2024年4月21日説教「礼拝に集い、主を賛美しよう」松本敏之牧師・奏楽椎名雄一郎
詩編150編1~6節
コロサイの信徒への手紙3章12~17節
(1)コロナ禍の礼拝と川柳
2024年度、鹿児島加治屋町教会では、「礼拝に集い、主を賛美しよう」という年間主題を掲げました。これまで約3年間、私たちはコロナ禍にあって、礼拝もその都度、さまざまな対応をしてきました。できるだけ外出を控えるようにということで、動画配信のみにした期間もありました。ちなみにコロナ禍にあって、川柳もたくさんできました。
「パソコンで我が家も立派な礼拝堂」
それまでインターネットに無縁であった方々が、息子さんや娘さんにつないでもらって礼拝動画を見られるようになり感激されました。「これでもう教会に行く必要はないですね」と言われると、「いえいえ、そんなことはありません。いえいえ、そんなことはありません。これはあくまで臨時対応です」とお答えしました。
「未信者の夫も共に動画礼拝」
これは実話です。やはりコンピュータが苦手の女性が、夫に頼んで、教会のホームページにアクセスしてもらっていたそうです。そのご主人はクリスチャンではないので、教会へは来られないのですが、家で動画の礼拝だと、夫も一緒に礼拝してくれる。「コロナ禍の恵みですね」と喜んでおられました。
第二派、第三派というふうに、何度も流行の波が押し寄せましたが、少し落ち着くと、教会での礼拝を再開しました。ただ大勢が一度に集まって密になることを避けて、9時30分からと11時からの二回にわけて短縮礼拝をまもったこともありました。「三密」という言葉が生まれました。「密閉・密集・密接の三密を避けて. ください」と言われました。30分の短縮礼拝を目指して、ほぼ説教だけの礼拝の期間もありました。
「三密避け、説教だけは濃密に」
これは牧師としての私の心がけのような川柳です。せっかく皆さん、がんばって来られるのだから、心に届くメッセージを語りたいと思いました。
それでも同じ時間帯に顔を合わせて礼拝したいということで10時30分の1回に戻しました。礼拝時間も少しずつ長くしていきましたが、短縮形式で、この3月末までやってきました。また賛美歌を歌うのも控えて、聖歌隊の代表が3階の和室から独唱で歌い、会衆はそれを聞きながら心の中で歌った、そういう時期もありました。
「コロナ禍で『賛美歌黙唱』新用語」
黙祷や黙読という言葉があるのですから、黙って歌う「黙唱」もあってもよいのではないかと思いましたが、あまり流行りませんでした。
その後、会衆が賛美歌を歌うようになった後も、座ったままで歌い、小さな声で歌うようにしてきました。
そのようにして、コロナ禍にあって、約3年間、さまざまな形で工夫をしながら礼拝を続けて来られたことは大きな恵みであると思います。礼拝は教会の生命線だからです。
(2)新年度の礼拝形式
そこで私たちは、新年度を迎えて、「礼拝に集い、主を賛美しよう」という年間主題を掲げた次第です。感染症に対する対応、たとえばマスクの着用などは個人の判断に委ねることにしました。礼拝の形式は大筋でコロナ前の形に戻しましたが、コロナ禍で取り入れてよかったと思うことは継続することにしました。賛美歌は起立して歌うことに戻しました。声の出せる方は大きな声で賛美しますが、全節を歌わず、節を選んで歌うことは継続します。礼拝が長くなり過ぎないように、という配慮と共に、節を選ぶことによって、なぜその日に、その賛美歌を歌うのかが明確になります。もちろん座ったままで歌っていただいても結構ですし、これまで通り、マスク着用のまま小声で歌っていただいてもかまいません。
礼拝の始まりの招詞を復活させ、その後の賛美歌も復活させました。ただし冒頭の賛美歌は何週間か同じ曲を、節を変えながら歌っていくことを考えています。
詩編交読も復活させました。ただし聖餐式のある第1主日や召天者記念の祈りのある最終週は、原則として入れないこととします。
献金は、コロナ禍で始めたように礼拝堂へ入る時にささげる形を継続します。礼拝が長くならないためです。
