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2024年6月23日説教「聞いて信じる」松本敏之牧師

ヨナ書3章1~10節
ヨハネ福音書4章43~54節

(1)預言者は故郷では敬われない

先ほど読んでいただいたヨハネ福音書4章43節から54節までは、来週の日本基督教団の聖書日課です。来週は、出エジプト記で説教することにしていますので、1週間早く、この箇所を読むことにしました。ヨハネ福音書4章の前半は、先週、福岡城東橋教会の矢崎牧師が扱ってくださった、いわゆるサマリアの女の物語でした。イエス・キリストがサマリア地方で一人の女性に出会い、その出会いをきっかけにしてサマリア地方にキリストの福音が広まったという物語です。今日の話はその続きです。イエス・キリストは、その後、本来の目的地であるガリラヤへ行かれます。

「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスご自身は、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』と証言されたことがある。」4:43~44

「預言者は自分の故郷では敬われない。」これは一般に語られていた一種のことわざ、言い回しのようなものです。故郷では、人はどういう家柄の人であるか、小さい頃はどういう風であったか、すべて知られている。そのことがかえって、その人の真価を見抜く妨げになるということでしょう。イエス・キリストの場合もそうであった、ということが、他の福音書にはっきりと示されています。

たとえば、マルコ福音書には、こう記されています。

「イエスはそこを去って、故郷にお帰りになった。弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。この人の授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか。』こうして、人々はイエスにつまずいた。イエスは彼らに言われた。『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚、家族の間だけである。』」マルコ6:1~4

(2)奇跡を見ていたので、歓迎した

ところが、ヨハネ福音書は、他の福音書と同じように「預言者は故郷では敬われない」という言葉を引用しながら、次のように続けるのです。

「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。」ヨハネ4:45

これは一見、その前の言葉とも、他の福音書が述べていることとも矛盾するように思えます。しかし実際には、同じことを指し示しているのだと思います。

ガリラヤの人々の歓迎は、全く表面的なものでありました。2章23節に、「過越祭の間、イエスがエルサレムにおられたとき、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」と書いてありました。ガリラヤの人々は、実はエルサレムでそのしるしを見ており、イエス・キリストに、ぜひそのような奇跡を、自分たちの故郷でもやって欲しいという期待を込めて、大歓迎したのです(45節)。ですからイエス・キリストご自身は、それだけ歓迎されても決して有頂天にはならないし、かえって彼らの歓迎を冷ややかに見られたのです。

(3)イエスの奇跡は愛のあらわれ

イエス・キリストのなさった奇跡というものを改めて思い起こしてみますと、イエス・キリストは誰か人を引きつけるために、あるいは人に自分の力を見せつけるために、奇跡をなさったことはありません。主イエスの奇跡は、いつも何かしら〈愛〉ということと関係があります。愛と関係のない奇跡は、なさっていないのです。一見何の関係もなさそうに見える、「湖の上を歩かれた」(マタイ14:25)という奇跡でさえも、逆風に悩まされていた弟子たちを励ますためでありました。愛が自然の法則をもうち破ってあらわれたものが、主イエスの奇跡でありました。

例えば、荒れ野の誘惑の場面で、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言うのですが、主イエスはその言葉を退けられます(マタイ4:3~4)。愛と関係がないからです。また悪魔が、イエス・キリストを神殿の屋上に連れていって、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じると、

彼らはあなたを両手で支え、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」と言われ、飛び降りられません(マタイ4:5~7)。愛と関係がないからです。

あるいは、イエス様が十字架にかかられた時に、下から「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」とあざけられます(マタイ27:40~44)。しかし降りないのです。降りようと思えばきっと降りてみせることはできたでしょうが、降りないのです。降りることは、愛と関係がないからです。むしろ十字架に留まり続けることこそ、主イエスの愛の姿でありました。

ですからイエス・キリストは、例えばいやしの奇跡をなさいましたが、それを決して人に見せびらかせるためになさったのではないということを、よくわきまえておく必要があるでしょう。ブラジルに私がおりました時に、いやしを強調するキリスト教というのがありました。テレビの宗教番組で、舞台に歩けない人が連れてこられて、「イエス・キリストの名によって歩け」と、伝道者が言うと、その人がさっと立ち上がって歩くのです。どうもあやしい。

