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2025年2月23日説教「律法の完成」松本敏之牧師

マタイによる福音書5:17~20
申命記4:1~2

(1)マタイ福音書とルカ福音書の特徴

先ほど、読んでいただいたマタイ福音書5章17節から20節は、日本基督教団の先週の聖書日課の箇所です。先週は、留守にしましたので、本日、これを取り上げることにしました。「律法について」と題された箇所は、新約聖書と旧約聖書が、どういう関係になっているかをよく示す、イエス・キリストの言葉です。

「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」5:17

「律法」「預言者」というのは旧約聖書の中の主な部分ですが、ややこしい説明を抜きにして言えば、旧約聖書を代表し、全体を表現していると言ってもよいでしょう。

マタイ福音書の特徴の一つは、旧約聖書とのつながりです。「イエス・キリストこそは、実は旧約聖書で預言されていたメシア、救い主なのです」ということを伝えようとしているのが、マタイ福音書の特徴、または執筆目的なのです。あえて違いを強調して言えば、例えば、ルカ福音書の場合には、同じ材料を用いながら、力点が少し違います。「確かにそれはそうなのだけれども、つまり旧約聖書で待ち望まれてきた救い主なのだけれども、その救い主はユダヤ人の救い主であるだけではなく、異邦人の救い主、世界の救い主でもある」ということに執筆意図や執筆目的があります。ですから大きく言えば、マタイ福音書は伝統志向であり、過去とのつながりを大事にしている。ルカ福音書は未来志向であり、将来とのつながりを大事にしていると言えるでしょう。ですからルカ福音書では必然的に、次の物語、つまり使徒言行録へとつながっていくのです。教会が世界へと広がっていく物語です。使徒言行録はルカ福音書と同じ著者によって書かれることになるのです。

(2)旧約聖書を重んじること

マタイ福音書の話に戻しますと、マタイ福音書が読みにくい「イエス・キリストの系図」から始まるのもそのためです。いきなりこの系図でつまずいてしまう人もあるかもしれませんが、この系図にもマタイの特別な思いが込められているのです。特に1章1節に記されたアブラハム、ダビデという名前は見逃せません。旧約聖書の引用が最も多いことも、マタイが、旧約聖書との結び付きを大事にしたからに他なりません。

このことは、私たちの信仰にとっても旧約聖書が大事なものであるということを教えてくれます。皆さんの中には、「旧約聖書は難しい、面倒だ」と敬遠する方があるかもしれませんが、キリスト教の信仰は、新約聖書だけではなく、旧約聖書の基礎の上に成り立っていることを心に留めましょう。

日本の教会は、これまで随分新約聖書偏重でやってきたのではないかと思います。礼拝においても旧約聖書が読まれることはあまりなく、説教においても新約聖書のみ、ということが多かったのではないでしょうか。鹿児島加治屋町教会がどうであったかはわかりませんが、日本全国でそういう傾向が強かったと思います。礼拝に出られる方々の中には、いつも新約聖書しか用いないのに、どうしてこんなに分厚い聖書を持ち歩かなければならないのかと思う方もあったかもしれません。しかしそれではキリスト教が新約聖書だけを正典としているかのようです。事実、旧約聖書には大切な言葉がたくさんありますし、これを読むことによって、新約聖書の言葉がより立体的に読めるようになります。

私は、よほどの例外的事情がない限り、礼拝において旧約聖書と新約聖書の両方を読んでいただくように心がけています。またそれだけではなく、旧約聖書を主なテキストにした説教も行うようにしています。年間聖句も、旧約と新約の両方から選ぶように心がけています。

そのように旧約聖書を重んじることは、単純にそのほうが豊かだからというだけではなく、何よりもまずイエス・キリスト自身の立ち位置がそうであったからだということです。イエス・キリストは、この地上においては、ユダヤ教徒として、ユダヤ教の枠の中で生きられました。イエス・キリストが、「聖書」と言われる時には、ユダヤ教徒のいう聖書、つまりいわゆる旧約聖書のことでありました。

