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2024年9月15日説教「私は良い羊飼い」松本敏之牧師

イザヤ書40章9~11節
ヨハネによる福音書10章14~18節

(1)高齢者祝福礼拝

明日は敬老の日であり、それにちなんで本日は「高齢者祝福礼拝」としてこの礼拝を守っています。

聖書の中には、高齢者に対して敬意を払いなさい」という趣旨の言葉が幾つも出てきます。たとえば、レビ記19章32節には、こういう言葉があります。

「白髪の人の前では起立し、年配者を重んじなさい。あなたの神を畏れなさい。」レビ記19:32

私も、いつのまにか髪の毛が真っ白になってしまいました。昨年65歳になり、前期高齢者となりましたが、日本ではまだまだ高齢者とは言えません。私たちの教会も75歳以上の方を祝福するということにしています。65歳以上だと大半が祝われる側になってしまうでしょう。また神様の約束の言葉としては、イザヤ書46章に-こういう言葉があります。

「母の胎を出たときから私に担われている者たちよ
腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。
あなたがたが年老いるまで、私は神。
あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。」イザヤ書46:3~4

これを読むと、「神様、白髪になるまで、ですか。そこから先がまだ長いのですが」と茶々を入れたくなりますが、もちろん最期の日まで背負って、救い出してくださる、ということでしょう。そのようなことを心に留めながら、本日も礼拝をまもりたいと思います。

(2)私たちはすぐに囲いを作ってしまう

今日はヨハネ福音書の10章の言葉をお読みいただきました。本日の日本基督教団の聖書日課そのものではないのですが、その直前の箇所を選びました。ヨハネ福音書の10章は、羊と羊飼いのたとえの話をしています。その中で、イエス・キリストは「私は良い羊飼いである」と述べられました。11節にそれが出てくるのですが、今日読んでいただいた最初の14節も「私は良い羊飼いである」という言葉から始まっています。そして、その先でこう述べられるのです。

「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる。」ヨハネ10:16

「この囲い」とは、一体何でしょうか。この言葉には一体どういう意味があるのでしょうか。

私たちはすぐに囲いを作ってしまいます。そして囲いの中の仲間とそうでない人を区別します。そして区別だけではなく、往々にして差別します。この囲いは、さまざまな時と場所で、形を変えて存在します。イエス・キリストの時代もそうでした。イエス・キリストもそれを否定しません。むしろそれを前提としている。しかし同時にそれを乗り越えるような力も、イエス・キリストの中に存在し、その囲い、壁を突き破ろうとするのです。福音とは、そういうものです。イエス・キリストがここで語られたことは、考えれば考える程、深い意味と味わいのある言葉であるように思います。

(3)「イスラエルの民」という囲い

では、この囲いが何を意味していたか。また何を意味しているか。さらに何を意味するであろうかということまで、考えてみたいと思います。

まずは歴史を振り返ってみましょう。もともと、この言葉がユダヤ人のファリサイ派の人々に向かって語られたことを考えますと、第一義的には、この囲いの内と外というのは、イスラエルの民と異邦人という風に読むことができるでしょう。イエス・キリストは、イスラエルの歴史において、ダビデの子として待望されたメシア(救い主)でありました。そのことは、このヨハネ福音書よりもマタイ福音書において強調されています。最初から、「救い主イエス・キリストの系図」という長い系図があって、イエス・キリストがどういう系譜の中でお生まれになったのかが示されます。旧約聖書の引用もたくさんあります。

またマタイ福音書には、次のようなエピソードが記されています。ある異邦人の女性(カナンの女)がイエス・キリストの前に現れて、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」(マタイ15:22)と懇願しました。その時に、主イエスは、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、この女性の願いを退けられます。この言葉からすれば、イエス・キリストは、第一義的には、「イスラエルの家の失われた羊」のために来られたということになります。旧約聖書時代より待ち望まれてきたメシアが、ついにやって来られたということです。

