1. HOME
  2. ブログ
  3. 2024年9月8日説教「枯れた骨の復活」松本敏之牧師

2024年9月8日説教「枯れた骨の復活」松本敏之牧師

エゼキエル書37章1~14節
使徒言行録2章1~4節

(1)エゼキエル書の時代背景

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課は、今、箴言をはさみつつ、預言書を読み進めています。8月31日でエゼキエル書が終わりました。皆さん、通読を続けてくださっているでしょうか。預言書はなかなかハードルが高いかもしれませんが、がんばって読み進めてください。今日はエゼキエル書についてお話させていただきます。

エゼキエル書は、イザヤ書、エレミヤ書とあわせて三大預言書と呼ばれます。少し復習しますと(と言っても覚えておられないと思いますが、一応、振り返りますと)、イザヤ、(厳密に言うとイザヤ書1~39章までの著者である第一イザヤ)が活動したのは、紀元前8世紀、ソロモン王以降南北に分裂していた王国の内、北王国イスラエルが滅亡する前後の時代でありました。次のエレミヤが活動したのは、紀元前7世紀の後半から紀元前6世紀前半の約40年間です。活動地はすでに北王国イスラエルは滅亡していますので、南王国ユダの首都エルサレムでありました。それに続くエゼキエルが活動したのは、エレミヤと少し重なっていますが、それに続く時代です。紀元前6世紀の前半の約20年間です。

エゼキエルは、南王国ユダの滅亡前後に、エレミヤに続いて活動しました。彼は、エレミヤと同じくエルサレムの祭司をしていましたが、紀元前597年、第1回バビロン捕囚のときに、王たちと一緒にバビロニアに連れて行かれました。そしてその5年後に召命を受け、以後20年ほど活動をしました。エゼキエルは、イスラエル民族の捕囚地バビロニアにおける最初の預言者でした。エゼキエルは、イスラエルの人々が、王国と神殿の滅亡、さらに屈辱的な捕囚体験の中で、ヤハウェの神への信頼を疑い、精神的な苦しみのあまり絶望的になっている時に、活動したのであります。

(2)エゼキエルの召命

エゼキエル書にも、イザヤ書やエレミヤ書と同じように、召命について、つまり預言者として召し出され、遣わされるということが記されています。よかったら少し開いてみてください。2章です。まず2章3節でこう語られます。

「人の子よ、私はあなたをイスラエルの子ら、すなわち、私に逆らう反逆の国民に遣わす。彼らもその先祖も背き、今日に至っている。その子らは恥知らずで強情である。私はあなたを彼らに遣わす。そこで彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。彼らが聞こうと、反逆の家ゆえに拒もうと、自分たちの間に一人の預言者がいたことを知るようになる。」エゼキエル2:3

エゼキエルも、イザヤの召命の時と同じように、「彼らは恐らく聞く耳を持たないだろう。それでも語らなければならない。」と述べられるのです。それが真の預言者の務めです。預言者の宿命とでも言うべきものです。誰も聞こうとしなくても、語らなければならない。それは、今日でもあてはまるのではないでしょうか。教会は預言者として、この世の真っただ中に立つのです。そこでは、人に優しい言葉だけを語っていればよいということではないでしょう。この社会が、あるいは日本が、間違った方向に歩もうとしていることに気づいたならば、そこで警告を発し、悔い改めて歩むように告げなければならない。もしもそこで誰も聞かなかったとしても、後に、「自分たちの間に一人の預言者がいたことを知るようになる」ということに通じると思います。

(3)幻

エゼキエルの特徴を幾つか挙げてみたいと思いますが、第一は、幻のような記事が多いということです。後ほどお話しますが、先ほど読んでいただいた37章の枯れた骨の復活などは、その典型でしょうが、第2章のエゼキエルの召命記事の中にも、それが出てきます。2章8節以下です。

「『人の子よ、あなたは私が語ることを聞きなさい。反逆の家のように逆らってはならない。口を開き、私が与えるものを食べなさい。』私が見ていると、手が私に差し出されており、その手には巻物があった。彼が私の前にそれを広げると、そこには表にも裏にも文字が書かれていた。書かれていたのは、哀歌と呻きと嘆きであった。
主は私に言われた。『人の子よ、あなたが見つけたものを食べなさい。この巻物を食べ、イスラエルの家に語りなさい。』私が口を開けると、主は私にその巻物を食べさせ、言われた。『人の子よ、私が与えるこの巻物を食べ、それで腹を満たしなさい。』私がそれを食べると、口の中で蜜のように甘かった。」エゼキエル2:8~3:3

そのようにして、言葉を与えられたエゼキエルは、頑ななイスラエルの民、バビロニアで捕囚となったイスラエルの人々のところへ遣わされていくのです。でも彼らはエゼキエルの言葉を聞こうとはしません。そのことはあらかじめエゼキエルにも告げられていました。3章7節。

