でもって権威づけます。天皇こそは、それこそ日本の国が始まって以来、血統が保証されていると言って、その系図をもって権威づけます。そういう系図を見ると、何となく偉く見えてしまうのではないでしょうか。皇室ではない人でも自分にいい系図とか、古くから続いている系図が残っていたりすると、それを何となく誇らしく思う人もあります。

イエス・キリストがお生まれになった当時のユダヤの王ヘロデは、自分の本当の血筋を知っている人を皆殺しにして、自分の素姓を隠して、にせの立派な系図を作り上げたと言われます。人間だけではなりません。犬でも猫でも血統書付きというのは、値段が高くなっています。マタイもこれと同じ発想で、まずイエス・キリストを権威づけようとしたのでしょうか。やっぱりイエス・キリストの場合にも、イエス・キリストの権威のために系図が必要であったのでしょうか。私は、そうではないと思います。

そもそもこれは血のつながりを示す血統図ではありません。最後の16節を見ると、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と結ばれていますが、そのヨセフとイエスの間には血のつながりはないからです。それでは、この系図には、一体どういう意味があったのでしょうか。

(3)四人の女性

ここに出て来るすべての人についてお話しする時間はありません。またしようと思っても、どういう人であったか分からない人もたくさんあります。しかしこの系図の意味を理解するために、ひとつの特徴に目を向けてみましょう。この系図の中には、イエスの母マリア以外に四人の女性が出てきます。カタカナばかりでよくわからないかもしれませんが、「何々によって」というところが女性の名前です。初めに出てきますのは3節のタマルです。「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とあります。続いて見ていきますと、5節には「サルモンはラハブによってボアズを」とあります。それから6節には、「ボアズはルツによってオベドを」とあります。この「ラハブ」「ルツ」というのが女性です。それから6節の段落の変わり目のところで、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。ウリヤの妻というのは、バト・シェバという名前があり、聖書でもそれが記されているのですが、わざわざこういう書き方をしているのです。

さて、どうしてここにだけ女性の名前が出てくるのか。この女性たちは特別に立派な信仰者であったのかと言えば、そうではありません。立派な女性、有名な女性であれば、アブラハムの妻サラや、イサクの妻リベカの名前を挙げたほうがよかったでしょう。そういう女性ではなく、どうして、この4人の女性なのか。そこには、もっと別の理由があるのです。

(4)タマル

タマルという女性は、ユダという人の子どもを宿したとありますが、このユダは夫ではありませんでした、夫の父、舅です。自分と夫の間には子どもが生まれなかったのを嘆いて、顔を隠して道端で娼婦の姿になりすまし、そして舅であるユダと交わり、ユダの子を産みました。タマルという人は、「この家の血を絶やしてはいけない、そのためには何でもする」といういわば異常な執念で子どもを産んだ女性です。この話は、創世記38章に出てきます。

(5)ラハブ

今、タマルは娼婦になりすまし、と言いましたが、5節に出てくるラハブは本物の娼婦、遊女でした。しかもユダヤ人ではありません。ユダヤ人たちは、自分たちは神から選ばれた特別な民族であると考えていましたから、ユダヤ人以外の人を異邦人と呼んで、軽蔑していました。その異邦人であり、しかも娼婦であるラハブの名前が出てくるのです。ヨシュア記2、6章に登場します。なかなか面白い物語です。モーセはエジプトで奴隷となっていたユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出しましたが、彼が死んだ後、後継者として若きヨシュアがリーダーとなりました。そしてヨシュアの時代に約束の地カナンに入ります。最初に攻め入るのはエリコという町ですが、ヨシュアはまず二人の斥候(スパイ)を送るのです。この二人のスパイが娼婦ラハブの家にいる時に、「イスラエルの人々からスパイが来ている」と密告する者がいて、ばれてしまいます。ところが、ラハブがこの二人のスパイをかくまい、嘘をついてうまく逃がしてやるのです。そして逃してやる交換条件として、いつかイスラエルが攻めて来た時には自分の一族を殺さないでくれるように頼みました。これもまたお読みになるといいと思います。ヨシュア記の2章と6章です。

(6)ルツ

三番目に出てくるのはルツです。この人については、旧約聖書の中にルツ記という書物があります。夫に先立たれた後、姑のナオミに従ってユダの国へ行き、大きな苦労をしながら、姑ナオミをよく助けました。その後再婚した相手が、5節にあるボアズという人です。ルツについて話し始めると、それこそ幾ら時間があっても足りませんので、後はどうぞルツ記をお読みください。ただ今日の話の文脈で大事なことは、このルツという人はモアブという土地の人であり、ユダヤ人ではなかったちうことです。やはり異邦人です。ユダヤ人たちは、このモアブ人というのを特に嫌って、モアブ人の血が入った場合には、10代まで、10の世代が代るまでモアブ人の血は消えない、その血がユダヤ人に戻るまでは、一緒に礼拝することができない。そう考えていました。
 このルツとボアズからオベドが生まれ、オベドからエッサイが生まれ、そのエッサイからダビデが生まれて来ることになります。先ほど、イザヤ書11章1節以下を読んでいただきました。

