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2023年5月7日説教「ソロモンの願い」松本敏之牧師

列王記上3章4~15節 マタイによる福音書6章28~34節a

(1)列王記とは

鹿児島加治屋町教会独自の聖書日課、今は列王記上に入っています。先週の日曜日は少しさかのぼって、サムエル記下の11章、12章を中心に、「ダビデ、最大の罪」と題してお話いたしました。イスラエルの歴史の中で「理想の王」とされるダビデも、決して完璧な人物ではなかった、むしろ一般の人では犯し得ないような罪を犯した王であったことがよくわかる箇所でありました。

さて今聖書日課で読んでいる列王記は、上下2巻に分かれていますが、物語、歴史としては上下巻で続いているものです。ダビデ王の臨終前後から物語が始まり、ダビデの後を継いだ息子のソロモン王の即位と統治の物語が続きます。ソロモン王の死後は、統一王国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、その後北イスラエル王国が、最後に南ユダ王国が滅びていきます。年代で言いますと、ダビデ王の治世が紀元前ちょうど1000年から961年、ソロモン王の治世が紀元前961年から922年です。でも覚えられないでしょうから、いつ頃の話かと言えば、ダビデは紀元前1000年、ソロモンは紀元前950年頃という風にイメージしていただければよいでしょう。その後、南ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされるのが、紀元前580年代です。(もう頭がこんがらがって来た方はどうぞ忘れてください。)

列王記はその名が示すように、さまざまな王たちと王国の繫栄と衰退を描いています。そして列王記上から列王記下にさしかかるあたりには、有名な預言者エリヤとその後継者である預言者エリシャの物語が置かれています。このエリヤとエリシャの物語は、また来月、再来月に取り扱いと思っています。

ここで取り扱われるのは、そうした王国の歴史ですが、これは厳密な歴史というよりは、イスラエルの信仰の視点に基づいた歴史物語のようなものだと言ってもよいでしょう。それはサムエル記も同様でありました。

(2)知恵の王ソロモン

今日は、列王記上の前半に記されているソロモン王の話をいたします。ソロモンは知恵の王として有名でした。ちなみにダビデは芸術家、詩人として知られており、旧約聖書の詩編は、かつてはすべてダビデの作ったものとされていました。それと同様、箴言はソロモンの作とされてきました。箴言1章1節には、「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」と題されており、第二部冒頭の10章1節にも「ソロモンの箴言」と記されています。ただし実際にはソロモンの名がかぶせられていますが、彼自身の作ではありません。

また旧約聖書続編(外典)には、「知恵の書」という書物がありますが、そのギリシア語訳聖書では「ソロモンの知恵」というタイトルになっています。ただしこれもまた、ソロモンの名を借りて、別の誰かが書いたものであります。

(3)新約聖書の中のソロモン

ソロモンの名は、新約聖書にも登場します。最も有名なのは、イエス・キリストの山上の説教の中にある言葉でしょう。

「野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」マタイ6:28~29

この言葉は、野の花がいかに美しいかを語るものですが、その前提として、ソロモン王の栄華、繁栄ぶりがいかに大きかったか、華麗であったかということがあります。

もう1箇所、イエス・キリストの言葉の中に、ソロモンの名前が出てくるところがあります。ご存じでしょうか。マタイ福音書の12章42節です。

「裁きの時には、南の女王が今の時代の者たちと共に復活し、この時代を罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。だが、ここに、ソロモンにまさるものがある。」マタイ12:42

これは、イエス・キリストの知恵がいかに優れているかを示すものです。というか、イエス・キリストの知恵は、この世の最高の知恵の持ち主と言われているソロモンを超えている。つまりイエス・キリストの知恵は、もはやこの世の知恵ではなく、神に直接つながる知恵であるということでしょう。

しかしこれもまた、ソロモンの知恵が、イエス・キリストの知恵のすばらしさを語る基準になっている。それほどソロモンの知恵は優れていた、あるいは優れているのが有名であったことを示すものでしょう。