「しかし、イスラエルの家はあなたに聞こうとはしない。イスラエルの家はすべて額が硬く、心がかたくなだからである。今、私はあなたの顔を彼らの顔と同じように硬くした。私はあなたの額を、岩よりも硬いダイヤモンドのようにした。彼らを恐れてはならない。」エゼキエル3:7~9

(4)各人の責任

そのようにエゼキエルもイザヤやエレミヤと同じように、民の不信仰、不誠実に対して、神様の審判と悔い改めを説いていました。しかしエゼキエルは、民族・国家というものがまるまる滅びてしまったという事実に直面して、もはや先祖が悪いというような他に責任を問うやり方では、問題の解決がないと見て、「各人の責任」ということを語るようになります。それは18章にまとめて出てきます。18章1節。

「主の言葉が私に臨んだ。『あなたがたがイスラエルの地について、『父が酸っぱいぶどう酒を食べると、子どもの歯が浮く』ということわざを口にしているのは、どういうことか。私は生きている――主なる神の仰せ。あなたがたはイスラエルで二度とこのことわざを口にすることはない。すべての命は私のものである。父の命も子の命も私のものだ。罪を犯した者は、その者が死ぬ。』」エゼキエル18:1~4

その後、さまざまな例をあげて、誰かが悪いことしたら、その本人の責任であって、その子どもや親は関係がない、ということを告げるのです。これは当時も今もある因果応報という考え、つまり「親の因果が子に報い」という考え方を超えていくものです。バビロニアで捕われていた人たちは、自分たちのせいではなく、親のせい、先祖のせいで、こうなっているのだと思っていました。そしてあきらめの気持ちもあって、自分たちの罪に気づかず、悔い改めようともしない。しかしそうではない、というのです。そして最後にこうまとめます。18章30節。

「それゆえ、イスラエルの家よ。私があなたがたをそれぞれの道に従って裁く――主なる神の仰せ。立ち帰れ。すべての背きから立ち帰れ。そうすれば過ちはあなたがたのつまずきにはならない。あなたがたが私に対して行ったすべての背きを投げ捨て、自ら新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルよ、どうしてあなたがたは死のうとするのか。私は誰の死をも喜ばない。立ち帰って、生きよ――主なる神の仰せ。」エゼキエル書18:30~33

(5)ヨハネ福音書9章につながっていく

これは因果応報ということはないのだ、という高らかな宣言であり、さらにヨハネ福音書9章にある「生まれつき目の見えない人」の記事の、イエス・キリストの言葉につながっていくものと言えるでしょう。イエス・キリストと弟子たちが通りすがりに、生まれつき目の見えない人に出会います。弟子たちは主イエスにこう尋ねます。

「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」ヨハネ9:2

当時は、病は罪のせいであると考えられていました。生まれつき目が悪いのは親の罪のせいなのか、それとも本人の前世での行いの結果なのか。「誰も罪を犯していないのに、そんなことになるのは、神様はひどい方だということなってしまう」と考えたのでしょう。彼らの問いは、病が不幸なものであるという前提に立っていますが、それについては今はあまり詳しく触れないことにします。イエス・キリストは、そうした弟子たちの問いに対して、画期的な答えをされました。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」ヨハネ9:3

弟子たちが「目が見えない」ことの原因を過去に問おうとしたのにたいして、イエス・キリストはそうではないと否定し、その上でそのことの意味を将来に向けたのでした。

今日は、それ以上、詳しいことは申し上げませんが、そこではエゼキエルの言葉が前提となっていたということだけを申し上げておきましょう。

(6)見張りのつとめ

次に、エゼキエル書の預言書の中の重要な言葉、「見張りの務め」について述べましょう。3章にもちらっと予告編のようにして出てきますが、33章において、詳しく展開されています。33章7節。

「人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは私の口から言葉を聞き、私の警告を彼らに伝えなければならない。私が悪しき者に向かって、『悪しき者よ、あなたは必ず死ぬ』というとき、あなたが悪しき者に警告し、その道から離れるように語らないなら、悪しき者は自分の過ちによって死に、私はその血の責任をあなたに求める。しかし、あなたが悪しき者に、その道から立ち帰るように警告しても、その道から立ち帰らないなら、彼は自分の過ちによって死ぬが、あなたは自分の命を救う。」エゼキエル33:7~9

つまり誰かの過ちに気づいたならば(神からそれを告げられたならば)、預言者はその人、および社会に警告を発しなければならないということです。この「見張りの務め」という言葉は、日本基督教団のいわゆる「戦責告白」でも用いられています。8月の平和聖日で唱えているものです。

「しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。
心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。」

これは過去の罪を懺悔をしていますが、同時に、現代に生きる私たちにも「見張り」の務めがあることを宣言するものです。

(7)枯れた骨の谷

さてエゼキエルは、イザヤ、エレミヤのように、民の不信仰、不誠実に対して、神の審判と悔い改めを説きますが、紀元前587年に、エルサレム神殿が崩壊し、南王国ユダが完全に滅亡しますと、彼の預言は調子を変えて、慰めと希望を語るようになります。