しかしそのことは、不思議にそれを超えていくのです。このカナンの女の場合にもそうでした。イエス・キリストは「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」(同26節)と更に追い討ちをかけるような言葉を語られるのですが、それにもかかわらず、彼女は「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」(同27節)と食い下がりました。それに対して、イエス様はとうとうこう言うのです。

「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」同28節

そしてそのとき、彼女の娘の病気は癒されました。

イエス・キリストご自身が、自分を限定しようとしているにもかかわらず、同時にその囲いを越えていく力が働いているのです。イエス・キリストの愛は、限定することができない。限定しようと思っても、それを突き破っていく。その様子が、よく表れていると思います。イスラエルの民が囲いの中、異邦人が囲いの外。それが第一義的な意味であろうかと思います。

(4)「ユダヤ人クリスチャン」という囲い

二つ目に、この福音書が書かれた当時の時代状況を考えてみましょう。ヨハネ福音書記者がこの福音書を記した時(紀元90年代)には、すでにキリスト教会が生まれていました。しかし同じキリスト教会の中でも、ユダヤ人教会と異邦人教会がありました。最初のクリスチャンたちは、ユダヤ人でありました。ユダヤ教からキリスト教になった人たちです。ペトロを初め、イエス・キリストの直弟子たちはみんなユダヤ人たちです。彼らは選民意識ももっています。そこに異邦人クリスチャンが加わっていく。使徒言行録はそのあたりの事情を詳しく書いています。対立も書いています。結局、ペトロたち(主イエスの直弟子たち)はエルサレム教会の中心になっていき、パウロは異邦人伝道に携わるようになります。パウロのガラテヤの信徒への手紙などを読んでおりますと、「異邦人クリスチャンは割礼を受けなくてもよいのか」というようなことが細かく記されています。ユダヤ人クリスチャンたちは自分たちこそ囲いの中にいる羊と思っていたでしょうけれども、その囲いの外にも異邦人クリスチャンがいたのです。そういう視点で、この言葉を読むことができるでしょう。

(5)「キリスト教会」という囲い

さて、私たち自身はいかがでしょうか。私たちは私たちで囲いを主張し、閉鎖的になってはいないでしょうか。

イエス・キリストは、「私は門である。私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つける」(ヨハネ10:9)と言われます。あるいは「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と語られました。言い換えれば「イエス・キリストによらないでは誰も救いに入ることはできない」ということでしょう。この言葉は、一見、非常に閉鎖的な言葉であるように見えます。聞こえます。

そのことから、長い歴史の中で、教会も「教会の外に救いなし」ということを語ってきました。しかし私は果たして教会がそこまで言っていいものだろうかと思うのです。教会が語るべきことは、「ここにこそ救いがある」ということです。「イエス・キリストは、教会に天国への鍵が預けられた。ここに来たれ。」しかし神様は教会を超えたお方であります。神様の働きは、自由です。風のようにどこにでも働くことができる。神様が働こうとするならば、神様はどこでも働くことができる。その自由な、そして不思議な神様の働きを、教会が自分たちの専売特許であるかのように独占することはできません。神様の働きをそのように狭めてしまうことは、言い過ぎではないかと思うのです。

「誰もイエス・キリストによらないでは救いにいることはできない」。これは真理であろうと思います。しかしその言葉は、必ずしも「イエス・キリストを救い主と告白した人間だけが救われる」ということを言っているのではなく、もっと広いことを言っているのではないでしょうか。イエス・キリストは御心に適った人を誰でも救うことがおできになるでしょう。ですからこれは、誰かが救われるところでは、その人が気付かなくても、認めなくても、必ずイエス・キリストが働いておられるという恵みの事実を、あるいはそういう信仰を言い表した言葉であると思うのです。目に見えない形であるかも知れない。その人の意志を超えたところであるかもしれない。しかし、イエス・キリストがかかわって、私たちは救いに入れられるのだ。そういう深い真理を語っているのではないでしょうか。

そういう深いところでの神様の御旨、教会を超えてさえ、神様は自由にお働きになるということを、私たち、特にクリスチャンは、わきまえておく必要があるのではないでしょうか。

