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2024年4月7日説教「再 考」松本敏之牧師

出エジプト記32章1~14節 ルカによる福音書23章34節

(1)偶像を求める心

本日の説教題を、「挫折」と予告していましたが、「再考」(再び考える)と変更させてください。また先ほどは、出エジプト記32章14節までお読みいただきましたが、32省全体を取り扱います。

さて出エジプト記の25章から31章には、幕屋建設の細かい指示が記されていました。モーセは、これらの指示を山の上で聞いたということになっています。24章の終わりには、こう記されていました。

「モーセは雲の中に入り、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。」24:18

しかしその四十日四十夜の間に、山の下は大変なことになっていました。イスラエルの民は、モーセがなかなか下りて来ないので、アロンのもとへ来て、こう願いました。

「さあ、私たちに先立って進む神々を私たちのために造ってください。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか分からないからです。」32:1

四十日四十夜、何の音沙汰もない。人間誰しも、待たされ過ぎると、不安になるものです。そして目に見える、安易なものに頼ろうといたします。この世の力、この世の保障に頼ろうといたします。実は、それこそが偶像崇拝なのです。私たちは不安にかられて、神のみに頼ることをやめ、そこで別の力に頼って、自分を守ろうとしたり、教会を守ろうとしたりする。その時、実は知らずして偶像崇拝を始めているのです。そこでは、神の約束という目に見えないものは、何の力もないように思えてしまう。いやそんなことを考えることすらやめてしまう。祈ることをやめてしまうのです。

ヘブライ人への手紙にこういう言葉があります。

「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」ヘブライ10:36

私たちは、そこで忍耐ができなくなって、神の約束を信じきれなくなって、手近にあるもので行動を起こそうとする。

不思議なことに、モーセの兄弟であるアロンは、この不信仰な民の願い通りに行動いたします。アロンは、この時、彼らを説得できなかったのでしょうか。彼らを抑え切れなかったのでしょうか。それとも彼自身も、モーセの代わりにこの民を治めなければならないという重圧の中で、不安にかられてしまったのでしょうか。アロンは彼らにこう言いました。

「あなたがたの妻、息子、娘の金の耳輪を外し、私のところに持って来なさい。」32:2

彼らは、喜んでこのアロンの要請に応じます。アロンは、のみで型を彫り、その中に金を流し込んで子牛の鋳像を造りました。イスラエルの民は、歓喜いたします。

「イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ。」32:4

もうこの興奮を誰も止めることはできませんし、止めようとする人もいません。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築きました。ちょうどその頃、モーセは山の上で、神の幕屋と、その幕屋の中に、真の祭壇を造る指示を受けていました。何というコントラストでしょうか。

アロンは、次の朝早く起き、焼き尽くすいけにえをささげ、会食のいけにえを献げました。モーセは、その頃、山の上で、焼き尽くすいけにえの祭壇とそのすべての祭具の製作について、念入りな指示を受けていました。何というコントラストでしょうか。民は、座っては食べて飲み、立っては戯れました。そこには、神の前に静まって、神の声を聞く姿はありません。祈りはありません。自分たちが安心し、自分たちが喜び、楽しむために、やっていることなのです。神様を拝むという形を取って、自分たちに都合のいい神を作り上げる。それで安心する。ここで行われていることは、確かに宗教行事そのものです。私たちは、宗教そのものが不従順の手段になりうるということを、深く心に留めておかなければならないでしょう。

教会も同じ過ちを犯すものです。いや、私たちがしている行為の多くは、実は知らずして、神を作り上げていく行為であるかもしれません。そこでは、教会が教会であり続けることは、ほとんど奇跡のような事柄です。神様のたえざる赦しと、それに立ち返っていく不断の悔い改めによってのみ、教会は教会であり続けることができるのだと思います。

(2)神とモーセの真剣な問答

7節から場面は山の上に変わります。いわば、第二幕です。主なる神は、モーセに言われました。

「急いで下りなさい。あなたがエジプトの地から導き上った民は堕落してしまった。彼らは早くも私の命じた道からそれて、子牛の鋳造を造り、これにひれ伏し、いけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたの神だ。これがあなたをエジプトの地から導き上ったのだ』と叫んでいる。」32:7~8

そしてこう続けられます。

「私はこの民を見た。なんとかたくなな民だろう。私を止めてはならない。私の怒りは彼らに対して燃え、彼らを滅ぼし尽くす。しかし、私あなたを大いなる国民とする。」32:9~10

