2023年11月5日説教「神はその独り子を」松本敏之牧師
ヨハネによる福音書3章13~21節
(1)小聖書
今、読んでいただいた聖書の箇所は、本日の日本基督教団の聖書日課です。その中に、次の言葉があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
16節
この言葉は、代々のクリスチャンによって、最も愛されてきた聖句の一つです。口語訳聖書では、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と訳されていました。みなさんの中にも、この言葉を暗唱されている方がたくさんおられるのではないでしょうか。文語訳聖書で暗唱していたという方もあるかもしれません。宗教改革者ルターは、この言葉を「小聖書」と呼びました。聖書のメッセージを、一言で言い表したような言葉であるからです。
この言葉は、しばしばクリスマスの季節に読まれます。
「神は、その独り子をお与えになった」の「お与えになった」という言葉は、何よりもまずクリスマスのメッセージを端的に語っているからです。神様は、この世を愛された。そしてそこに住む私たち人間を一人ひとり愛された。だから人が自分の罪のために滅んでいくのをよしとされなかった。そのために最愛の独り子をこの世界にお遣わしになったのだ、ということです。
しかしこの「お与えになった」という言葉には、もう一つ意味があります。それは「死に引き渡された」ということです。神様が独り子をお与えになるということは、ただ単にこの世界にお遣わしになるだけではありません。死に引き渡すことを覚悟で遣わされた。もっとはっきり言えば、死に引き渡すために遣わされたということです。その命と引き替えに、私たちは命を得ました。ですからこの言葉は、クリスマスの福音であると同時に、受難節(レント)の福音でもあり、その向こうにはイースターがかいま見えているのです。それゆえにこそ、この言葉は福音書全体、ひいては聖書全体の要約なのであり、それゆえにこそルターはこれを「小聖書」と呼んだのです。
この言葉は独立したものとして読んでも意義深いものですが、この言葉にももちろん前後の文脈があります。ただしこの前後の箇所は、必ずしもわかりやすいものではありません。どちらかと言えば難解な言葉ですが、この前後の文脈の中で、改めてこの3章16節を味わいたいと思います。
(2)ニコデモの信仰
これらの言葉は、形式的には、イエス・キリストと夜こっそり主イエスを訪ねて来たニコデモという人との対話の中に置かれています。少しさかのぼって、そこから見てみましょう。ニコデモとは、一体どういう人物であったのでしょうか。
「さて、ファリサイ派の一人で、ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。」ヨハネ3:1
彼は「ファリサイ派」の人でした。厳格な律法教育を受けた人です。学歴がしっかりしている。次に「ユダヤ人たちの指導者」というのは、サンヘドリンと呼ばれた、ユダヤの最高議会の議員です。時の権力者とも近い位置にいたかもしれません。さらに、10節の主イエスの言葉から「イスラエルの教師」でもあったことがわかります。ニコデモは学識があり、社会的地位があり、尊敬され、評判も得ていた人物でした。そういう人がイエス・キリストを訪ねて来たのです。決して冷やかし半分ではありません。彼なりに真剣に、「この人こそ神の子なのかもしれない」と思ってやってきたのです。それはニコデモの次の言葉からもよくわかります。
「先生、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」ヨハネ3:2
これは、彼なりの精一杯の信仰告白であるといえるでしょう。
ただ彼は、夜こっそり主イエスを訪ねてきました(2節)。ニコデモは、自分の問題として、本当に必要だと思ったから訪ねてきたのですが、同時に、誰にも見られたくなかったのです。彼には地位もあり、名誉もあります。評判もあります。そういう人であればこそ、人に何と言われるか、どう見られるかを恐れたのではないでしょうか。
もう一つ、象徴的な意味もあるかもしれません。「夜」のように暗い時代であったということです。
(3)「水」と「霊」と「風」
イエス・キリストは、ニコデモに対して、次のように言われました。
「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ヨハネ3:3
ニコデモはすぐさまこう答えます。
「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか。」ヨハネ3:4
このややピントはずれの答えをきっかけにして、イエス・キリストはさらに深い真理を語られます。ヨハネ福音書独特の語り口です。
「よくよく言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」ヨハネ3:5
否定形を取った表現ですが、裏返して言えば、「人は水と霊とによって新しくなれる」ということです。「水」というのは、後代の挿入ではないかと言われますが、この言葉は、洗礼を象徴しているようです。ニコデモは「もう一度母の胎に入って生まれることができるでしょうか」と言いましたが、主イエスの言葉には、私たちは水を通して、あたかも胎内に戻るように新しく生まれ変わるのだという含みがあるのでしょう。
「霊」という言葉も重要です。この「霊」が次のように引き継がれていきます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」ヨハネ3:8
ここで「風」と「霊」が対比されています。霊というのは、風のようなものだ。目には見えないけれども、私たちはその音を聞くことができるし、体で感じることもできる。また風があることによって初めて、風がない時にもそこに空気があるとわかる。空気がなければ私たちは生きることができませんが、風によってその存在を確認するのです。
この「風」と「霊」は、単に性質が似ているだけではなく、ギリシア語(新約聖書)では、両方とも同じ言葉です(プネウマ)。
(4)天と地を行き来する
そこから今日のテキストに入っていきます。
