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2024年10月13日説教「人生は神の賜物」松本敏之牧師

コヘレトの言葉9章7~10節
ルカによる福音書12章25~31節

(1)コヘレトの言葉について

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課は、大きな流れとしては、旧約聖書の預言書を読み進めていますが、その間に、文学書をはさんでいます。預言書のダニエル書を9月26日で終えた後、文学書の一つであるコヘレトの言葉に入り、それも先週の木曜日10月10日で終えました。ダニエル書の後に、コヘレトの言葉を置いたのにはちょっとしたこだわりがありました。それは、「コヘレトの言葉」研究の第一人者で、NHKのこころの時間で「それでも生きる 旧約聖書『コヘレトの言葉』」の連続6回の講座を担当された小友聡さんが、「コヘレトの言葉は、ダニエル書の黙示思想への対論として書かれた」という新しい説を提唱しておられるからであります。小友さんは『コヘレトの言葉を読もう』という書物を出版されて、その中でもその説について述べておられます。私はその本の書評を書かせていただきました。ですから、その新しい説を確かめるというか、味わってみたいと思ったからでした。小友さんは、ダニエル書の第2章とコヘレトの言葉の第8章の中に、共通する珍しい言葉があり、そこからこの二つの書物が関係あるのではないかと思いつかれたそうです。そのあたりのことは推理小説を読むように、ワクワクドキドキするような記述なのですが、今日はそのあたりのこと、「コヘレトの言葉はダニエル書への対論として書かれた」という根拠のようなことは省略いたします。私の今日の説教も、小友聡さんの本を手がかりに、それをなぞるような話になるかと思います。いきなりちょっと難しい話をしてしまいましたが、もう少し聖書に即して、丁寧にお話したいと思います。

まず「コヘレトの言葉」がどういう書物かと言えば、旧約聖書の文学書のひとつであり、ヨブ記や箴言などと共に、「知恵文学」に属します。「コヘレト」というカタカナ言葉は、一体何かと思われる方も多いでしょう。「コヘレト」というのは、「集会の指導者」という意味で、そのように呼ばれる一人の知者が、この書物を書いたと言われます。もう少し内容的に言えば、「会衆に向かって人生哲学を説く人」というふうに言ってもよいかもしれません。以前の口語訳聖書では、「伝道の書」という書名になっていました。

(2)「空の空」

「コヘレトの言葉」は、こういう言葉で始まります。

「空の空、空の空、一切は空である。
太陽の下(もと)、なされるあらゆる労苦は
人に何の益をもたらすのか。
一代が過ぎ、また一代が興る。
地はとこしえに変わらない。
日は昇り、日は沈む。
元の所に急ぎゆき、再び昇る。
南へ向かい、北を巡り
巡り巡って風は吹く。
風は巡り続けて、また帰りゆく。」コヘレト1:2~6

最初の「空の空、一切は空である」の部分は、これまでの新共同訳聖書では、「なんという空しさ、すべては空しい」と訳されていました。でも、そういう訳だと、何か厭世主義者が人生の空しさを否定的に嘆いているように聞こえかねませんが、必ずしもそういうことではないのです。コヘレトは、ただ「人生は短く儚い」という事実を表明しているのです。だから何をしても意味がない、というのではなく、だからどう生きるかが問われてくるのです。ここに「コヘレトの言葉」を読み解く鍵があります。

この書物、コヘレトの言葉では、死ぬことについて何度も繰り返され、12章で人間の死に行く姿を見つめて終わります(12:3~7)。そしておしまいにもう一度、「空の空、一切は空である」という言葉が出てくるのですが、この言葉がコヘレトの言葉の枠組みを作っているとも言えるでしょう。

