1. HOME
  2. ブログ
  3. 2025年1月12日説教「ヨナの逃亡」松本敏之牧師

2025年1月12日説教「ヨナの逃亡」松本敏之牧師

ヨナ書1:1~12
マルコによる福音書4:35~41
詩編139:1~12

(1)ヨナ書について

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課も、いよいよ終わり近くなってきました。今は十二小預言書の終わりから二つ目のゼカリア書に入り、その次のマラキ書で終わりとなります。朝の礼拝説教では、大きな書物については、一回で一書全体を扱うような説教を行ってきましたが、十二小預言書の一つ一つをそのように扱うことはできませんので、比較的大きなホセア書とアモス書を代表して取り上げました。その後、どうしようかと迷いましたが、預言書の中でもユニークな、そして物語として面白いヨナ書を取り上げることにしました。そしてヨナ書に関しては、少し丁寧に、1回に1章ずつ、月に1回、1月、2月、3月、4月と、説教で取り上げることとします。

ヨナ書は、十二小預言書の一つとして、預言書の中に置かれていますが、他の預言書とは異なっています。列王記下14章25節には、北イスラエル王国のヤロブアム2世の時代に活動した人物として、「アミタイの子ヨナ」という預言者が登場します。しかし、そのアミタイの子ヨナが、この書物を記したわけではありません。ヨナ書は、このアミタイの子ヨナの名前を借りて、後の時代の人が創作した風刺的な預言者物語なのです。

物語の舞台は、アッシリアの都としてニネベが繁栄していた時代なので、紀元前8世紀から7世紀ですが、実際に書かれたのはペルシャ時代の後半、紀元前400年から350年頃であろうと言われます。同時代の権力者を批判するのは難しいし、命も危ないので、過去の設定の話にしたのです。

(2)ヨナ物語、第1場。神の命令

実際に本文に従って、物語を追っていきましょう。

主なる神様は、ヨナに向かってこう語りかけます。

「立って、あの大いなる都ニネベに行き、人々に向かって呼びかけよ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」ヨナ1:2

預言の内容は、「悪を悔いて、行いを改めなければ、まもなく神の審判が下って、滅ぼされる」というものでした。ところが、ヨナはこの命令を拒否して、タルシシュのほうに逃れようとしました。タルシシュの場所は正確にはわからないのですが、現代のスペインと考える人が多いようです。ソロモンもその地方と交易をしていたということが列王記上10章22節に記されています。大国の都(ニネベ)で、その悪を批判し、悔い改めを迫ることは容易ではありません。イスラエルとユダの預言者たちが自国の権力者を批判することですら、命がけでした。実際、直接に自国以外の大国に向かってその悪を批判した預言者は1人もいません。ペルシャの時代でも、そのことは不可能なことでした。

ユダヤ人が世界帝国の支配に批判を持たなかったわけではありません。ただ、それを批判することは不可能であることを知っていたがゆえに、ヨナの逃亡は、ユダヤ人の自嘲(自らを嘲ること)とも自己批判ともなっていると言えるでしょう。逃亡は、船賃を払って、この世的には合法的にスタートしました。

(3)ヨナ物語、第2場。船上で

しかし神様は、ヨナの逃亡を見逃されませんし、許されませんでした。大風が起こって、船は砕けんばかりになりました。パウロがローマへの船旅の途中で、暴風に襲われたことは使徒言行録に27章13節以下に記されていますが、暴風に遭遇するのは、そう珍しいことではなかったのでしょう。ただヨナは良心の咎めもあってか、人を避けて船底で寝込んでいました。

船の人々は、誰のせいでこの災難がふりかかったのか、くじを引いてを知ろうとしました。くじはヨナにあたりました。彼らはヨナに畳みかけるように問いかけました。

「さあ、我々に話してほしい。この災難が降りかかったのは、誰のせいか。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。国はどこで、どの民の出身か。」ヨナ1:8

