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2024年5月19日説教「神の霊が共にいる」松本敏之牧師

エゼキエル書37章1~6節
ヨハネによる福音書14章15~27節

(1)ペンテコステ

本日は、教会のカレンダーでは、ペンテコステという祝日です。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教3大祝日のひとつですが、クリスマス、イースターほど有名ではないかもしれません。特に、日本の社会では一般的にはあまり知られてはいないでしょう。ペンテコステ、日本語では聖霊降臨日、あるいは聖霊降臨祭と言います。イースターから50日目の日曜日、聖霊が降って、そこから教会が始まっていったということで、教会の誕生日とも言えます。

先ほど読んでいただいたヨハネ福音書14章15~27節は、本日の日本基督教団の聖書日課です。この箇所は、聖霊とは何か、あるいは聖霊とは誰か、ということについて、イエス・キリストが語られた言葉ですので、ペンテコステにふさわしい箇所と言えるでしょう。

ヨハネ福音書は、全体を二つに分けることができますが、12章までが前半、13章から終わりの21章までが後半となります。ただし後半と言っても、13章以下は、イエス・キリストの受難と復活の部分であり、わずか数日のことです。13章は、イエス・キリストと弟子たちの最後の夜の出来事、「洗足」の記事から始まります。そしてその直後に、イエス・キリストが弟子たちに向かって、「別れの説教」をされるという設定です。実際には、さまざまなところで語られた言葉が、ここにまとめられたのであろうと思いますが、それは13章31節から16章の終わりまで3章以上にまたがっています。この14章の言葉も、そのイエス・キリストの別れの説教の一部であり、いわば遺言のような言葉です。自分は去っていくけれども、悲しむ必要はない。私の代わりにもうひとりの弁護者が遣わされるというのです。それが聖霊です。

(2)ペンテコステがクリスマス・イースターと私たちを結びつける

「私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」14:16

これはペンテコステを預言するような言葉です。この言葉にはどういう意味があるのでしょうか。

イエス・キリストという方は、「インマヌエル」すなわち「神が私たちと共におられる」(マタイ1:23)という神様の約束が見える形で実現したお方でした。「インマヌエル」(神が私たちと共におられる)。神様は見えない方ですので、見える形、人の形をとって、この世界に来られることによって、「私たちと共におられる」ということを具体的に示されたのでした。それがクリスマスの出来事です。

それは、永遠に存在するお方が、あえて、ある時間の中に入ってこられた、私たちの歴史の中に入って来られたということを意味しています。あるいは場所に限定されないお方が、ある場所の中に入ってこられたということを意味しています。これはとても大きな福音でありますが、ある時間に、ある空間に入って来られたということですから、逆に言えば、ある時間、ある空間に、限定されてしまったとも言えます。2000年前のユダヤ・パレスチナ地方の一角における出来事に過ぎないということになっていたでしょう。

ですから、それだけでは私たちの時間と空間(21世紀の日本)とは関係がないでしょう。その2000年前にユダヤ・パレスチナ地方で起きた出来事が単に遠い昔の遠い国の話ではなくて、今の私に、あるいは今の私たちに深い関係があるのだということ、それを告げるのがペンテコステです。

「神が私たちと共におられる。」2000年前のあの出来事は今もなお有効である。そして今もなお、生きて私、私たちに働いておられる神こそ、聖霊なる神と言ってもよいでしょう。

ですから、極端に言えば、ペンテコステがなければ、クリスマスもイースターも、私とは関係がない、私たちとは関係がないということになってしまいます。ペンテコステこそが、クリスマスとイースターを私、そして私たちに関係あるものにしているのです。

使徒言行録によりますと、イエス・キリストは、復活の後、40日間、復活の体をもってこの地上に留まられましたが、その後天に昇られました。「昇天」と言うのは、イエス・キリストが地上から離れて行かれた出来事ですから、それだけでは寂しいことのように思えます。しかし昇天があったからこそ、イエス・キリストはあの時の時間と場所に限定されることなく、私たちと共にいてくださることが可能になったということができるでありましょう。

(3)みなしごにはしない

こう続きます。

「この方は真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。」14:17

今、霊が働いているということを、この世の次元で見るならば、誰も認めようとはしない。受け入れようとしない。ところが、信仰を持つ者は違うと言います。

信仰を持っていても「聖霊はよくわからない」という方が時々ありますが、イエス・キリストを信じることができるということは、実は聖霊の働きを認めているということに他なりません。そうでなければ、2000年前の遠い国のイエス様を、自分の救い主として告白することはできないでしょう。「イエス様、助けてください」と祈るということは、実は聖霊の働きを認めているということなのです。あの2000年前に、遠い国で活動されたイエス・キリストが、今の私に関係があると信じることができるということは、自分で知らずして聖霊を受け入れていることなのです。

「この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」14:17

今も、そして永遠に変わることのないお方が、私たちの「もとに」、そして私たちの「内に」いてくださる。この二重の表現も意味深いものではないでしょうか。そばにいて、そして同時に内側から支えてくださるお方です。

「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」14:18~19

力強い言葉です。

(4)聖霊の二つの働き

先ほどお読みした聖霊についての後半は、こういうふうに始まります。

「私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」25~26節

このところに聖霊は一体どういう方であるかが、よりはっきりと示されています。二つの点に注意してみましょう。

一つは、「私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ということ、もう一つは、「あなたがたにすべてのことを教える」ということです。イエス・キリストは、「私の名によって遣わされる聖霊」と言われました。聖霊はイエス・キリストの代わりに、イエス・キリストの名によって働かれるのです。

