2023年3月26日説教「父 母」松本敏之牧師
出エジプト記20章12節 テモテへの手紙一 5章1~8節
(1)2枚目の板の最初の戒め
十戒を続けて読んでいます。今日はその第五戒、「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めを心に刻みましょう。
前回、「十戒は2枚の板に記され、1枚目は神と人との関係について、2枚目は人と人との関係、隣人との関係について記されている」と申し上げました。その2枚目の最初が、この「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めであります。
考えてみますと、父と母というのは、私たちがこの世界で最初に出会う隣人です。そこから私たちの人付き合い、人間関係が始まっていくのです。父と母がいなければ、私たちはこの世に生まれることはありませんでした。私たちは何よりもまずその重みを理解しているか、わきまえているかということでしょう。「その重みにふさわしく接しなさい。」子どもの側からすれば、もしかすると、「何でこの家に生まれたのか、もっと他の家に生まれた方がよかったのに。あの家の子どもはいいなあ」と思うこともあるかも知れません。子ども時代には一度はそういうことを思うのではないでしょうか。
しかし私たちは「その父」と「その母」のもとで、この地上に生を受けたのです。私たちが選んだのではないけれども、そこが私たちの人生の出発点です。その二人がいなければ、今自分がここで生きていることもなかった。その重みをわきまえたいと思うのです。
(2)神の選び
そしてそこには、神様の選びがありました。神様がその両親を通して、そこを入口として、私たちをこの世へ送り出してくださった。その重みをわきまえたいと思うのです。
両親にとっても、その子を自分で選んだとは言えないでしょう。親の側からは滅多にないこととは思いますが、よその家の子を見て、うらやましいと思うことも、もしかするとあるかもしれません。しかし神様がそこで、その子どもと自分たちを出会わせてくださったのです。そのように親子の関係を考える時にも、そこに神さまが介在しておられるということを覚えたいと思います。
もちろん、父母というのは、産みの親、というだけではないでしょう。自分を産んでくれた親と、育ててくれた親が違う場合もあります。しかしその場合もやはり、その育ての親がいなければ、今の自分はなかったのです。自分の人生はその親に負っているということをわきまえたいと思います。
(3)大人に対する教え
この戒めは、ある意味で子どもにはよくわかる戒めであろうかと思います。「お父さんお母さんを敬って、言うことをよく聞きなさい。」子どもは、親の庇護のもとにあり、それなしに生きていくことはできません。わかる、わからないにかかわらず、必然的にそのような生活形態になるでしょう。もちろんそういうことも含みながらではありますが、むしろこの言葉は成人した大人に向かって語られている言葉であろうと思います。他の戒めがすべて大人を念頭において語られている戒めであることも、そのことを示していると思います。大人になってしまいますと、ついその重みを忘れがちですが、やはりそこが私たちの人生の原点なのです。
前回、「安息日を覚えなさい」という第四戒は、1枚目の板にあって、2枚目への橋渡しになっているということを申し上げました。この第五戒は、逆に2枚目にあって、1枚目とのつながりを示している戒めであると言えるでしょう。
私たちは父と母を敬うことの向こうに神様を見るのです。父と母を重んじることを通して、神様を重んじることを学ぶのです。また父母との出会いは、神様が備えてくださったものです。ですからその父母との出会いを通して、神様に感謝をしていくのです。感謝をするということは、私たちの信仰の基本であります。
(4)「敬老の日」の由来
ちなみに、日本にも「敬老の日」があります。「敬老の日」について、インターネットの百科事典『ウィキペディア』には、次のように記されていました。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝うことを趣旨としている。」由来については、こう記されていました。「敬老の日は、兵庫県多可郡野間谷村(のまだにむら、現在の八千代町、やちよちょう)の門脇政夫(かどわきまさお)村長が提唱した『としよりの日』が始まりである。『老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう』と、1947年から、農閑期に当り、気候も良い9月中旬の15日を『としよりの日』と定め、敬老会を開いた。これが1950年からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がった。『としよりの日』という呼び方はひどいということで、1964年に『老人の日』と改称され、1966年に国民の祝日、『敬老の日』になった。」
さらに「元々は9月15日だったのが、2001年の祝日法改正(ハッピーマンデー制度の適用)によって、2003年からは9月第三月曜日となった」とありました。(もともと月曜日がお休みの牧師には、固定で9月15日のほうがありがたかったのですが。)
これを読んで、日本の「敬老の日」は、国民の祝日に制定されてから50年あまり、というのは、案外、新しいのだなと思いました。もっとも、そんなことを一々、国が定めなくても、お年寄りを大事にする習慣は、日本には昔からあったのかも知れません。大家族で共に住み、おじいさん、おばあさんと生活を共にしていた。そこから若い人は自然にいろんなことを学び、自然に尊敬、敬愛の念も育っていたのではないかと思います。
現在では日本人の多くが核家族のライフスタイルになり、普段はおじいさん、おばあさんと交わりが少なくなってしまい、「敬老の日」のような機会に、意識的におじいさん、おばあさんを覚え、会いに行くということになっているかも知れません。
(5)シラ書の教え
聖書の時代においても、お年寄りにどのように接するかというのは、大事な問題であったようです。十戒の中に、「あなたの父と母を敬いなさい」とあるのは、むしろそれが決して当たり前のことではなかったということを、逆に示しているように思えます。ここで「敬う」と訳された言葉は、「重んじる」という意味です。「相手にふさわしい重みをきちんと理解して、その重みにふさわしく接する」ということです。
旧約聖書続編(外典)に「シラ書」という書物がありますが、その中にこういう言葉があります。3章1節。