新しいこととしては、案内報告を、これまで祝祷のあとにしていましたが、4月から頌栄祝祷の前に行うことにしました。これは案内報告も、礼拝の一部であるという理解に基づいています。それによって、案内報告が長くなることを避けられるように思いますし、この形式によって、牧師の派遣の言葉と祝祷を聞いて、そのまま礼拝を終えることができるようにしました。またこれまでは祝祷の後、短いアーメンの後奏がありましたが、報告はすでに終わっているので、祝祷の後、続けて長い後奏曲となります。どうぞすぐにお座りください。そして座ったままお聞きいただいても結構ですし、静かに退堂していただいてもかまいません。
第一主日の誕生者祝福の祈りも最終主日の召天者記念の祈りも、頌栄の前に行うこととします。
また私はコロナ前の礼拝では、聖書朗読は基本的に旧約聖書と新約聖書の両方を読んでもらっていました。それも復活させます。説教の中で、両方のテキストに触れないこともありますが、礼拝の中で、旧約と新約の両方の御言葉が読まれることが重要だと考えているからです。ただし例外もあります。本日、旧約聖書として選びたかったところは詩編150編でしたので、詩編交読と兼ねることとしました。
また礼拝の動画配信は、これまで通り続けます。これはコロナ禍で、新しい礼拝の可能性が広がった、有益なことのひとつかなと思います。ただし、決して礼拝に集うことの代わりにはなりませんので、できる限り、ここに集って、共に主を賛美しましょう。教会は個人個人の信仰で成り立つものではなく、礼拝によって養われる共同体であるからです。
(3)新約聖書の年間聖句、コロサイの信徒への手紙
さて、「礼拝に集い、主を賛美しよう」という年間主題のもと、二つの年間聖句を選びました。まず新約聖書のほうは、コロサイの信徒への手紙3章16節の御言葉です。週報の第一面に印刷されていますので、それをご覧くださるとよいでしょう。
「詩と賛歌と霊の歌により、感謝して神に向かって心から歌いなさい。」コロサイ3:16
「詩と賛歌と霊の歌」。この三つを分けて書いてあるのは、興味深い表現だと思いました。
(4)詩
ここで言う「詩」というのは旧約聖書の詩編のことです。詩編を歌う。ユダヤ教の伝統においても、あるいはキリスト教会においても、昔から詩編にあるメロディーをつけて歌うという習慣があったようです。宗教改革者カルヴァンも、これを大事にしました。カルヴァンという人は、音楽に造詣のある人だったのですが、礼拝の中でいろんな賛美歌、特に情熱的な歌を歌うことを好みませんでした。ただ詩編に素朴なメロディーをつけて歌うことは推奨しました。ですからカルヴァンの改革派の教会においては、例えハインリヒ・シュッツといった作曲家がたくさんのすばらしい詩編歌を書き残しています。
詩編を歌うということは、今日でもドイツの教会やブラジルの教会ではよくあることです。日本でもカトリック教会では詩編にメロディーをつけて歌うということは以前からあったようです。私たち、プロテスタントにはあまりそういう伝統がなかったのですが、『讃美歌21』が編纂された時に、詩編を歌うことを積極的に礼拝で取り入れようということで、詩編に基づいた歌がたくさん収めらました。この『讃美歌21』には113番から172番まで、実に60曲もの「詩編歌」があります。そのすぐ後の173番から183番までの11曲も「頌歌」と名づけられていて、これも詩編に準ずるものであり、聖書の言葉をそのまま歌う歌です。さらにその後、184番から201番は「聖書の歌」と題されていて、聖書の物語をそのまま音楽にしたものです。これらは84曲にわたって、「聖書を歌う」ということを取り入れているわけです。このことは、『讃美歌21』が(個人の愛唱歌集であるよりも)礼拝のための賛美歌集であるという編集方針を色濃く表しているものであると思います。
(5)賛歌
「詩」の次に「賛歌」とあります。これは、今日の私たちの賛美歌に近いものとお考えくださるとよいかと思います。聖書の言葉に基づいてはいるけれども、聖書そのものではない。きちんとした作詞者がいる。(前述のものは、聖書そのものが作詞者です)。私たちは、こうした歌を昔から歌ってきています。
音楽、歌と言うのは、礼拝共同体の最初の時代からありました。楽譜がなかっただけです。それを耳で聞いて、口伝えで伝承されてきましたので、それがどんなメロディーでどういう風に歌われていたのか、わからないわけです。ただ礼拝共同体は最初から歌と共にあり、歌と共に成長してきたということを強く思うのです。