神様は、イスラエルの民を滅ぼすことにしたとおっしゃる。「モーセよ、あなたを用いて、最初からやり直したい。」しかしそう言いながら、何かモーセに相談をしているように聞こえます。それに対し、なんとモーセのほうが神様を説得して、それを思いとどまらせようとするのです。フレットハイムという注解者は、ここでのモーセの議論は、三重の構造をもっていると指摘します。第一は、神の道理に訴えるというものです。

「主よ、なぜあなたの怒りがご自分の民に燃えるのですか。大いなる力と強い手によってあなたがエジプトの地から導き出された民ではありませんか。」

神様はこの民を救出したばかりです。こんなにも早く行動を翻すのは果たして賢明でしょうか。神様が決断なさる時には、必ず道理や論理を尊重し、もっと慎重であるべきではないでしょうかというのです。

第二は、神の名声に対する訴えです。

「どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを導き出し、山の上で彼らを殺し、地の面から滅ぼし尽くした』と言わせてよいでしょうか。」32:12~13

つまり、ここでイスラエルの民を滅ぼしてしまうと、エジプト人やその他人々があなたをあざ笑うことになりますよ、ということです。「やっぱりね」と言われることになりますよ。

「燃える怒りを収め、ご自分の民に下す災いを思い直してください。」32:12

そして第三は(最後は)、約束の想起です。モーセは、神様に神様ご自身がなしてくださった約束を思い起こさせようとします。

「あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください(イスラエルとはヤコブのことです)。あなたは彼らに自ら誓い、『私はあなたがたの子孫を増やして空の星のようにする。また、私が約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、とこしえにそれを受け継がせる』と告げられました。」32:13

神様に再考を促す言葉を述べるとは、何と大胆な行為でしょう。ただし、モーセはここでイスラエルの民を擁護しようとはしていません。「彼らがそういう気持ちになったしまったのも無理はありません」とか、「彼らにもよいところはあります」というようなことは一切言わないのです。そうではなく、ひたすら神様の側のことで説得しようとする。ここで、モーセは神とイスラエルの民の間に立ち、民の側の代表として、神に向き合っています。一歩も引こうとしない。すごい迫力を感じます。

神様は、モーセの言葉を受け入れて、ご自分が下す、と告げられた災いを思い直されました。これも不思議なことです。これは決してモーセが神様に勝ったということではないでしょう。神様は何か、大きな決断をしようとする時に、ひとりでしようとはせず、モーセを対話の相手として選び、モーセとの関係を真剣に考えておられるということでしょう。それによって、モーセのその後の行動にも責任が伴ってきます。「神様が決断されたことを、自分はただ伝えただけだ」ということができなくなります。モーセは神様の決断に参与したということになります。ここで第二幕が終わります。

(3)モーセ、山を下る

そして第三幕。モーセは、身を翻して、山を下りて行きます。手には、二枚の掟の板を持っていました。その板には、文字が刻まれていました。十戒の言葉です。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていたということです。その板は神の作、文字は神の文字で板に彫られていた、とまで言います(32:16)。

これまでのところでは、モーセは、民の代表として神に向き合っていましたが、ここでは、神の代弁者として民に向き合っています。これまでは祭司として神と民の間に立っていましたが、ここでは預言者として神と民の間に立っていると言ってもいいでしょう。

そして彼らが造った子牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上に撒き散らし、イスラエルの人々に飲ませた、とあります。非常に激しい情景です。そして兄弟アロンに詰めよります。

「この民が一体あなたに何をしたのか。これほど大きな罪を彼らに犯させるとは。」32:21

アロンはこう応えます。

「わが主人よ、どうか怒りを燃やさないでください。この民が悪意に満ちていることは、あなたがご存知です。彼らは私に、『私たちに先立って進む神を造ってほしい。私たちをエジプトの地から導き上った人、あのモーセがどうなったのか分からないからだ』と言いました。」32:21

いかがでしょうか。アロンもここで、イスラエルの民のために、とりなしをしているように見えます。しかしアロンの言葉には、モーセのとりなしのような、自分の命をはる迫力がありません。むしろ嘘をついて言い訳をしながら、自己正当化しようとするのです。

4節では、「彼(アロン)は、……子牛の鋳造を造った」と記されていましたが、ここではあたかもそれが勝手にできたかのように、こう言うのです。

「私が彼らに、『金を身に着けている者は、外しなさい』と言うと、彼らは私に渡しました。それを火に投げ入れたら、この子牛が出て来たのです。」32:24

そのように言い訳をするアロンは、とりなしをしているように見せて、自分を守ろうとする宗教者の姿そのものです。あるいは自己正当化するリーダーの姿がここにあります。

(4)厳しい裁き

その後、モーセは、この偶像製作と偶像崇拝に加担した者に悔い改めを呼びかけます。するとそこには、レビの子らが集まりました。モーセは、このレビの子らを用いて、悔い改めない者全部を殺してしまうように、命じるのです(32:27~28)。