ちなみに、このイエス・キリストの言葉に登場する「南の女王」というのは、列王記上10章に登場する「シェバの女王」のことです。彼女は、主の名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとやってきます。彼女は非常に多くの従者を連れ、香料や大量の金、宝石をらくだに積んで。エルサレムへやって来ました。そしてソロモンのもとに来ると、彼女は心にあった疑問を王に尋ねました。ソロモンは問いかけのすべてに答えました。王に分からないこと、答えられないことは何一つありませんでした。シェバの女王は、ソロモンの深い知恵と、彼が建てた宮殿に目を見張ります。そしてこう言いました。

「あなたの事績とあなたの知恵について、私が国で聞いていたことは本当でした。私は、ここに来て、この目で実際に見るまでは、そうしたことを信じてはいませんでした。しかし、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と富は、私が噂に聞いていたことをはるかに超えています。」列王記上10:6~8

「シバの女王」という歌をご存じでしょうか。映画音楽でしょうか。レイモンド・ルフェーブル・オーケストラとか、ポール・モーリア・オーケストラが、よく演奏していました。その歌のもとになったのが、この「シェバの女王」です。

(4)二人の遊女

さてソロモンの知恵がどのようなものであったか、列王記自体に記されている、一つの有名なエピソードが出ています。

あるとき、二人の遊女が王のもとにやって来て、申し立てをしました。

「王様、申し上げます。私はこの人と同じ家に住んでいるのですが、その家で、この人のいるところで、子どもを産みました。私が子どもを産んだ三日後に、この人も子どもを産みました。……ところがある晩、この人は自分の子の上に伏したので、その子は死んでしまいました。そこで夜中に起きて、私が眠っている間に、脇から私の子どもを取って、自分の懐(ふところ)に寝かせました。そして死んだ子は私の懐に寝かせたのです。朝、起きて子どもに乳を飲ませようとすると、子どもは死んでいたのです。朝、その子をよく見ると、私が産んだ子ではなかったのです。」列王記上3:17~21

もう一人の女はこう言いました。

「いいえ。生きているのは私の子で、死んだのはあなたの子です。」列王記3:22

ところが、もう一人の女も同じように言って、王の前で言い争いになりました。そこで王は言いました。「剣を持って来なさい。」 剣が持って来られると、王は言いました。

「生きている子どもを二つに切り分けなさい。半分を一人に、もう半分をもう一人にやりなさい。」列王記3:25

そうすると、二人のうちの一人の女はこう言いました。

「王様。お願いでございます。生きているその子は、その女にあげてください。決してその子を殺さないでください。」列王記3:26

もう一人は、「どうぞ切り分けてください」と言いました。そこで王は、「生きているこの子を、先の女にやりなさい。決してこの子を殺してはならない。その女が母親なのだ」と言いました。そして最後に、このようにまとめられています。

「王が裁いたこの訴えの話を聞いて、イスラエルの人々は皆、王を畏れ敬うようになった。裁きを行う神の知恵を王の内に見たからである。」列王記上3:28

(5)ソロモンの願い

この話の直前に記されているのが、先ほどお読みいただいた列王記3章4節以下です。

神様は夢の中でソロモンに現われて、こう言うのです。

「願い事があれば、言いなさい。かなえてあげよう。」列王記上3:5

ソロモンは、こう答えます。

「私は未熟な若者で、どのように振る舞えばよいのか分かりません。……どうか、この僕に聞き分ける心を与え、あなたの民を治め、善と悪をわきまえることができるようにしてください。そうでなければ、誰がこの数多くのあなたの民を治めることができるでしょうか。」列王記上3:7~9

その願いを神は喜ばれ、こう答えられたのです。

「あなたが願ったのは、自分のために長寿を求めることでもなく、富を求めることでもなく、また敵の命を求めることでもなかった。あなたが願ったのは、訴えを聞き開ける分別であった。それゆえ、あなたの言うとおりに、知恵に満ちた聡明な心をあなたに与える。あなたのような者は、前にはいなかったし、この後にも出ないであろう。私はまた、あなたが求めなかったもの、富と栄誉も与えよう。生涯にわたり、王の中であなたに並び立つような者は一人もいない。父ダビデが歩んだように、あなたは私の掟と戒めを守り、私の道を歩むなら、私はあなたに長寿を与えよう。」列王記上3:11~15