(3)ダニエル書への対論として書かれた

先ほど、「コヘレトの言葉はダニエル書の黙示思想への対論として書かれた」という小友聡さんの説を紹介しました。ダニエル書という書物については、9月22日の説教でもお話しました。ダニエル書の舞台は、紀元前6世紀頃のバビロニア帝国にとらわれていたバビロン捕囚の時代ですが、実際に書かれたのは紀元前2世紀頃、ギリシアのセレウコス王朝のもとでユダヤ教徒への大迫害が始まった頃です。そこでダニエル書の著者は、昔のバビロン捕囚の頃の先祖を思い起こしながら、自らが直面している破局的な現実の中で、この世を超えたところに希望を見いだしていきました。終末思想と言います。この苦難はいつまでも続くのではない。やがて終わりが来る。だから今の苦難を耐えるようにというメッセージを語りました。難しい言葉で黙示文学という手法が取られています。

しかしコヘレトは違うのです。ダニエル書が書かれたのと同時代にあって、つまり紀元前2世紀半ば頃、同じ苦難を経験していました。戦争が続いていました。いつ殺されるかわからない。ただそこで終末を語るのではなく、つまり彼岸に目を向けさせるのではなく、まさに此岸、この世の中に喜びを見いだすことを語ったのです。「今、という時を十分に生きろ。そこに喜びを見いだせ」ということです。これもまた、一つの信仰のあり方だと思うのです。

コヘレトは、死すべき人間として人生の短さを見つめ、残された時間を神の賜物と受け取って生きようとしているのです。

(4)「すべての出来事には時がある」

コヘレトの言葉の中で、最も有名な言葉は、3章の前半でありましょう。

「天の下では、すべてに時機があり
すべての出来事には時がある。
生まれるに時があり、死ぬに時がある。
植えるに時があり、抜くに時がある。
殺すに時があり、癒すに時がある。
壊すに時があり、建てるに時がある。
泣くに時があり、笑うに時がある。
嘆くに時があり、踊るに時がある。
石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。
抱くに時があり、ほどくに時がある。
求めるに時があり、失うに時がある。
保つに時があり、放つに時がある。
裂くに時があり、縫うに時がある。
黙すに時があり、語るに時がある。
愛するに時があり、憎むに時がある。
戦いの時があり、平和の時がある。」コヘレト3:1~8

そのように〈14対〉の「時」を対比的に語った後、こう述べるのです。

「人が労苦したところで、何の益があろうか。
私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。」コヘレト3:9~11

これもまた美しい、そして人生について、また神と人の関係についてよく言い当てた、うがった言葉であると思います。

(5)今、生きていることが神の賜物

私は、葬送式の折にも、よくこの言葉を読みます。誰かが召天された時に、不思議に神様がその方に与えられた人生の「時」というのが浮かび上がってくるのです。私たちは、この引用をこの11節でとめることが多いですが、この言葉には、まだ続きがあるのです。

「私は知った。
一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に人の子らに幸せはない。
また、すべての人は食べ、飲み
あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。
これこそが神の賜物である。」コヘレト3:12

私はむしろこの12節にこそ、コヘレトの言いたいことある、3章1節から始まることばのまとめがあると思うのです。それは、生きている今の人生こそが神の賜物だということです。

(6)一人よりも二人

4章にも有名な言葉が出てきます。

「一人より二人のほうが幸せだ。
共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。
たとえ一人が倒れても
もう一人がその友を起こしてくれる。
一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない。
また二人で寝れば暖かいが
一人ではどうして暖まれよう。
たとえ一人が襲われても
二人でこれに立ち向かう。
三つ編みの糸はたやすくは切れない。」コヘレト4:9~12

「一人よりも二人のほうが幸せだ」という言葉は、結婚式でよく引用される言葉です。もちろんそういうふうに読むこともできますが、むしろこの言葉は、戦争のさなかにあって、共に戦う仲間の必要性を説いているのでしょう。そして共に生きることのすばらしさ、連帯することの大切さ、一人よりも二人、二人よりも三人というふうに共同体を形成していく大切さを語っているのでしょう。キリスト教保育連盟の10月の聖句が、まさにこの「一人よりも二人がよい」(新共同訳)です。

(7)カール・バルトの「ローマ書 第二版」

私が、若い頃に、「コヘレトの言葉」(当時は「伝道の書」)を初めて意識したのは、5章1節の「神は天におられ、あなたは地上にいる」という言葉でした。それは、カール・バルトという神学者の『ローマ書 第二版』という書物の序文に出てくるのです。

