2024年12月22日説教「天使たちの賛歌」松本敏之牧師
イザヤ書9章5~6節 ルカ福音書2章8~20節
(1)グローリア・イン・エクセルシス・デオ
クリスマス、おめでとうございます。キャンドルに4つ火が灯りました。本来の教会暦では、12月25日の前の日曜日ということで、待降節第4主日でありますが、日本の教会の慣例に従って、クリスマス礼拝を行っています。12月の4回の主日礼拝において、私たちは「もろびとこぞりて」というクリスマス・テーマにちなんで、ルカ福音書に記された4つの賛歌に心を留めています。これまで第1章の「マリアの賛歌」「ザカリアの賛歌」を読んでまいりましたが、今日はいよいよ第2章のクリスマス物語の中に記された「天使たちの賛歌」であります。これは他の賛歌に比べますと、非常に短いものです。
「いと高き所には栄光、神にあれ。 地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ2:14
たった1節、2行だけの賛歌ですが、大事な意味をもった歌です。「マリアの賛歌」が古来マニフィカートとして親しまれ、「ザカリアの賛歌」がベネディクトゥスとして親しまれてきたように、今日の「天使たちの賛歌」も「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」という表題で知られ、昔から歌として歌われてきました。「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」と言えば、皆さんの中にも「あれだ」と思われる方があるでしょう。そうです。「あら野の果てに」(263番)という賛美歌の折り返しの部分で、「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」と歌います。あれは、「いと高き所には栄光、神にあれ」という意味なのです。(「デオ」は、「神に」という意味)。「ラテン語はわからないが、あれだけは知っている」という方もあるのではないでしょうか。
幼稚園の子どもたちが毎年行っているページェントの中でも、天使がこう歌います。
「いと高き所では神に栄光あるように。 地の上では御心にかなう人に平和」
「あら野の果てに」の他にも、このフレーズが入ったクリスマスの賛美歌はたくさんあります。先ほど歌いました265番(旧114番)もそうです。
「『天なる神には、み栄えあれ、 地に住む人には、平和あれ』と、 み使いこぞりて、ほむる歌は、 静かにふけゆく 夜にひびけり」
最初のほうで歌いました265番、「いそぎ来たれ、主にある民」では、3節で
「今われらも共に歌わん み使いたちと声あわせ 『み栄えあれ、いと高き神に』 来たりて拝め、来たりて拝め 来たりて拝め、いざ、共に」
そのように、クリスマスの賛美歌を調べてみますと、実にたくさんの賛美歌の中に、この言葉が出てまいります。
(2)羊飼いたちに天使が告げる
この賛歌が歌われた場面を確認しておきましょう。まずこの天使たちの歌の聞き手は羊飼いたちでありました。彼らは、野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていました。そこへ一人の天使が近づき(この段階では、まだ一人の天使でありました)、主の栄光がまわりを照らし出しました。この栄光というのが、グローリアという言葉です。彼らは非常に恐れました。恐れている羊飼いたちに対して、天使はこう言うのです。
「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着(うぶぎ)にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」ルカ2:10~12
一人の天使がこの言葉を告げ終わったとたんに、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して歌ったのです。
「いと高き所には栄光、神にあれ。 地には平和、御心に適う人にあれ。」
これは「救い主が生まれた」ということが告げられた後に歌われた最初の賛歌です。ということは、この天使たちの歌こそが、最初のクリスマス・ソングであったわけです。この最初のクリスマスの賛歌がさまざまな形で(すなわちさまざまな言語、さまざまなメロディーで)歌われ、クリスマスになると、世界中で、この天使たちの賛歌が響き渡って、こだましているのだということができるでしょう。
(3)頌栄
この天使たちの歌は、教会用語で「頌栄」と言います。「神様の栄光をたたえる」ということです。神様の栄光をたたえる、とは、神様を神様として立てるということです。ですから、私たちの礼拝も、多くの場合、頌栄で終わります。また私たちは時間の関係もあって、最近やっていませんが、頌栄で始まる礼拝も多いです。礼拝の基本は、頌栄、つまり神様の栄光をたたえることであり、神様を神様として立てることに他ならないからです。