この神様の言葉は、先ほど読んでいただいたマタイ福音書6章の言葉に通じるものがあります。

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」マタイ6:33

(6)晩年のソロモンの堕落

列王記は、ダビデにも増して、ソロモンについても、よいことと悪いことの両面を書き記しています。悪いことは、晩年のソロモンについて記した11章です。「ソロモンの背信とその結果」という題が付いています。  ソロモンは多くの外国人の女を愛したと記され、また「彼には多くの妻、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。(これも少し大げさだと思いますが)。この女たちが彼の心を誤らせたのである」(列王記11:3)と記されています。そこからソロモンの堕落が始まっていくのですが、今日はそこまで触れることは時間的にも難しいので、事実、そうであった、ということに留めておきましょう。

(7)神殿奉献とその祈り

よいことのうち、もう一つは、神殿奉献とその際の祈りです。

ダビデは神殿奉献の幻を与えられましたが、実際にそれを建築し、奉献したのは息子のソロモンでありました。そして神殿が完成した際の奉献の祈りが8章に記されています。長い祈りです。そしてすばらしい祈りです。このところにも、ソロモンの知恵が表れていると思います。

ソロモンは、全会衆に向かい、両手を広げて、こう祈り始めました。

「イスラエルの神、主よ、上は天、下は地のどこにもあなたのような神はおられません。」列王記上8:23

「神は果たして地上に住まわれるでしょうか。天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。わが神、主よ、あなたの僕の祈りとその願いを顧みてください。今日、あなたの僕が御前に献げる嘆きと祈りを聞き入れてください。夜も昼も、この神殿に目を向けてください。ここは、あなたが、『そこに私の名を置く』と仰せになった所です。あなたの僕がこの所に向かって献げる祈りを聞き入れてください。あなたの僕と、あなたの民イスラエルが、この所に向かって献げる祈りを聞き入れてください。あなたは住まいである天からそれを聞いてください。聞いてお赦しください。」列王記上8:27~30

そして具体的なことを祈り始めます。段落で数えると、8つの祈りが記されています。その中で、私の心に響いたのは、41節以下の外国人に対する執り成しの祈りです。

「また、あなたの民イスラエルに属していない、あなたの名のゆえに遠い国からやってきた外国人にも、同じようにしてください。その者が、あなたの偉大な力と、力強い腕のことを聞き、この神殿に来て祈るなら、あなたは住まいである天でそれを聞いて、その外国人があなたに叫び求めることを何でもかなえてください。そうすれば、全地の民は御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを畏れ敬い、私が建てたこの神殿で御名が呼ばれていることを知るでしょう。」列王記上8:41~42

これは排他的に見えるイスラエルの歩みの中で、確かになおイスラエル中心ではありますが、排他的ではなく、外国人に向かっても開かれている心、寛容な心があると思います。

(8)囲いに入っていない羊

そしてこの祈りは、次のイエス・キリストの言葉をほうふつとさせるものはないでしょうか。

「私には、この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊も導かなければならない。」ヨハネ10:16

このイエス・キリストの言葉を、どう解釈するか、「囲いに入っている羊」というのを、教会と読むこともできるでしょう。ソロモンは、神殿を「そこに私(ヤハウェ)の名を置くと仰せになった場所」と呼びましたが、教会はイエス・キリストが「そこに私の名を置くと呼ばれた場所」と言えるでしょう。しかしイエス・キリストの名、イエス・キリストの働きはそこに留まっているわけではありません。イエス・キリストも、そこに閉じこもっておられるわけではありません。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18:20)と約束してくださいましたが、それは閉じこもりを意味するのではないでしょう。そこにおられるとも言えるし、そこで祈られる祈りを、もっと広いところ、高いところで、天でお聞きになっていると言ってもよいでしょう。

イエス・キリストが教会を超えて働かれると同時に、教会もまた、クリスチャンのためだけの場所、ということではなく、それを超えた祈りの場所となりたいと思います。ソロモンが「外国人の願いもかなえてください」と祈ったように、私たちもまた、「クリスチャン以外の人たちの祈り、世界中の人たちの祈りも聞きあげてください」、と祈りたいと思うのです。

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