それに対して、ヨナは正直に答えました。

「私はヘブライ人です。海と陸とを造られた天の神、主を畏れる者です。」ヨナ1:9

人々は非常に恐れ、さらにヨナに、「あなたは何をしたのか」と尋ねました。ヨナは、ここでも正直に、「主の御顔を避けて逃亡しました」と答えました。

このことは、ユダヤ人が自分たちの国が滅んだのは、預言者が語った警告に耳を傾けなかったためだという責任の自覚を伴っていたことを暗に示しているのだと思われます。

船の人々は、ヨナに向かって「あなたをどうすれば、海は静まるだろうか」と詰め寄ります。「なんということをしてくれたのだ。どうしてくれるのだ。しかるべき対応をしてくれ」という思いがこめられているのでしょう。海は依然として荒れ狂ったままでした。

ヨナはそこでいさぎよくこう述べました。

「私を担いで、海に投げ込んでください。そうすれば海は静まるでしょう。この大しけがあなたがたを襲ったのは、私のせいだと分かっています。」ヨナ1:12

でも船の人たちは、当初、そこまでのことは考えていませんでした。何とか船を漕いで陸に戻そうとしました。しかし海は言うことを聞いてくれません。荒れ狂ったままです。ついに彼らは、主に向かって、こう叫びました。

「ああ主よ、この男の命のために、我々を滅ぼさないでください。無実の者を殺すという血の責めを我々に負わさないでください。」ヨナ1:14

彼らがヨナを捕らえて、海に投げ込みました。ザブーン。そうすると、海はあっという間に静かになりました。そこで、第1章は終わります。

(4)全知・全能・遍在の神

さて、私たちはここからどういうメッセージを聴くことができるでしょうか。幾つかのことをお話したいと思います。

ひとつは、ヨナは神様の前から逃げ去ろうとしましたが、それはできませんでした。神様はどこに行ってもそこにおられる方、遍在の神である、ということです。遍在の〈へん〉は、「偏る」(かたよる)ではなく、「遍く」(あまねく)です。以前にもお話したことがありますが、神様の特質は、三つの言葉で言い表すことができます。それは〈全知・全能・遍在〉ということです。神様はすべてのことを知り、何でもでき、どこにでもおられるということです。英語で言えば、omniscient(オムニシエント)、omnipotent(オムニポテント)、omnipresent(オムニプレゼント)ということです。

(5)詩編139編

その神の特質を詩的表現で歌っているのが、先ほど交読した詩編139編です。もう一度、聖書協会共同訳の言葉で見てみましょう。

「主よ、あなたは私を調べ
私を知っておられる。
あなたは座るのも立つのも知り
遠くから私の思いを理解される。
旅するのも休むのもあなたは見通し
私の道を知り尽くしておられる。
私の舌に言葉が上る前に
主よ、あなたは何もかも知っておられる。
前からも後ろからも私を囲み
御手を私の上に置かれる。
その知識は、私にはあまりに不思議
高すぎて及びもつかない。」詩編139:1~6

ここまでは、神が〈全知〉(オムニシエンテ)であることを詩の言葉で述べています。
次は〈遍在〉です。

「どこに行けば、あなたの霊から離れられよう。
どこに逃れれば、御顔を避けられよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにおられ
陰府に身を横たえようとも
  あなたはそこにおられます。
暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも
そこでも、あなたの手は私を導き
右の手は私を離さない。」詩編139:7~10

そこまでは、神の遍在について述べています。
そしてこう続きます。

「『闇は私を覆い隠せ。
私を囲む光は夜になれ』と言っても
闇もあなたには闇とならず
夜も昼のように輝く。
闇も光の変わることがない」詩編139:11~12

これは神が遍在であることの根拠、と言ってもよいでしょうか。どこに隠れようと思っても、すべてが光に照らされていて隠れることができない。

しかしこの遍在は、見方を変えれば、恵みでもあります。私たちは、神様から隠れたいと思っても隠れることはできないのですが、それは同時にどこへ行っても神様が共におられるということだからです。

私は34年前に、宣教師として地球の反対側のブラジルへ行きましたが、その時に実感したことは、暁の翼を駆って(飛行機に24時間乗って)、地球の反対側へ行っても、神様はそこで、私を待っていてくださったということでした。