「子どもたちよ、父の戒めに耳を傾け それを守れ。 そうすれば、お前たちは健やかに過ごせる。 主は、子どもに対する威厳を父に与え 息子に対する母の判断を確かなものとされた。 父を敬う者は、罪を償い 母を尊ぶ者は、宝を蓄える者に等しい。」シラ書3:1~5
興味深いことに、この少し先に、こういう言葉があります。
「子よ、年老いた父親の世話をし 彼が生きている間、悲しませるな。 たとえ分別がなくなっても、寛容であれ。 自分が力に溢れているからといって 父を蔑んではならない。」シラ書3:12~13
この言葉は、「十戒」の「父と母を敬いなさい」という第5戒の具体的な展開であるように思いますが、その意味でも、これはやはり成人した大人に対する教えであることが中心にあると言えるでしょう。
(6)条件付きの最初の戒め
さて、十戒のこの戒めには、後ろにこういう言葉が付け加えられています。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えてくださった土地で長く生きることができる」(12節)。
これは十戒の中で、唯一、祝福の条件のようになっている戒めです。「そうすれば云々」というのです。エフェソの信徒への手紙にこういう言葉があります。
「子どもたち、主にあって両親に従いなさい。それは正しいことだからです。『父と母を敬いなさい』。これは第一の戒めで、次の約束を伴います。『そうすれば、あなたは幸せになり、地上で長く生きることができる。』」エフェソ6:1~3
これはおもしろいなあと思います。「父と母を敬うと、私たちはそこで長生きする」というのです。どういうことでしょうか。
ひとつには、父と母を敬うことによって、父と母から大事な知恵(特に信仰)を学ぶということがあるでしょう。それは経験に裏打ちされた知恵であって、若い者には気づかないことが多いものです。
また父母を敬うという良い心に神様が報いてくださって、長生きさせてくださるということもあるかも知れません。さらに子どもは、自分の親が祖父母にどのように接しているかを見ていますので、やがて自分たちが年老いた時に、子どもたちはそれと同じようにするものです。そういうことも間接的に言っているのかも知れません。
(7)共同体全体が優しくなる
同時に「父と母」というのを、もっと広く解釈して、ある共同体(イスラエルの共同体とか、教会とか)の中の「父と母」、年輩者と理解することもできるでしょう。そこでも先達に学ぶのです。先達の知恵は共同体全体を生かします。
またある共同体で年輩の方々を敬うということは、その共同体全体が優しくなり、健全になることを示しているのではないでしょうか。先ほどお読みいただいたテモテへの手紙一に、「年長の男性を叱ってはなりません。むしろ、父親と思って諭しなさい」(一テモテ5:1)とありました。
この言葉に、思わずにやりとなさった方もあるのではないでしょうか。教会の中では、年長の男性は自分の実の父親と思って接しなさい、というのです。そして「年長の女性は自分の母親と思いなさい」とあり、その少し後で、身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。その重みをわきまえて接しなさい、ということが示されます。私たちは、お年寄り、年長者を重んじる共同体を形成していきたいと思います。
教会でもどこの社会でもそうでしょう。お年寄りでも誰でも、弱さを覚えている人、弱さを持っている人に優しい共同体というのは、他の人にとっても優しいのではないでしょうか。旧約聖書の中で、社会のしわ寄せを一番受ける、弱い人の代表として、「寄留者」「寡婦」「孤児」というのがよく出てきます。そういう人たちが、一番社会の犠牲になりやすいのです。律法は「こういう弱さをもった人々を大事にしなさい」というのです(出エジプト22:20~21など参照)。これは示唆に富んでいます。そのような共同体の中でこそ、すべての人が長く生きることができるのではないかと思います。
村上伸という牧師は、「共同体全体が健全な社会として永く存立していくこと」という意味が込められていると言います。
「年老いて働けなくなった両親を軽んじたりしない社会こそ健全な社会であって、それは永続する。なぜなら、この人たちの愛・経験・知恵・人生への洞察が共同体を深く支えているからです。」村上伸『十戒に学ぶ』67頁
日本の社会は高齢化社会から高齢社会になり、そして超高齢社会に移行していると言われます。教会の中でもそういう面がないわけではありません。教会が一体どういう共同体であるべきか、聖書を通して学んでいきたいと思います。
(8)主イエスが引き合わされる家族
イエス・キリストの幾つかの言葉を思い起こします。主イエスは、「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない」(マタイ10:37)と言って、イエス・キリストとの関係を基本にすえることを大事にされました。
また「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か」と問いつつ、弟子たちの方を指して、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と言って、肉親を超えて、信仰の兄弟や父母を尊重されました(マタイ12:48~50)。
その一方で、十字架の上で息を引き取られる時に、自分の母マリアと愛弟子(ヨハネだろうと言われますが)を引き合わせられました。母マリアに向かっては、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言い、愛弟子に向かっては、「見なさい。あなたの母です」と言って、母マリアを愛弟子に託されました。その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取ったと記されています。(ヨハネ19:26~27)。主イエスは、そのように最後まで母マリアのことを気づかわれ、決してないがしろにされたわけではありませんでした。
またここに記されているのは、教会という共同体の原型であると思います。イエス様が、「これはあなたの父です。」「これはあなたの母です」「これはあなたの子です」と言われる。主イエスが引き合わされ、結び合わされる家族が、教会という「神の家族」ではないでしょうか。
皆さんの中には、自分のお父さん、お母さんをすでに天に送られた方もあると思いますが、ここに神様、イエス様が引き合わせてくださったお父さん、お母さんがあり、イエス様が引き合わせてくださった子どもたちがいる。そういう家族と共に、私たちが礼拝をし、共に時を過ごすことができるのは幸いなことであると思います。