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2024年3月3日説教「召 集」松本敏之牧師

出エジプト記31章1~11節
マルコによる福音書3章13~19節

(1)祭壇、幕屋の庭、灯

月に一度位のペースで読み進めている出エジプト記、前回2月11日は、25章と26章に記されている幕屋に納められる祭具の製作の指示と、幕屋建設の指示の箇所を読みました。なかなか読みづらい部分でした。こうした文言が31章まで続きます。

あまりにも煩雑な言葉が続きますので、今日は、思い切って27章から31章をまとめて扱うこととし、31章を中心にお話しすることとしました。

ただ30章までの部分について全く触れないわけにもいきませんので、最初にざっと、27章以下には何が書いてあるかということをお話しておきましょう。まず27章ですが、以前の新共同訳聖書では1~8節に「祭壇」、9~19節に「幕屋を囲む庭」、20~21節に「常夜灯」という表題が掲げられていました。新しい聖書協会共同訳では、表題は付いていませんが、「幕屋の庭」、そして単純に「灯」という言葉になっています。

「祭壇」というのは、犠牲のいけにえを焼くための祭壇です。この記述によれば木製です。木製の祭壇では、たとえ青銅の板で上張りしたり、中を空洞部分にして土や石を詰めたりしたとしても、実際に機能したのかどうかはやや疑問があります。

「幕屋の庭」というのは、幕屋を中心にした敷地全体のスペースです。奥行きが100アンマ(45m)、幅が50アンマ(22.5m)ですから、かなり広いスペースであることがわかります。

そして「灯」製作の指示。これは、幕屋の中で聖所と至聖所を隔てる幕の手前に置かれたようです。夕暮れから明け方まで灯し続けることになります。

(2)祭司とその衣服、持ち物

28章は、幕屋に仕える祭司の衣服と持ち物についての記述です。27章までは、建物や祭具についてでしたが、ここで初めて人や人にかかわるものについて述べられることになります。

モーセの兄であるアロンのためには、大祭司としての職務にふさわしい祭服を製作するよう、指示がなされます。指示される衣類は、28章4節によれば、胸当て、エフォド、長衣、格子縞の短衣、ターバン、飾り帯です。

エフォドというのは聞きなれない言葉ですが、巻末の用語解説があります(24頁)。この三つ目の「大祭司が着用する祭儀用の華麗な衣服(出28:4以下)」です。その直後の28章6~7節で「金や青、また紫や深紅の糸、上質の亜麻の糸で意匠を凝らしてエフォドを作る。その両端に二本の肩ひもを結びつける」と説明されています。

28章40節以下では、「アロンの子らのための祭服」についても述べられます。彼らが職務に就く時には、「罪を負って死ぬことがないように」聖別するための指示がなされました。また43節で、「これは、彼と後に続く子孫にとって、とこしえの掟である」と述べられていることから、祭司の職務が世襲制として考えられていたことがわかります。

続く第29章1~37節では、「祭司聖別の儀式」について述べられます。29章後半の38~46節では「日ごとのささげもの(焼き尽くすいけにえ)」について述べられます。そして最後に大事な言葉が語られます。

「私はイスラエルの人々のうちに住み、彼らの神となる。彼らは、私が主、彼らの神であり、彼らをエジプトの地から導き出し、彼らのうちに住まう者であることを知るようになる。私は主、彼らの神である。」29:45~46

この神様の約束が真実であり続けるために、これらの面倒な指示がなされていると言ってもよいでしょう。

さて続く30章には、29章の祭司聖別の儀式を踏まえて、実際に儀式に使うものを揃えることの指示が記されています。

新共同訳聖書では、1~10節は「香をたく祭壇」、11~16節は「命の代償」、17~21節は「手足を清める」。22~33節では「聖別の油」という表題が付いていました。

(3)形にするのは難しい

そこでいよいよ、今日のテキストである31章ですが、ここには、「技術者の任命」という表題が付けられています。

神様はモーセに向かって、これまでこまごまと、そして延々と、幕屋とその中の祭具の製作を命じられました(26章~30章)。31章7節以下に、何を製作するかがまとめて記されていますので、整理確認の意味でも、改めて読んでみましょう。