イエス・キリストは優れた旧約聖書の律法の教師でもありました。マタイによる福音書5章から7章にしるされている、いわゆる「山上の説教」は、主イエスらしい新しい律法ですが、これも旧約聖書の律法の精神を出るものではなく、それを深く掘り下げたものと言えるでしょう。

律法というのは、いかに生きるべきかを示した神様の教えです。もう少し詳しく言えば、モーセに率いられた神の民が神の民として歩むために、神様との契約の中で、モーセを通して与えられたものです。その中心に十戒があります。

また、旧約聖書は、もともとユダヤ教の聖典ですが、今日の世界においても、ユダヤ教を信じる人々がいるということも忘れないようにしましょう。マタイ福音書は、ユダヤ教の流れを大事にしながら、ある部分では対決姿勢も鮮明です。そしてそのことがキリスト教世界のユダヤ人迫害の一因になったことも心得ておきたいことです。

(3)律法主義の誤り

今日は、申命記4章1~2節の言葉を合わせて読んでいただきました。

「イスラエルよ、今、私が守るように教える掟と法に耳を傾けなさい。そうすればあなたがたは生き、あなたがたの先祖の神、主が与える地に入り、これを所有できるであろう。あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。」申命記4:1~2

マタイ福音書のイエス・キリストの言葉も、基本的にこれを受け継いでいると言えるでしょう。イエス・キリストも先ほどの17節に続いて、こう言われました。

「よく言っておく。天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない。だから、これらの最も小さな戒めを一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さな者と呼ばれる。」マタイ5:18~19

イエス・キリストが、「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と語られたのは、イエス・キリストの新しい教えを聞いて、これまでの律法、教えを否定していると誤解した人たちがいたからでありました。それは両方の側、つまり、それを聞いて憤慨した人たちも、それに安易に飛びついた人たちも、それぞれに誤解したのでした。

イエス・キリストが登場した時に、厳格な聖書の信仰に立っていた人々は動揺しました。「この男は律法を否定している。律法を無視している。神を汚している。」そう思ったのです。

例えば、安息日を守ることについてもそうでした。彼らはモーセの十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めから、安息日には何もしてはならないと考えていました。なぜそういう戒めが与えられたのかについて考え、その恵みを味わうよりも、この戒めそのものが絶対化されていった。その精神にさかのぼることなく、その字面を守ることを大事にした。こういうことを律法主義といいます。イエス・キリストが批判されたのは、律法そのものではなく、律法主義でした。

イエス・キリストは、安息日にもあたかも自由であるかのごとく振る舞われました。安息日にも人をいやされました。それは、律法主義者に対しては、挑発的な行為に映りましたけれども、イエス・キリストは、安息日律法をないがしろにされたのではありません。それが形骸化することによって、その精神がないがしろにされていることを批判するために、あえて挑発的な行為をなさったのでした。「安息日は、人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)と言われました。

何につけ「何々主義」となる時に、問題が生じてきます。形だけが一人歩きしてしまうのです。資本主義であれ、社会主義であれ、共産主義であれ、その原則が絶対化される時は危険です。「キリスト教主義」も例外ではありません。「キリスト教主義学校」という言い方がありますが、それはキリスト教精神に基づいています、という意味でしょうが、そこでは生きた神様を礼拝するかどうかはあまり問われない。過去の教えを大事にしてはいるけれども、そこで生きた神様が働きかけられるということは想定していない。イエス様が不在だということも起こりかねません。

律法の本来の精神は、それによって神を神とし、律法に表された神様のみ心を知ることにあります。神様はいつも人のことを思いやっておられます。ところが律法を文字通りに守ることが、その心を問うことよりも優先される。律法自体は神ではないのに、あたかも律法が神のようになってしまう。つまり律法という名の偶像を拝んでいると言えないでしょうか。律法主義です。

イエス・キリストは、「天地が消えうせ、すべてが実現するまでは、律法から一点一画も消えうせることはない」(5:18)と言われましたが、それは一字一句にとらわれるということではなくて、むしろ律法の本来の精神のことをおっしゃっているのです。