(6)孫悟空

それはあの孫悟空の話にも通じます。孫悟空はいろいろな不思議なわざを身に着けていくのですが、それに伴いだんだん傲慢になっていきました。その孫悟空をたしなめるために、お釈迦様がある賭けをしようと言うのです。「お前は私の手の中から逃れることができるか。」「もちろん!」孫悟空には自信がありました。彼は、雲の形をした乗り物(きんと雲)に乗れば、秒速六万五千キロで飛ぶことができました。どんどん、どんどん飛んでいって、とうとう地の果てらしきところまでやってきました。見ると、大きな柱が立っています。孫悟空は、その柱に「孫悟空、ここにあり」とサインをして、意気揚々と帰ってきました。お釈迦様にそのことを報告すると、お釈迦様は自分の指を見せます。そこには、孫悟空が地の果ての柱だと思って書いたサインがありました。孫悟空は、ずっとお釈迦様の掌の中にいたのであります。

聖書の神様も、まさにそれと同じように、私たちが地の果てと思っているところにもすでにおられて、私たちを待っておられるのです。私たちは、神様の大きなみ手の中で、冒険をすると言ってもよいでしょう。

ちなみに、この詩編139編はこう続きます。

「まことにあなたは私のはらわたを造り
母の胎内で私を編み上げた。
あなたに感謝します。
私は畏れ多いほどに
  驚くべきものに造り上げられた。
あなたの業は不思議。
私の魂はそれをよく知っている。」詩編139:13~14

このくだりはまだ続きますが、命の創造について述べています。命の創造は神様の全能の一端を示すものでしょう。人間はさまざまなことができるようになりました。聖書の時代から、これまで2000年の間に、さまざまなことができるようになりました。しかし、命の創造は神の最も深い、そして人間にはできない業でありましょう。クローン技術はできましたが、そおれは命の創造とは言えないでしょう。

神はそのような全知全能遍在のお方であるからこそ、私たちはその神に守られている。守られている。逃れることはできないけれども、どこへ行っても守られているということができるでしょう。

ヨナもこの時、神の御手から放り出されたように見えますが、この続きの2章を見てみると、そうでなかったことが分かります。

(7)自然を支配する神、またキリスト

さて、ここから心に留めたい二つ目は、神は自然をも支配され、司られる方だということです。この時も、船乗りたちがヨナを海の中に放り投げると、嵐はやみました。この情景から、思い起こす新約聖書の物語は、先ほどお読みいただいた、ガリラヤ湖の嵐の中のエピソードです。「突風を静める」という題が付けられています。ガリラヤ湖の天気は変わりやすいと聞きます。この時、弟子たちとイエス・キリストは船に乗って、ガリラヤ湖の向こう岸へ渡ろうとしていました。ところが突然、激しい突風が起こり、船が水浸しになりました。ところが、イエス様はすやすやと眠っておられるではありませんか。弟子たちは、イエス・キリストを起こして、訴えかけました。

「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか。」マルコ4:38

すると、イエス・キリストは起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」とおっしゃった。そうすると、風はやみ、すっかり凪になりました。そして弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」と言われました。弟子たちは恐れて、互いにこう言いました。

「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」マルコ4:41

これはイエス・キリストが神の権能を授かり、神の力を宿した方であることを告げています。私たちからすれば、このお方が私たちと共にいてくださると約束されているのです。

(8)ヨナはイエス・キリストの受難のひな型

最後に三つ目ですが、この時にヨナは、イエス・キリストの受難のひな型になっているということです。ヨナは、この時、神様の命令から逃げようとしたから、嵐が起きて、その結果、嵐の水の中に放り込まれたわけですが、罪の結果の罰を受けているとまでは言えないようです。事実、船乗りたちは、「無実の者を殺すという血の責めを我々に負わせないでください」と言っています。また「この男の命のために、我々を滅ぼさないでください」と、主に向かって叫んでいます。

つまり、この時ヨナは、船員たちの身代わりの犠牲(スケープゴート)になったということです。これはやがてイエス・キリストが担う犠牲を指し示していると言えるでありましょう。

そしてヨナは、魚に飲み込まれてしまうわけですが、それもまたイエス・キリストの出来事のひな形、プロトタイプになるわけですが、そのことはまた次回にお話したいと思います。

関連記事