「彼らは、会見の幕屋、証しの箱、その上にある贖いの座、天幕のすべての祭具、台とその祭具、純金の燭台とそのすべての祭具、香をたく祭壇、焼き尽くすいけにえの祭壇とそのすべての祭具、洗盤とその脚、上質の織物の服、すなわち、祭司アロンのための祭服、そして祭司として仕える彼の子らの服、注ぎの油、聖所でたくためのかぐわしい香を、すべて私があなたに命じたとおりに作らなければならない。」31:7~11

これらの製作が命じられたのでした。しかし、いかがでしょうか。いくら細かい指示があるとはいえ、それを形にするのはそう簡単ではありません。設計図と実物とは違います。しかもこの場合は、図面ではなく言葉ですから、どんなに細かく指示しても書ききれない。あるいはケルビムの像を作ると言っても、絵に描いたスケッチすらありません。たちまち途方に暮れてしまいます。誰かが描かなければならない。

聖所でたくためのかぐわしい香を作ると言っても、何を材料にどんな香を作るのか。神様はどんな香を喜ばれるのか。匂いを作り出すこと。これも広い意味で芸術家の仕事でしょう。しかし勝手にやっていいものかどうか。許される幅があり、その幅の中でいかによいものを作るか。それこそ技術者と芸術家の腕の見せどころであると言えるかも知れません。

神様の命令された幕屋とその祭具などを具体的に形にしていくためには、お金も必要ですし。力も必要ですし、知恵も必要です。費用については、35章で述べられることになりますが、何よりもそれを実現に移すための知恵、そして指揮官が必要です。今日で言うならば、建築のジェネコン(ジェネラル・コントローラー)でしょうか。また芸術家が必要です。技術屋も必要です。タレントが必要なのです。

(4)技術者・芸術家の任命

しかし、そうした事態、これを形にするのは容易ではないことも、神様はちゃんと想定しておられます。それでこそ、この31章の命令があるのです。

「主はモーセに告げられた。『見よ、私はユダ族のフルの子ウリの子ベツァルエルを指名し、彼を神の霊で満たし、知恵と英知と知識とあらゆる巧みな技を授けた。それは、金、銀、青銅に意匠を凝らして細工し、宝石を彫ってはめ込み、また、木を彫るなど、あらゆる仕事をさせるためである。』」31:1~5

神様がそれを実現するのに必要な人材をきちんと立ててくださる。そしてその人を神の霊で満たされる。神様がインスピレーションを与えられるということです。どのような工芸にも、知恵と英知と知識をもたせてくださる。

『岩波版旧約聖書』の訳者、木幡藤子氏は、その注において、「旧約聖書における知恵(ホフマー)は、単に知識や思考力といった知的能力だけではなく、実践的・実際的な問題解決能力や、さらには職業上の手腕や技術的熟達度をも意味しうる」と述べておられます。この「問題解決能力」というのが大事です。頭でっかちの理論ばかりでは役に立たない。臨機応変に対応していかなければならないことも多々あるでしょう。

さらに神様は、ベツァルエルだけでは実現が難しいであろうことも分かっておられて、助手(アシスタント)まで任命されるのです。

「今、私はダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼と共に任命する。」31:6

そして大事な言葉が続きます。

「また、心に知恵のあるすべての者に知恵(問題解決能力です)を授けて、私があなたに命じたものをすべて作らせる。」31:6

いかがでしょうか。神様はただヴィジョンを与えて、「それを実現せよ」と命令されるのではなく、それを実現できるように、働き人を召集してくださるのです。このところで、幕屋建設そのものが、実は神様の御業であるということが、明らかになっているのではないでしょうか。

(5)偶像製作か、宗教芸術か

ここには、宗教芸術、ひいてはキリスト教芸術に関して、とても示唆的なことが書かれています。そもそもキリスト教芸術とは何なのか。そんなものがありうるのか、という問いがあるでしょう。私たちが今、読んでいる出エジプト記の中には、十戒があり、その中には、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」という第二戒があります。

「あなたは自分のために彫像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水にあるものの、いかなる形も造ってはならない。」20:4