私たちは、神様の業、イエス・キリストの業というものを、とかく狭めて考えがちですが、神様の働きは私たちの想像をはるかに超えて進むものなのです。特に今日、民族間の対立、宗教間の対立、無理解、そういうことが世界中に渦巻いています。そうした中で、違った者がいかに共に生きていくか、いかに地球の将来を共に担っていくかということを考えるのは、緊急の課題、喫緊の課題です。「私にはこの囲いに入っていないほかの羊がいる」というイエス・キリストの言葉を、私たちクリスチャンは、自分自身を吟味する言葉として受けとめたいと思うのです。

ここに不思議な言葉が記されています。「その羊(囲いの外の羊)をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける」(16節)。囲いの外の羊もイエス・キリストの声を聞き分けるというのです。

これは、クリスチャンではない人も、イエス・キリストの声を聞いて、「彼は私の羊飼いだ」という認識にまではいたらなくても、「彼は正しいことを言っている」とわかるということではないでしょうか。私はそういうところに、この世界の将来を共に担っていく同志、仲間を見出すことができるのではないかと思います。

一つの例として、インドのマハトマ・ガンディーのことを思い起こすのです。彼は、ヒンドゥー教徒でありましたが、イエス・キリストの山上の説教から多くのことを学んでいました。それは「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)のような教えです。ガンディーはその言葉からインスピレーションを得て、インドで非暴力抵抗運動を実践していきました。彼はヒンドゥー教徒であったことからすれば、イエス・キリストの「囲いの外の羊」であったと言えるように思います。そしてこのヒンドゥー教徒のガンディーから、クリスチャンのマーティン・ルーサー・キング牧師が非暴力抵抗運動を学んで受け継いでいくのです。これは本当に不思議な神様の働きであると思います。「囲いの外の羊も、私の声を聞き分ける」という言葉からガンディーのことを思い起こすのです。

私たちは、「イスラームを信じる人たち。他の信仰に生きる人たち。そこにも真理がありうる」ということを見る視点が必要であろう。イエス・キリストのこの囲いの「内」と「外」というのは、そこまで見据えているのではないでしょうか。

(6)「鹿児島加治屋町教会」という囲い

さらにまた自分たちの教会、「鹿児島加治屋町教会」という小さな「囲い」についても、考えるべきでありましょう。それは囲いを取り外すということではありません。鹿児島加治屋町教会という枠がある。囲いがある。それはその通りです。そしてその囲いの中の羊は、鹿児島加治屋町教会の牧師である私の一番の責任範囲であります。誰かが鹿児島加治屋町教会の会員になるということは、その方が正式に「囲いの中の羊」として、私の牧会の責任対象になるということを意味しています。しかしそのことは、鹿児島加治屋町教会の外にも多くの羊がいるということを排除するものではありません。イエス・キリストの働きにかかわっていくことは、どうしてもそういう範囲を超えていくものです。神様は、そのような囲いを越えたところで、一人一人の牧師なり、クリスチャンなりを、自由に、大きな計画の中でお用いになるのであろうと思います。

「こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ヨハネ10:16

私たちの小さな視野ではなかなか理解できない神様の計画の中で、大きなことが実現していくのではないでしょうか。

(7)「人間」という囲い

さらに、この言葉は、もっと広げて考えると、もしかすると「神様が守られるのは、人間だけはない。他の動物たち、あるいは他の生物たちのことまで、ご自分の羊として配慮しておられる」ということまで言っているのかもしれません。最近のエコロジーの神学の視点から、この言葉をそのように読むことができるかもしれないと思います。人間だけのことを考えていていいのか。神様は、この地球に住む動物たちのこと、生物全体を配慮しておられるのではないか。私たちの想像をはるかに超えたところまで、神様の業は進展していくのです。

そして神様はそのためにイエス・キリストを遣わし、イエス・キリストはそのために命を捨ててまでかかわってくださった。まことの羊飼いであることを示された。私たちはそこにある恵み、だからこそ私にまで及んだのだという恵みを、独占しないで、深く感謝して受け取りたい。そしてその業に連なっていく者となりたいと思います。

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