「エッサイの株から一つの芽が萌え出で
  その枝から若枝が育ち
  その上に主の霊がとどまる。」イザヤ書11:1

エッサイの株から一つの芽が萌え出で」というのは直接的にはダビデを指していますが、それはメシア誕生の預言にもなるのです。

この後で、歌います248番「エッサイの根より」の賛美歌も、そこからメシアが生まれて来るということを歌っている歌です。

(7)バト・シェバ

さて、この系図の四番目、「ウリヤの妻」という人は、本当はバト・シェバという名前です。マタイが名前を書かず、わざわざこういう書き方をしたのは、ダビデの罪を思い起こさせるためでした。ダビデはある日、王宮の屋上から一人の女性が水浴びをしているのを見て、彼女に一目ぼれをします。自分のものにしたいという欲望にかられ、そして自分のものにしてしまいます。バト・シェバが妊娠したことを知ると、夫のウリヤを戦地から呼び戻し、一晩一緒に過ごさせようとします。バト・シェバの胎の子をウリヤの子と思わせるためです。しかし王にも仲間にも律儀なウリヤは、家に帰ろうとはしませんでした。困ったダビデは、逆に、ウリヤを激しい戦闘の前線に追いやって、敵の手でウリヤを殺させるのです。そしてバト・シェバを妻とし、やがてそのバト・シェバから後のソロモン王が生まれてくることになります。

マタイがバト・シェバという名前がわかっているにもかかわらず、また後に正式にダビデの妻になったにもかかわらず、わざわざウリヤの妻と書いたのは、ダビデの犯した罪をそれだけ鋭く告発しているのです。この事件については、サムエル記下11、12章に出てきます。ダビデのやったことは、神様を怒らせます。神様は預言者ナタンをダビデのもとへ遣わして、その罪を暴露しました。

(8)恥と悲惨さの歴史

さてここまでお話しすると、もうおわかりかと思いますが、これら四人の女性は、特にりっぱな女性ということではなく、むしろユダヤ人の目からすれば、困った女性たち、系図からは消してしまいたいような女性たちであったということができるでしょう。イスラエルの歴史の中では汚点の象徴のようなものです。彼女たちが罪の女性であったという意味ではありません。この四つの名前が、イスラエルの歴史の恥と悲惨さと不条理と生々しい罪の現実を象徴しているのです。

もしもこの系図が権威づけのためのものであるとすれば、(そもそも女性の名を掲げることなどしなかったでしょうが)、アブラハムの妻サラやイサクの妻リベカの名を掲げた方がよかったでしょう。マタイが、サラでもなくリベカでもなく、あえてこれらの女性を掲げたのは、イエス・キリストが、このような人間の恥と悲惨さと不条理と罪の現実を身に負い、その流れの中にお生まれになったことを示すためでありました。

私は、新約聖書の一番初めのところを読む時に、イスラエルの誇るべき栄光の歴史ではなく、むしろ恥と悲惨さの歴史が彷彿としてくるのを覚えます。その惨めさの中にはダビデ王のように、自分自身の恥、自分自身の責任によるものもありますけれども、ルツが早く夫に先立たれて、苦労に苦労を重ねていったような、「どうして自分がこういう目に遭わなければならないのか」と問わざるを得ないような不条理とでもいうべき現実もあったわけです。この系図には、そういう人間の生々しい、ありのままの姿が記されているのではないでしょうか。そして救い主イエス・キリストは、そういう人間の生々しい現実の流れの中に、お生まれになった。そういうことをマタイは一番初めに記したわけです。

(9)待望と成就

私たちは、この系図を見ると、少々うんざりします。早くとにかく読み終えて、次を読みたいと思うのではないでしょうか。早くイエス・キリストの名前が出て来ないかと思う。ところが、このひとつひとつの名前に何十年という歴史があり、さまざまなドラマがあったに違いないと思います。どういう人であったか、全くわからない人もたくさんあります。しかしそれらはすべて救い主を待ち望む歴史でありました。イエス・キリストは、そういうこの世の現実をくぐり抜けるようにして、天からこの地上に降りて来られました。「久しく聖徒の待ちしくにに」という、今日の説教題にもあるとおりです。そのことを思う時に、この味気なく映る系図の中に、すでに大きな福音が語られていることがわかるのではないでしょうか。

(10)暗闇に光

マタイ福音書の大きな特徴は、旧約聖書との深い結びつきです。その意味では、すでに代表的に1節に記されたアブラハム、ダビデという二人の名前は見逃せません。アブラハムとは神さまの命令に従って故郷を出発し、旅の人生を送った人であります。

マタイは、イエス・キリストを「アブラハムの子」と呼ぶことで、「アブラハムに与えられた祝福の約束が、何度も人間の罪のために断ち切られたように見えつつも、決して破棄されることなく、今イエス・キリストによって成就した」と宣言したのです。

一方、ダビデはイスラエルの歴史の頂点でした。アブラハムからダビデまでの十四代はイスラエルの成長の時代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代は没落の時代、それ以降の十四代は暗黒の時代であったと言えようかと思います。一七節の区切り方には、そういう意味があります。イスラエルの民は、没落の時代、暗黒の時代にも、ダビデ王を振り返りつつ、それに匹敵するメシア(救い主)を待ち望みました。

そしてこの暗黒に光がさしました。それがイエス・キリストの誕生です。イエス・キリストは彼らの期待をはるかにしのぐ方でした。イスラエルだけではなく、全人類の救い主、全人類の祝福の基として、まさに私たちの歴史の真ん中に立たれたのです。

私は今、これらのひとつひとつの名前にも、さまざまなドラマがあったに違いないと述べました。考えてみれば、それは私たち自身のドラマでもあると思います。栄光があると同時に、没落がある。そこには多くの苦しみと悲しみがあります。娼婦をしなければ生きていくことができない人も含まれています。ルツのように落ち穂拾いをすることによって、貧しい生活をしなければならない現実もあります。お金はあってもダビデのように自ら深い罪のために、泥沼の中にある者もいます。

イエス・キリストは、そういう人生というものを突き抜けて、天からこの地上へ降りて来られました。そうであればこそ、「その光は、まことの光であって、世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ1:9、新共同訳)のです。マタイはこの系図によって、何よりもまずそのことを私たちに伝えようとしたのです。

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