この戒めと、例えば、「ケルビム(の像)を造りなさい」という戒めは矛盾しないのか。そういう問いがあるのではないでしょうか。

(6)渡辺総一「美術を通しての創造」

今日、日本のキリスト教美術を代表する芸術家に渡辺総一という人がいます。私の『ヨハネ福音書を読もう』上・下巻の表紙絵は、渡辺総一さんによるものです。その渡辺さんもこの問題で若い頃悩まれたようです。渡辺さんは、『礼拝と音楽』131号(2006年)に、「美術を通しての創造」という論文を寄せ、その中でこう述べておられます。

「日本のプロテスタント教会では、キリスト教美術を礼拝堂の中に飾ることはあまりしません。その理由の一つとして、明治以来ピューリタニズムの影響のため、禁止か軽視か、視覚芸術に対して消極的になってきたことがあげられます。わたし個人も求道中の学生時代に、十戒の第二戒を知らされ、キリスト教信仰と美術は両立するのは難しいのではないか、という素朴な思いを抱かされました。
 しかし、受洗後自分が美術という賜物を用いて生きることに導かれた時には、言葉や音楽と同様に、神様をほめたたえる表現の一つとして、許されているはずではないかという確信をもたされ、聖書を主題とした絵の制作を始めたのでした。……わたしは今、神の像を造りそれを礼拝することを第二戒で禁じていても、美術を通して神様をほめたたえることを禁じてはいないように思っています。」

そして渡辺総一さんはこう続けます。

「この点について大変励まされたのは、出エジプト記にある神の幕屋づくりの指示の箇所でした。神の霊に満たされた二人の人物、ベツァエルとその助手オホリアブに対してデザインや技術工芸を託し、礼拝のために必要な幕屋、祭壇、全ての祭具を作らせています。そのように積極的に美術をお用いになられる神様の姿勢から、キリスト教美術、教会における美術、礼拝における美術に携わるわたしたちも積極的に取り組むように促されたように思いました。」

私もその通りだと思います。神様は、人を用いて、神様をたたえるための芸術(教会堂であれ、幕屋であれ、タペストリーであれ)を造るようにと、命じておられるということです。神様は、そこで芸術家を立てられるのです。そこには画家もいれば、デザイナーもいる。作曲家もいれば、演奏家もいる。すべては、神様をほめたたえるためです。

芸術家だけではありません。29章で述べられたことで言えば、その中心的な仕事として、祭司を立て、祭司を聖別されました。今日の私たちの教会で言えば、神様は、教会を建てるために、牧師を立てられる。そのためにまず働き人を召集し、神学生として導かれるのです。

私が神学校へ入った時の最初の印象は、神様は実に多種多様な人間を、ここに集められたなということでありました。背景も違えば、性格も違う。信仰の形態も違う。体育会系の人もいれば、ものすごい勉強ができる人もいます。しかしそれが一つの群れとされているという不思議な感動がありました。

(7)イエス・キリストの弟子召集

イエス・キリストが12人の弟子を集められた時も、多種多様な、雑多な集団でありました。熱心党員シモンと徴税人マタイが一緒にいることからして、変な集団です。なぜならば、熱心党員とは強烈なナショナリスト、反ローマの典型です。一方、徴税人とは、ローマの権力を笠に着て、税金を集めている人であり、親ローマの典型です。熱心党員からすれば、徴税人が同席していることすら汚らわしいと思ったかも知れません。何か共通の目的のために集まった有志集団ではないのです。それだけではなく、やがてイエス・キリストを裏切ることになるイスカリオテのユダもその中に入れられています。何のために集まったのか。こちら側には、共通の目的はない。ただただ、イエス・キリストが召し集められた、召集されたからです。マルコ福音書では、その目的のようにして、三つのことを掲げています。それは、「彼らを自分のそばに置くため」、「派遣して宣教させるため」、「悪霊を追い出す権能を持たせるため」ということです。それらは、神様の側からの理由、イエス・キリストの側からの理由であります。そこには人知を超えた神の配慮があったと思います。

私たちの宣教も、人間のヴィジョンがあって、それを実現していくということではなく、神の宣教(“Missio Dei”“ Mission of God”)に人間が参与していくということであります。

私たち自身も、それぞれの賜物を用いて、神様の御用のために働くようにと召されていることを、心に留めましょう。大きな賜物はなくとも、誰しもそれぞれ小さな賜物をもっております。それがないというのは、自分で気づかないだけのことであると、私は思います。それを神様の栄光を表すために用いようとする時、私たちの人生は祝福されるのではないでしょうか。

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