私は、イエス様であれば、いやしをなさることもできたであろうと信じますし、今日でも神様の力が誰かに宿る時に、そういうことはありうると思います。しかしそれによって伝道するというのはどうかなと思います。それはイエス様の取られた道ではありませんでした。イエス様は奇跡をなさった後、しばしば、「このことを誰にも話さないように気をつけなさい」と言われたりしています(マタイ8:4等)。五つのパンと二匹の魚で五千人の人々が満腹し、みんなの興奮が最高潮に達しているところで、「さあ今こそ神のもとへ立ち帰りなさい」と伝道したりはしない。むしろ人を避けて退いて行かれたりしました(マタイ8:18、マタイ14:22等)。奇跡というものは何かしら魔力のようなものを持っている、その力が誤った方向に発展していく危険性があるということ、よくご存じであったからだと思います。

(4)見て信じるか、聞いて信じるか

このところのガリラヤの人々も、いわばしるしを求めて、イエス・キリストを歓迎しているのです。そうしたことを知っておられるので、彼らの歓迎を否定するような発言までなさったのです。

「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」ヨハネ4:48

このガリラヤの人たちの反応は、この直前のサマリアにおけるサマリアの人たちの反応と、とても対比的です。ヨハネ4章39節には、こう記されていました。

「さて、その町の多くのサマリア人は、……女の言葉によって、イエスを信じた」。そして41節、「さらに多くの人が、イエスの言葉を聞いて信じた」。さらに42節には、「私たちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と記されています。これは、聞いて信じる信仰です。

サマリア人というのは、ユダヤ人から見れば、信仰の本家本元ではなく、亜流です。ユダヤ人たちは自分たちこそ、信仰の本家本元だと思っている。ところがその本家本元のはずのユダヤ人が、エルサレムにしろ、ガリラヤにしろ、奇跡を見て信じる信仰にとどまっているのに対して、亜流のはずのサマリア人は、聞いて信じる信仰をしっかりともっていた、という対比がここにあるのです。いわゆる信仰というものには、見て信じる信仰と、聞いて信じる信仰がある。しかし見て信じる信仰というのは、信仰と言っても本当の信仰とは言えないということが、このところに含まれているメッセージです。

ヨハネ福音書の20章に、復活のイエス・キリストが弟子たちに現れるという話があります。ただし最初の時は、弟子の一人トマスが不在でありました。彼は、いくら他の弟子たちの証言を聞いても、「私はイエス様の手に釘跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と言い張りました。

すると主イエスは、トマスのために、トマスのためだけに、もう一度現れてくださるのです。そしてこう言われました。

「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者にではなく、信じる者になりなさい。」ヨハネ20:27

彼は、そこで主イエスの御心を知り、「私の主、私の神よ」(ヨハネ20:28)という信仰告白をいたします。主イエスは、そこで有名な言葉を語られました。

「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」ヨハネ20:29

(5)奇跡を願う信仰

さて前置きのような話が長くなりましたが、すでに本題に入っています。今日の物語を見ていきましょう。このところでもやはり見て信じる信仰から、言葉を聞いて信じる信仰へ、ということが主題になっています。舞台は、ガリラヤのカナです。そこはイエス・キリストが最初のしるし、水をぶどう酒に変える奇跡を行われたところでした。イエス・キリストがそこに滞在しておられた時、カファルナウムという別の町から、イエス・キリストがカナに来ておられるということを伝え聞いて、一人の王の役人がわざわざ訪ねてきました。カファルナウムからカナまでは直線距離で約30キロです。その道のりを越えて、イエス・キリストに会いにやってきたのです。彼の息子が、死にかけるほどの病気であったからです。「どうぞカファルナウムまで下ってきて、息子をいやしてください。息子が死にかかっているのです」と訴えました。主イエスは、それを聞いて「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)と、冷たい反応をされました。しかし彼はあきらめません。「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と、しつこく食い下がります。一言、冷たい言葉をかけられたからと言って、「はい、そうですか」と退くわけにはいかない。あるいはここで切れてしまって、「私を一体誰だと思っているのだ。王の役人だぞ。そんな口のきき方があるか」と言ってもだめでしょうし、「無理矢理にでもひっぱってやる」と言うわけにもいかない。とにかく「お願いします。あなただけが頼りです」と頼み込むのです。そこで主イエスの方が、その熱意に負けたのでしょうか。あるいはこの王の役人の中に、何かしら、他のユダヤ人とは違う信仰のかけらを見て取られたのでしょうか。次のような言葉をかけられるのです。