『ローマ書』というのは、カール・バルトという神学者が「ローマの信徒への手紙」を詳しく説き明かした書物です。1919年に、この書物が出版されるや否や、ドイツやスイスの神学界で、一世を風靡しました。それは、19世紀以来、当たり前のようになっていた、歴史批評学的な注解書とは全く違う説き明かし方をしていたからです。それでバルトは、2年後の1921年に『第一版』を全面改訂して『ローマ書第二版』を出版するのですが、その序文で、こんなようなことを述べているのです。

それはある人たちの第一版に対する批判への応答です。

「お前はどんな思想方式(システム)で、この書物を書いたのか。それは思い込みではないのか」(つまりバルトの方法は科学的でない。学問的でないということ)という批判でありましたけれども、それに対して、でした。バルトはその批判に対して、こう答えるのです。

「私が『方式』なるものをもっているとすれば、それは、私がキェルケゴールのいわゆる時間と永遠との『無限の質的差別』なるものの否定的および肯定的意味をあくまで固守した、ということである。『神は天にいまし、汝は地に在り』。私にとっては、この神と人この間の関係、ないしはこの人間とこの神の関係が聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である。」『カール・バルト著作集14』12頁

「お前の解き明かし方は非学問的だ」と批判されたのですが、それはそれまでの「学問的とはどういうことか」ということを問い直した言葉であったのです。

コヘレトの言葉、5章1節全体ではこういう言葉です。

「神の前に言葉を注ぎ出そうと
焦って口を開いたり、心をせかしたりするな。
神は天におられ、あなたは地上にいるからだ。
言葉を控えよ。」コヘレト5:1

コヘレトはそのように言うのです。私たちは神について語るとすれば、その図式の中でしか語ることができないということです。たとえば、「神が人を造った」ということについて神学的に考えるとすれば、「私たちは地上から神を見上げる仕方でしか語れない」ということです。その図式を超えて、客観的に「神が人を造った」と語ったとしても、それは「本当に生きて私に働きかけている神について語ったことにならない」ということです。

それがバルトにとっての神学的方法であったのです。でもそれは、内容的には、批評学的、哲学的思考を経ながら、大胆にルターやカルヴァンなど宗教改革者たちの伝統に立ち帰ったものでもありました。彼は学問的方法に立ちながら、生きた神様について、あるいは神様から生かされている人間について語ったのでした。私にとって、この言葉は衝撃的でした。カール・バルトの書物を少しずつ読み始めていた私をぐっとバルトに引き寄せて、私をバルトのとりこにした言葉でありました。

コヘレトの言葉は、学問の分野でも、高ぶる人間、おごる人間に対して、「あなたはどれほどのものか、分をわきまえよ」と問いかけるものでもあるのです。

5章17節で、コヘレトはこう語ります。

「見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よく食べて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。それこそが人の受ける分である。」コヘレト5:17

(8)あなたのパンを喜んで食べよ

このような考え方は、さらに9章7節以下において積極的に展開されます。

「さあ、あなたのパンを喜んで食べよ。
あなたのぶどう酒を心楽しく飲むがよい。
神はあなたの業をすでに受け入れてくださった。
いつでも衣を純白に
頭には香油を絶やさないように。
愛する妻と共に人生を見つめよ。
空である人生のすべての日を。
それは、太陽の下、空であるすべての日々に
神があなたに与えられたものである。

それは、太陽の下でなされた労苦によって
あなたが人生で受ける分である。」

今、自分の前に与えられた人生を、神の賜物として十分に生き切るようにというのは、独身の方にとっても、あるいはすでにパートナーをなくされた方にとっても、基本的に同じではないでしょうか。

(9)イエス・キリストの教えにつながる

そしてそれは、イエス・キリストがルカ福音書12章25節以下で語られた言葉、「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。野の花がどのように育つのかを考えてみなさい」と言われたことに通じる信仰ではないでしょうか。明日のことを思い煩うのではなく、明日への思い煩いは、神様にお返しして、今日という日を感謝して生き切るのです。私たちも、それぞれに与えられた人生、命を神様から受けた賜物として生きていきたいと思います。

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