聖霊に満たされて何かをする、聖霊に満たされて何かを語るということ、それはどんなに新しいことを語ろうとも、これまで誰もしなかったようなことをしようとも、それは必ずイエス・キリストの言葉につながっています。イエス・キリストの言葉に根拠がある。イエス・キリストの言葉に根をはっている。「そう言えば、イエス様も、こうおっしゃっていたなあ」と思い起こすことができる。そこから離れてしまうならば、どんなに熱くなって語ろうとも、キリストの聖霊によるものとは言えないでしょう。そしてもはやそれはキリスト教の信仰とは言えません。糸の切れた凧のように、どこかへ飛んでいってしまうでしょう。

もう一つは、「(新しく)すべてのことを教えてくれる」ということです。聖霊は、今私に働きかけて、その都度その都度、今何をなすべきかを教えてくれる。いつも新しい教えとして、聖書の言葉が迫ってくる。そうでなければ、イエス・キリストの言葉、イエス・キリストの業は過去のものになってしまうでしょう。「いつも新しい」ということと「必ずキリストの言葉にさかのぼることができる」ということ。この一見反対の二つが結びついていることが大事です。信仰者は、この二つのことの緊張関係の中にあるのです。それがイエス・キリストの霊に導かれるということです。そして、こう語られます。

「心を騒がせるな。おびえるな。『私は去っていくが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのを、あなたがたは聞いた。私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父は私よりも偉大な方だからである。」14:27~28

弟子たちにしてみれば、イエス・キリストとの別れを喜ぶなどということは考えられないことであったでしょうが、イエス・キリストの「どうかそのことに心を合わせて欲しい」という思いが伝わってくるような気がします。

(5)世が与える平和

イエス・キリストは、次にこう言われました。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」14:27

キリストが与える平和は、この世が与える平和とは、違うというのです。一体どこが違うのでしょうか。イエス・キリストのもたらす平和は、単に表面的に争いのない状態ではありません。表面的に争いはなかったとしても、本当の平和ではない状態というのがあると思います。私は、二つの「平和もどき」が考えられるのではないかと思います。

私たちは、あまり事を荒立てることを好みません。日本人は特にそうでしょう。ある集団の中で、ちょっと違った意見を言うと嫌われます。本当は和解していないのだけれども、現状維持を望むのです。安易な和合です。こういう状況は一見平和に見えます。穏やかです。しかし問題は何も解決せずに、先送りにしているだけです。

確かに暴力をふるって、事を解決しようとする野蛮な考えよりはずっとましであるかも知れませんが、よく考えてみると根は同じではないかという気がいたします。

そしてそのように事を荒立てないことを好む人は、往々にして、自分自身は損をしない立場にいながら、犠牲になっている人に向かって、妥協を呼びかけることが多いのではないでしょうか。

もう一つの「平和もどき」は、力による平和です。力と抑圧によって相手を封じ込めて「平和」を実現しようとするのです。

古代ローマ帝国の時代に、パックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれる比較的穏やかな時代がありました。それはローマ帝国が圧倒的に強い軍事力をもっていたので、周辺諸国が刃向かわなかったのでした。しかしその状況をよく見てみると、特権階級のもとに、その犠牲になって働く人が大勢いて、社会が成り立っています。その仕組みをくつがえさないように、武力で押さえつけているのです。弱い立場の人に我慢を要求し、「平和」の名のもとに人権を侵害し、自由を奪っている。これも真の平和であるとは言えません。

(6)ボンヘッファーのファネー講演

このことについて思う時に、私はディートリッヒ・ボンヘッファーが、すでに1934年に、ある講演で言っていることを興味深く思い起こすのです。「ファネー講演」と呼ばれるものです。

「いかにして平和はなるのか。平和の保証という目的のために、各方面で平和的な再軍備をすることによってであるか。違う。……その理由の一つは、これらすべてを通して、平和と安全とが混同され、取り違えられているからだ。安全の道を通って〈平和〉に至る道は存在しない。なぜなら、平和はあえてなされなければならないことであり、それは一つの偉大な冒険であるからだ。それは決して安全保障の道ではない。平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、『相手に対する不信感』をもっているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争を引き起こすのである」。

1934年と言えば、ヒトラーが台頭してきた時でした。ボンヘッファーはまさにその時に、この講演をしたのでした。

(7)ご自身の犠牲に基づく平和

それでは、イエス・キリストは一体どういう平和をお与えになるのでしょうか。有名なエフェソの信徒への手紙2章の言葉を心に留めたいと思います。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊……されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らされました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」エフェソ2:14~17

「両方の者」という時、パウロは二つの違った立場があることを認めています。このキリストによって、両方の者が、キリストの犠牲の上で、一つの霊に結ばれるのです。「キリストが与える平和」とは、誰か自分以外の人に犠牲を強いるのではなくて、むしろイエス・キリストが自分の体を裂かれたことの上に、つまり十字架の上に成り立つ平和でありましょう。今は、世界中で戦争が起こっていますが、ペンテコステの日に、私たちも改めて、世界中の人たちが心を通わせて一つとなることができるように祈りたいと思います。またイエス・キリストがお与えくださる平和こそが実現しますように、と祈りたいと思います。

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