「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」ヨハネ4:50

(6)見ないで信じる信仰

この言葉は、この王の役人を戸惑わせたことであろうと思います。彼が願ったことは、イエス・キリストを連れて帰って、いやしていただくことでした。そのことは拒否されたのです。しかし全く拒否されたのではなくて、「あなたの息子は生きている」と宣言をされた。つまり彼はこの時、イエス・キリストの救いの宣言だけを聞いて、その言葉を信じるかどうかが問われたのです。彼は、「いや、あなたをお連れするまでは信用するわけにはいきません」と言うことができたかもしれませんし、「ちょっとお待ちください。遣いの者をよこして、本当に治ったかどうか確かめさせますから」と言うこともできたかも知れません。しかし彼は、この時「見ないで信じる信仰」へと促されていきました。彼は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)と記されています。

ヘブライ人への手紙11章1節に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(新共同訳)とあります。彼はこの時、まさに「望んでいる事柄を確信し」、まだ見ていない「事実を確認し」て、帰って行ったのです。そして帰って行く途中で、息子の病気がよくなったことを知らされました。そしてその時刻を尋ねますと、イエス・キリストが「あなたの息子は生きている」と宣言されたのと同じ時刻でありました。

ここで大事なことは、彼はしるしを見て信じたのではなくて、見ないまま、言葉を聞いて信じた、その結果として、しるしが与えられたということです。あのカナの婚礼の時もそうでありました。マリアは、主イエスがまだ何もなされていない時に、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(ヨハネ2:5)と言いました。見ないまま信じたのです。その結果として、水がぶどう酒に変えられるというしるしが与えられたのでした。

確かにしるしと信仰というのはそういう関係にあるのでしょう。信仰をもって見て、はじめてしるしは意味を持ってくるのです。もしも信仰をもってでなければ、しるしをしるしとして見抜くことすらできないかも知れません。この王の役人も、これを単なる偶然と呼ぶこともできたわけですが、彼は見ないで信じた結果、それをしるしとして見ることができたのだと思います。

この王の役人の息子は、その時は元気になりましたが、当然いつかは寿命が尽きて死んでいったことでしょう。恐らくその前に、この王の役人も死んでいったことでしょう。そのことからすれば、この時のいやしというのは、一時的なものであった、と言えます。いやしとは、多かれ少なかれ、そういうものです。いずれは誰もが死ぬのです。ですから最も大事なことは、そのような奇跡、しるし、いやしそのものではないと言わなければなりません。イエス・キリストが、この時「あなたの息子は生きている」と宣言なさった。その宣言を、彼は受けとめて帰った。この言葉こそ、息子の肉体的な命を超えたところで、真実なものとして残るものではないでしょうか。私たちがイエス・キリストの言葉を聞いて信じるという時には、やはりそのレベルでこそ深い意味を持ってくるのだろうと思います。

「そして、彼もその家族もこぞって信じた」(ヨハネ4:53)と記されています。むしろ結果として家族全体に信仰の輪が広がったことの方が、実は深い意味をもつのではないでしょうか。

(7)ニネベの町の奇跡

今日は、もうひとつ、ヨナ書3章を読んでいただきました。ヨナは神様に遣わされてニネベの町へ神様の言葉を伝えに行きます。そこへ行くまでにも大きなドラマがあるのですが、とにかく今は、ニネベへ行き、「あなたたちはこんなことをしていたら、滅びるぞ」と預言をいたします。実は語っているヨナ自身が、ニネベの人々がそれによって悔い改めるとは、本気で信じていませんでした。ところが不思議なことに、そのヨナの言葉を聞いて、ニネベの町に奇跡が起こりました。王様だけではなく、町中のすべての人が悔い改めるのです。それはヨハネ福音書の方で王の役人が信じただけではなく、彼の家族全員が信じたということに通じます。そしてその結果として(ヨナ書のほうですが)、神様がニネベを滅ぼすのをおやめになったことが記されています(ヨナ3:10)。

しるしに頼るのではなく、神の言葉を聞いて信じる信仰、そしてそこに示される神様の真実に、改めて心を留めたいと思います。

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