(4)律法無視の誤り

律法学者たちは、「イエス・キリストが律法を無視している」と誤解したわけですが、それを逆の立場から誤解した人たちもいました。「イエス・キリストが現れたのだから、律法はもう古い。律法はもういらない」と安易に考えた人たちがいたのです。

ここでのイエス・キリストの言葉(今日の聖書箇所)は、どちらかと言えば、むしろそのように誤解した人たちに向けて語られている面が強いと思います。

パウロは、「人はその行い(つまり律法を守ること)によって義とされるのではない。ただ信仰によって義とされる(言い換えれば「救われる」)」と言いました(ローマ3章)。そこには「どんなに律法を守っても完全にはなれない」という彼の葛藤がありました。「それでは救われる道はないのか」というところまで苦しんで、最後に行き着いたのが「いや信仰によって救われるのだ」という福音でありました。

ところがその後、パウロの言ったことを誤解する人たち、曲解する人たちが現れます。「行いはどうでもよい。律法もいらない」という人が出てきたのです。パウロ主義者です。律法とは、私たちがいかに生きるべきか、倫理・行動の規範を示すものです。しかし「人は信仰によってのみ義とされる(救われる)」ということは、決して「行いはどうでもよい」ということではありません。

恵みによって救われた人間は、毎日の生活の中で、自分が恵みによって生かされているということを、行いによって証ししていかなければならない。自由にされたということを取り違えて、生活規範がなくなってしまってよいかと言うと、それは間違っていると思います。

これは今日の私たちの生活の中にも、いろいろな形で出てくる問題でしょう。だからパウロも、次のように言うのです。

「それでは、私たちは信仰によって、律法を無効にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」ローマ3:31

(5)愛は律法を完成する

それでは、イエス・キリストは、どのようにして律法を完成されるのでしょうか。イエス・キリストが「私が来た(のは)」と言われる時、イエス・キリストがこの地上で何をなさったのかということを思い起こさなければならないでしょう。

イエス・キリストは、ただ説教をし、模範的な生活を示されただけではありませんでした。「お前たちには、これができるか」と言って、律法を守る優等生ぶりを見せられたのでもありませんでした。

むしろ神様の前で、いつも劣等生でしかないような私たちを立ち直らせるために、再び生かすために、イエス・キリストは生き、そして死なれたのでした。このイエス・キリストの生涯を一言で言うとすれば、「愛」という言葉に尽きるでしょう。パウロが言ったように、「愛は律法を全うする」(ローマ13:10)のです。あるいは「(たとえ)山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい」(コリント一13:2)のです。

「律法や預言者を完成するため」とあります。「律法」と「預言者」は、先ほど申し上げましたように、この言葉で旧約聖書全体を代表させていると言えるでしょう。旧約聖書とイエス・キリストは断絶しているのではありません。そこには連続性があります。しかし同時に、イエス・キリストが旧約聖書の中に埋没してしまうのでもありません。イエス・キリストは、私たちキリスト教の理解では、旧約聖書を超えた方です。断絶でもなく、埋没でもない。まさしく、旧約聖書を完成されたのでした。

イエス・キリストの愛に促されて、私たち自身もこの愛に生き始めること、それが律法の深い意義であり、律法の精神なのです。信仰を持つ者は、その行いにおいても人々の模範とならなければならないのだと思います。

(6)進む道は背後から示される

もっとも実際には、何か信仰に基づいて行動をするという時にも、「今はどちらを選ぶべきか、何をなすべきか」と、いつも迷うものでしょう。そこでは、聖書に記された文字と対話しながら、それを与えられた神様、今も生きておられる神様に祈り、その生きた神様の導きを信じたいと思います。

イザヤ書30章21節にこういう言葉があります。

「あなたが右に行くときも、左に行くときも
あなたの耳は、背後から
『これが道だ、ここを歩け』と語る言葉を聞く。」イザヤ30:21

そのように私たちを導いてくださる神様を信じて、正しいと思う道、最もよいと思われる道を歩んでいきましょう。

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