このことは礼拝の時間だけではなく、私たちの生活の基本でもあります。私たちは地上での生活を送っています。天上ではありません。私たちの身近な関心事は地上のことでしょう。そこには当然、地上の平和のことが含まれます。今年も世界のあちこちで戦争が起こりました。ウクライナは戦場になりました。パレスチナのガザもイスラエル軍の攻撃にさらされています。レバノン情勢もあやしくなってきました。地上の平和を願わずにはいられません。その平和を願いつつ、いやそれに先立って、神様を神様として立て、栄光をほめたたえるのです。
偽物の「頌栄」はだめです。どういうことかと言えば、「神に栄光あれ」と言いながら、実は神様の名前を勝手に持ち出して、神様の御心に反するようなことを正当化していく指導者があちらにもこちらにもいますから、注意深く、それを見極めなければなりません。神様に栄光を帰しているように見せながら(あるいは自分でもそう信じ込んで)、実は自分の栄光を照らしているのです。真の意味で神様に栄光を帰することによって、地上での平和もはじめて、見えてくるのだと思います。そのことを抜きにして、地上の平和はありえないでしょう。どんなに戦争に勝っても平和は来ないのです。どんなに軍備を増強して平和を得ようとしても、より心配の種が増えていくのです。
(4)日常生活における平安
地上の生活と言えば、私たちにとっては世界の平和のことより、自分の毎日の生活の方が気になるというのが本音かもしれません。パレスチナ・ガザの情勢よりも、日本の年金制度の方が心配だという方もあるでしょう。毎日の生活、明日の生活、家族のこと、自分の進路のこと、仕事のこと、子どもの教育のこと、老後のこと、つまり日常生活における平和、平安を願うのです。日本でも、家内安全、商売繁盛、無病息災、と祈ります。それはそれでよくわかる話です。素朴な私たちの願いを表していると思います。
しかしそれを自分で承知しながら、毎日の生活の場においても、私たちの長い人生のビジョンにおいても、まず神様を神様として立てる。神様を中心にすえる、いや中心に来ていただく。そして導いていただくのです。そこからすべてが始まる。そこから整えられていく。そのことを抜きにして、私たちの生活に、真の平和、真の平安は来ないのです。もちろん信仰を持っているつもりでも、平安が得られない場合もあります。でも神様を中心にすえるという原点を知っているのと、それを全く考慮しないのとでは違いがあるのではないでしょうか。神様に栄光を帰する生活をするということは、軌道修正する基準を持っているということです。イエス・キリストは、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(つまり無くてならないもの)は、みな添えて与えられる」(マタイ6:33)と言われました。
(5)御心に適う人
さて「いと高き所には栄光、神にあれ」と歌った後、「地には平和、御心に適う人にあれ」と続きます。これは前半の言葉と対を成しています。
まず「いと高き所には(天には)」という言葉と、「地には」という言葉が対になっています。次に「栄光」と「平和」が対になっていて、さらに「神にあれ」というのと、「御心に適う人にあれ」というのが対になっています。
ここで気になるのは、「御心に適う人」という言葉ではないでしょうか。「地には平和があるように」ということだけであれば問題ないのですが、「御心に適う人に」という言葉が挿入されている。何か、人を限定しているように思えます。「御心に適う人」ということで、「善意の人」「よい行いをする人」という風に解釈されることもあります。古いラテン語の聖書でもそうした人間の善意が強調されてきました。「よい人にだけ平和を祈り、悪い人には平和がなくていい」ということになりそうです。しかしよい人の上にだけ平和を願っても、実は平和は実現しません。みんなつながっているのです。
この「御心に適う人」というのを、クリスチャンというふうに思う人もあるかも知れません。確かに私たちは、洗礼を受けてクリスチャンとして歩み始めることは、「御心に適う」ことであると思います。神様は、そしてイエス・キリストは、それを望み、私たちにそれを求めておられます。
(6)神の御心は大きい
それを前提としながらも、私は「御心に適う」ということを、そうした自分たちの小さな判断の中に閉じ込めてしまうことはできないと思います。神様の御心はもっと広く、深く、私たちの想像を超えたところまで及んでいる。そのことを忘れてはならないでしょう。
むしろそれを忘れないことこそが「神様を神様として立てる」ということです。私たちがクリスチャンとして歩みだす決心をする。それは確かに私たち自身の決断であります。そのことは非常に大事な重みをもっています。しかし、それに先立って神様が私にかかわられるという決断をなされていたということ、神様が私を招いていてくださったということ、神様が私を選んでいてくださった。そういう神様の自由な決断が先立っていたということを忘れてはならないでしょう。
そしてその決断は、クリスマスの出来事において、明確に示されるのです。それはかけがえのない独り子をこの地上に送るという決断でありました。そこには「一人も滅びないように」という神様の御心がありました。その御心の中にある人と言えば、私はすべての人が含まれてくるのではないかと思うのです。
クリスマスは、その神様の御心が形をとって示された時です。私たちもそれを喜び、天使たちと共に、また代々の聖徒たちと共に歌いながら、お祝いしましょう。