私はブラジルに長くいましたが、ブラジルでは解放の神学というひとつの運動が20世紀後半の大きな流れとなりました。この解放の神学は、日本では理論というか、神学としてだけ伝わってくることが多いのですが、この解放の神学も机上の神学ではなく、礼拝共同体の中から歌と共に歩んできて、民衆を巻き込んでいったのだということを、私は現場で強く実感しました。そしてその中の幾つかを日本語に訳して紹介してきました。
(6)霊の歌
さらにコロサイの信徒への手紙は、「霊の歌」というふうに言っています。「霊の歌」とは一体なんでしょうか。私は、今日のゴスペルやスピリチュアルというのは、この「霊の歌」の系譜に属するのではないかと思います。賛歌は、聖書そのものを歌うことに比べれば歌詞なども自由ですが、この「霊の歌」は、もう一つ私たちの方に引き寄せたような感じです。もっと自由に、魂を注ぎだすような主観的な信仰の歌です。信仰の応答のような歌です。福音派の教会で多く用いられている、「プレイズソング」などもこの系譜に入るかもしれません。もちろん当時の「霊の歌」は今日のゴスペルやスピリチュアルと全く違ったものであったでしょうが、教会は最初の時代から「霊の歌」を歌っていたのです。そのようにして「詩編」「賛歌」「霊の歌」という三種類の賛美歌が歌われてきたのです。もちろんこの三つには線が引けるわけではないでしょう。その中間のようなものもあると思います。そのように私たちは、いろんな形の賛美歌をもって神様を賛美することが許されているのは、幸いなことであると思います。
(7)旧約聖書の年間聖句、詩編
さて、教会の年間聖句、旧約聖書からは詩編150編1節を選びました。
「ハレルヤ、主の聖所で、神を賛美せよ。」詩編150:1
「ハレルヤ」というのは、「神様はすばらしい」というような意味です。鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課では、旧約聖書を創世記から読み始めて、一書を読み終えるごとに、間奏曲のようにして詩編を10編ずつ挟んできました。そしてその詩編も最後の第150編を、先週の金曜日に読み終えたところです。
ちょうどよいタイミングだと思って、詩編についても概説的なことを申し上げるつもりでしたが、あまり時間もないようですので、少しだけ述べておきましょう。
詩編は先ほど述べたように、全部で150編あるのですが、賛美や祈りのほか、嘆きや復讐を主題とするものもあります。詩人たちの感情があふれています。全体は5巻に分けられます。第一巻が1~42編、第二巻が42~72編、第三巻が73~89編、第四巻が90~106編、第五巻が107~150編です。注意深く読むと、そして各巻の終わりに、「アーメン」という頌栄の言葉が置かれています。そして第150編は詩編全体の最後でもあり、「ハレルヤ」という神さまを賛美する言葉が最初と最後に置かれています。全体が、あのヘンデルの「メサイア」のハレルヤ・コーラスのような感じもいたします。
詩編は長い年月をかけて編纂され、バビロン捕囚の後に信仰共同体の礼拝の書、また祈りの書として成立したと考えられています。テーマ別に分類するならば、「賛歌」、「民族の嘆きの歌」、「個人の嘆きの歌」、「個人の感謝の歌」、「王の詩編」、「知恵の詩編」などに分けることもできます。その一つ一つについて、今日は述べることはできませんが、興味深いのは嘆きの歌の中には、誰かへの復讐を願う詩編もあることです。聖書にこんな言葉があってよいのかと、どきっとするような言葉もあります。しかし「敵を愛しなさい」というイエス・キリストの言葉を素直に受け入れられないような時にも、復讐を願う詩編を読んで、「聖書には、私の気持ちを分かってくれる言葉もある」と慰められたりすることもあります。
詩編150編は、そうした詩編全体のまとめのような詩です。当時存在したさまざまな楽器によって「神を賛美せよ」というのです。現代であれば、オルガンを高らかに響かせて、神を賛美せよ」と付け加えてもよいかもしれません。そのような新鮮な思いで、この1年礼拝に集い、主を賛美していきましょう。