このことについては、正直、とても戸惑いを覚えます。旧約聖書には、他にもそういうことがたくさん出てくるのですが、このテキストに関して、幾つかのことを確認しておきたいと思います。一つは、モーセが「主に付かなかった者を、全員殺せ」と命令したことは、決して神様の命令に基づくものではなかったということです。それ以前のところを読んでも、神様はそういうことを一言もおっしゃっていません。むしろモーセが神様の気持ちをなだめようとして、モーセ自身が判断して命令したことのように思います。

もっとも、神様はここで、モーセを止めてはおられませんので、神様もそれに同意しているということになるかもしれませんが、ここには宗教者の、神様の意志を飛び越えた熱心さというか、あせりというか、そういうものを感じます。そういうことは、その後の歴史においても、しばしば起こって来たのではないでしょうか。神様の裁きという体裁を取りながら、神の名を借りた宗教上の裁き、魔女裁判のようなことです。

もうひとつ、これはレビ人がここで重要な役割を果たしたということを書き記そうとした後代の付加である、という見解もあることを付け加えておきたいと思います。いずれにしろ、こういうことは現代では絶対にあってはならないことで、私たちはこの皆殺しの部分を批判的に読む必要があるでしょう。

(5)命をかけて、とりなすモーセ

第四幕。翌日、モーセはこう言いました。

「あなたがたは、大きな罪を犯した。今私は、主のもとに登って行く。もしかすると、私はあなたがたの罪のために贖いをすることができるかもしれない。」32:30

そしてモーセは山の上で、ただひとり神に向かって祈るのです。

「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分のために金の神々を造ったのです。今もしも彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。」32:31~32

ここで、言葉をつまらせます。そして一息ついてから、「しかし、もしそれがかなわないなら、どうぞあなたが書き記された書から私を消し去ってください」(32:32)と言いました。モーセは自分の命をかけて、その民のために、とりなしの祈りをするのです。

主はモーセに言われました。

「私に罪を犯した者は誰でも、私の書から消し去る。」32:33

各人の罪は各人が負う。私たちは昨年、「聖書を学び祈る会」でエゼキエル書を学んできましたが、その18章で高らかに宣言されていることです。「親の罪を子が担わなければならない、ということはない。各人の罪は各人が負うのだ。」主はモーセの命をかけたとりなしの祈りを聞きつつ、それが人々の「贖い」になることは退けられました。

そして、「しかし今、私があなたに告げた所に民を導きなさい」(32:34)と告げられました。モーセには、まだなすべきことがあったのです。ここで命を落とすことはない。

(6)罪の贖い

さてモーセは、このところで、神と人の間に立つ仲保者でありました。神はそのモーセのとりなしに応じられ、思い直して裁きを留保されました(32:14)。神は、そのようなとりなしを待っておられるようでさえありました。

パウロも、イスラエルの民のためにこう祈りました。

「私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。」ローマ9:3

ここには同胞の救いのための真剣なパウロのとりなしの祈りがあります。自分の命と引き換えてもよい。神から捨てられた者とさえなってもよい。神はそのような真剣なとりなしの祈りをお聞きくださるのです。

しかしながら同時に、このようなモーセやパウロのとりなしの祈りにも限界がありました。それは罪のあがないまではできなかったということです。モーセ自身、「もしかすると、あなたがたの罪のために贖いをすることができるかもしれない」と言って、祈りに向かいました。モーセにその志はあっても、それをなしうる力はありませんでした。それをまことになしうるのは、神の子イエス・キリストのみです。新約聖書的にはそう言ってよいと思うのです。神の子として、神の資格をもったお方が、人間の側に立ってくださる時、その二つがぴたりと重なる時に、まことの罪のあがないが成り立つのです。イエス・キリストは、それを、身をもってなしてくださいました。ご自分の命をかけて、十字架の上で、自分を迫害し、自分を十字架にかけている人を指して、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と祈られました。このイエス・キリストの十字架上の祈りによって、モーセやパウロのとりなしの祈りも完成すると言ってもよいかも知れません。モーセのとりなしの祈りそのものが、イエス・キリストの贖いを待ち望む祈りであった、イエス・キリストを指し示す祈りであった、と私は思うのです。

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