エゼキエル書は、33章から終わりまで、イスラエル回復の希望を語っていきます。34章13節。

「私はイスラエルの山々と涸れ谷で、この地のすべての居住地で彼らを養う。私は良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となり、その地で彼らは良い牧場に伏し、イスラエルの山々の豊かな牧草地で草を食む。私は自分の群れを養い、彼らを伏させる――主なる神の仰せ。私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。」34:13~16

回復の預言の中でもひときわ際立っているのが、37章の「枯れた骨の谷」の幻の預言です。先ほど、司会者に読んでいただいた箇所です。これも幻による預言です。枯れた谷の谷間に、おびただしい量の干からびた骨が転がっていました。それは無気力と疑いに沈む捕囚の民を象徴しています。捕囚の民は希望を失い、生ける屍のようになっていたのです。

彼らに対し、エゼキエルが神の言葉を語ると、骨に肉が生じ、皮膚がその上を覆いました。さらに霊が吹き込まれると、枯れた骨に生命がよみがえり、自分の足で立ちあがったのです。

「私が主に命じられたように預言すると、霊が彼らの中に入った。すると、彼らは生き返り、自分の足で立ち、おびただしい大群になった。
主は私に言われた。『人の子よ、これらの骨はイスラエルの家のすべてである。彼らは、『我々の骨は枯れ、我々の望みはうせ、我々は滅びる』と言っている。それゆえ預言して彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。私の民よ、私はあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げ、イスラエルの地に導きいれる。私の民よ、私があなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げるとき、あなたがたは私が主であることを知るようになる。私があなたがたの中に霊を与えると、あなたがたは生き返る。』」エゼキエル37:10~14

この預言を聞いた捕囚の民は、どれほど励まされたことでしょうか。ここには、象徴的にイスラエルの共同体の再生が語られていますが、旧約聖書では珍しく復活が語られているとも言えるでしょう。そしてそれは創世記2章で描かれている神さまによる「人の創造」をほうふつとさせるものがあります。招詞で読んでいただいた言葉です。泥でこねた人形のようなものに、神様が命の息を吹き込まれると、人は生きるものとなりました。それを第一の創造だとすれば、ここエゼキエル書で描かれている枯れた骨の復活は、第二の創造と言えるでしょう。そしてそれは新約聖書で記される復活の預言、そして教会の誕生の預言とも言えるものです。

ヨハネ福音書20章19節以下によれば、復活のイエス・キリストは、意気消沈している弟子たちの前に現れ、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われて、弟子たちを立ち上がらせた話が記されています。また使徒言行録2章によれば、主イエスを失った弟子たちに聖霊が降り、言い換えれば、霊の息が吹き込まれると、聖霊が降って教会が始まっていくのです。

(8)新しい天と新しい地

エゼキエル書は、40章から終わりの48章まで「新しい神殿」の再建について、やはり幻で語っています。神殿の再建はイスラエルの民にとって最も重要なものであり、それなくしてはイスラエルの民族の再建もないと考えられていました。そこで展開されている神殿の幻は壮大なものです。それは天地創造のエデンの園をほうふつとさせると同時に、新約聖書との関連で言えば、黙示録に記されている「新しい天と新しい地」をほうふつとさせるものです。世界の中心としての神殿が幻として描かれます。

47章によれば、神殿から周囲に向けて、清らかな水がとうとうと流れ出し、それがまわりの病を潤していくのです。47章8節。

「彼は私に言った。『これらの水は、東の地域に流れ出てアラバに下り、海、すなわち汚れた水の海に入る。するとその水は癒される。川が流れて行く所はどこでも、そこに群がるすべての生き物は生き、魚が非常に多くなる。この水が入ると、そこの水は癒され、この川が流れる所では、すべてのものが生きるからである。』」エゼキエル48:8~9

これはヨハネの黙示録の最後の第22章に描かれる情景をほうふつとさせます。

「天使はまた神と小羊の玉座から流れ出て、水が水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は諸国の民の病を癒す。もはや呪われるべきものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや夜はなく、灯の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らすからである。そして、彼らは世々限りなく支配する。」ヨハネの黙示録22:1~5

このようにエゼキエルの見た幻は、新約聖書、特にここではヨハネの黙示録へとつながっていきます。それは同時に私たちを含めた全人類の将来、地球の将来を指し示すものでもあるでしょう。イスラエル民族の復興ということとどまりません。非常に現代的なメッセージを含んでいると思います。

今は、原子力発電所から流れ出るトリチウムを含んだ処理水、汚染水の放出の問題が、日本にとどまらず、東アジアや世界の大きな関心事となっています。海がそういう水で汚されていく。そういう状況に照らし合わせてみれば、それとは真逆の将来像を示すエゼキエル書、そして黙示録は、大きな警告を発し、そしてなお希望を告げるメッセージとなっているのではないでしょうか。

関連記事