「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。」ヨハネ3:13
「天から降って来て、天に上る」という記述を読んで、私は、創世記28章に記されている「ヤコブの梯子」と呼ばれる物語を思い起こしました。ヤコブは、双子の兄エサウが受けるはずの父の祝福を、母リベカと共謀してだまし取ってしまいます。それで怒り狂った兄から殺されそうになり、故郷を逃げ出して母リベカの故郷へ向かう途中でのことです。野宿をしたヤコブは、不思議な夢を見ました。
「先端が天にまで達する階段が地に据えられていて、神の使いたちが昇り降りしていた。」創世記28:12
本来、天と地は全く別世界であり、地上から天にいたる道はありません。バベルの人々は、天まで届く塔のある町を建設しようと計画しましたが、その計画は神様によって打ち砕かれました。(創世記11:1~9)
ヤコブの見た夢では、その天と地を、天使、つまり天に属する者が上り下りしていたのです。
この夢はくしくもイエス・キリストにおいて起こった出来事を指し示していると思います。天と地、それはかけ離れた世界ですが、そこに天のほうから道がつけられたのです。天に属する者、すなわち神の独り子であるイエス・キリストが天から降って来て、そしてまた天に上っていかれました。ただ単にこの世界をご覧になるためではありません。神が愛であるということを、身をもって表し、死に引き渡されるためでした。
(5)本日午後は、墓前礼拝
今日は午後に、墓前礼拝が行われますが、私はお墓というのは天と地を結ぶ象徴的な場所であるように思います。お墓のふたを開けますが、そこはエレベーターの入口のようなもので、天国という「行き先」ボタンを押すと、天国へ、さっと到着するのです。もちろん、それは象徴的なイメージですが、主イエスこそは、その天と地をつなぐために、天から地に来てくださったのです。
主イエスは、こう言われました。
「私の父の家には住まいがたくさんある。もしなければ、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」ヨハネ14:2~3
今日のテキストである3章14~15節では、こう述べられます。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:14~15
「人の子」とは、イエス・キリストのことです。「上げられる」というのは、復活あるいは昇天を指しているようですが、ヨハネ福音書ではそれも視野に入れつつ、十字架の上に「上げられる」ということが中心的です。
「モーセが荒れ野で蛇を上げた」というのは、民数記21章4節以下に記されている出来事を指していますが、だんだん話が広がってしまいますので、省略します。(自分たちの罪のために死ぬべき民が、モーセの掲げる青銅の蛇によって死ぬことを免れ、命を得たという出来事です。)
それを引き合いに出しながら、ヨハネ福音書は、イエスの十字架を指し示したのです。
「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」ヨハネ3:15
(6)二重写しの言葉
ヨハネ福音書を読む時に、私たちが注意しなければならないのは、イエス・キリストの言葉とヨハネ福音書記者(つまりヨハネ福音書を書いた人)の言葉が区別できないということです。イエス・キリストの言葉だと思って読んでいると、いつのまにかヨハネ福音書記者の言葉になっています。11節にこういう言葉がありました。
「よくよく言っておく。私たち(複数形)は知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがた(複数形)は私たちの証しを受け入れない。」ヨハネ3:11
皆さん、「あれ?」と思いませんか。ここは、イエス・キリストとニコデモという一対一の対話のはずですが、「私たち」「あなたがた」という言葉が入っています。これは、イエス・キリストの言葉として記されていますが、実はヨハネ福音書記者が生きていた時代の教会(紀元90年頃)と、その教会に敵対していた人たちとの対話が二重写しになっているのです。
12節で、主語は再び「私」(単数形)に戻ります。
「私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」ヨハネ3:12
この「私」は、イエス・キリストご自身ですが、やはりこれを書き記しているヨハネ福音書記者自身の「私」が透けて見えてきます。
先ほどの有名な16節も一体どちらの言葉(イエス・キリストの言葉なのか、福音書記者の言葉なのか)なのか、はっきりしません。新共同訳では、10節からイエス・キリストの言葉を示すかぎかっこが始まって、それが21節まで続いていました。そうすると、この言葉はイエス・キリストの言葉だということになります。しかし聖書協会共同訳では、15節の終わりのところで、かぎかっこが閉じられています。とすると、有名な16節の言葉はヨハネ福音書記者の言葉だということになります。原文ではかぎかっこはありませんので、どちらにも読めるのです。というよりも、区別できない。二重写しに語られているのです。
(7)「裁き」と「救い」
「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」ヨハネ3:18
「信じない者はすでに裁かれている」とは、どういう意味でしょうか。その前の「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)という言葉と矛盾するように思われるかもしれません。しかし私は、このところの「裁き」というのは、永遠の滅びにいたる裁きということではなくて、「イエス様を信じることができない」というその状態そのものが、実は裁きなのだという思いが含まれているのだと思います。
だとすれば、それは断罪の言葉ではなくて、「信じるほうへといらっしゃい。あなたも信じる者になりなさい」という招きの言葉として、受け止めることができるのではないでしょうか。
イエス・キリストは天から地に降りてきて、地上から天にいたる道をつけてくださいました。私たちも今、その言葉を自分に与えられた言葉として受け入れ、「永遠の命」を共に生きる者となりたいと思います。