2023年8月6日説教「平和を祈る」松本敏之牧師
詩編85編9~14節 マタイによる福音書5章9節
(1)日本基督教団「戦責告白」
本日、8月6日は広島に原爆が投下されて記念日であります。今朝も広島で平和記念式典が行われていました。8月9日は長崎に原爆を投下された記念日であり、8月15日は日本の敗戦記念日です。そのようなことから、日本では8月は平和を祈る月として定着し、また日本基督教団では、8月第一日曜日を平和聖日と定めています。
また鹿児島加治屋町教会では、この日に、鹿児島ユネスコ協会との共催で、礼拝後に「平和の鐘を鳴らそう」というプログラムを組んでいます。
鹿児島加治屋町教会では、年度初めに、その年度の年間主題を定め、週報の表紙に記していますが、今年度は「平和を祈る」という主題を掲げました。また年間聖句も週報に記している通りですが、本日は、その聖句を含む箇所を先ほど読んでいただきました。
またこの平和聖日礼拝においては、多くの教会が「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を唱和しています。鹿児島加治屋町教会でもそのようにしてきたのですが、コロナ禍にあって礼拝時間が長くならないようにそれを控えていますが、その重要度を低く考えているわけではありません。説教の時間内にその後半部分だけでも読みたいと思います。
皆さんに今日お配りしたホッチキス綴じのプリントの最後のページをご覧ください。その後半の「しかるにわたしどもは」以下を読みますので、もしよかったら、どうぞご唱和ください。
「しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。 心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。 終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。」
(2)後ろ向きに歩いている
私たちは、過去を忘れず、しっかりと認識することによってこそ正しい道を歩むことができるのだと思います。今朝、家族礼拝のお話の準備をする中で、「教師の友」の中に、こういう言葉があるのを見つけました。「聖書(ヘブライ語)においては、過去は前を、未来は後を意味します。ところが、現代人は未来を前に見て、過去を後ろのものとして忘れ去ろうとします。」
この言葉を読んで、かつてニューヨークのユニオン神学校の講義において、アフリカ人(と言っても十把一絡げにはできないでしょうが)の歴史観として聞いたあることを思い出しました。あるアフリカの地域では、歴史について、「私たちは後ろ向きに歩いている」というように言うそうです。つまり、私たちにとって未来は見えないわけです。過去は目の前に見えている。しかし私たちは未来に向かって進んでいるということです。面白い表現ですが、「なるほど」と思います。私たちは、そこで過去から目をそらさず、過去をしっかりと見、反省と悔い改めをしてこそ、見えない未来に向けての地平も拓けてくるのではないでしょうか。これは決して後ろ向きのことではないでしょう。いや、後ろ向きなんですが、否定的なことではないということです(ややこしいですね)。
(3)日本基督教団と在日大韓基督教会の平和メッセージ
さて日本基督教団では、平和聖日にあわせて、毎年、在日大韓基督教会と合同で、両教団議長名で、平和メッセージを発表しています。
今年のメッセージも時宜にかなった大事な点を押さえていますので、この後は、このメッセージを読みながら、これに即してお話をしようと思います。先ほどの「戦責告白」の最初の1頁目と2頁目にありますので、どうぞご覧ください。
最初にエレミヤ書22章3節が掲げられています。
「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」エレミヤ書 22章3節
そして序の部分でこう述べます。
「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、日常の私たちの生活を揺るがし、身体に危険を及ぼしたばかりでなく、社会構造や経済構造の弱い部分に打撃を与え、矛盾や不平等を露呈させ、孤立と分断を増長させました。その不安や対立が暴力や戦争まで引き起こし、感染症が収束に向かう中でも、世界が未だに大きな混乱の中にあります。 主イエス・キリストは、ご自身の十字架によって敵意の中垣を壊し、二つのものを平和の中で一つにしてくださいました。私たちは主イエス・キリストこそ和解と平和の主であることを信じ、主が私たちに求められる隣人愛を心に刻み、この愛から生まれる平和だけが、この世界の危機を克服出来るものと信じ、ここに平和メッセージを宣言いたします。」
今年のものは、「平和メッセージを宣言いたします」という力強い言葉で始まります。
(4)関東大震災100周年
そして一つ目は<関東大震災100周年について>です。
「1923年9月1日に関東大震災が発生し、今年、100周年を迎えます。10万人を越える貴い命が犠牲になったことを忘れません。しかし、それと同時に、震災の混乱の中、『朝鮮人が井戸に毒を入れた』『朝鮮人が放火した』などの流言飛語(りゅうげんひご)により6,000人の在日朝鮮人・中国人が警察及び自警団によって虐殺されたことを忘れてはいけません。平時には普通である一般市民が、天変地異が起こるとこのように豹変し、人間が同じ人間を殺すという狂気に陥るさまに戦慄を覚えます。また人間の心の奥底に潜む罪深さにおののきます。 100年たった現在でも、寄留外国人に対するヘイトスピーチなどの人権侵害が続いています。私たちは、すべての人の命を贖うキリストへの信仰に基づき、『すべての人と平和に暮らしなさい』(ローマの信徒への手紙12章18節)との御言葉に従って、差別のない社会が実現することを願い祈っています。そして、そのための愛による働きにあずかることを志しています。緊張と不安に満ちた今日の状況の中でこそ、社会の中で弱い立場に置かれた人々が守られ、支えられなければなりません。社会の動揺に乗じたあらゆるヘイトに反対し、この社会に生きるすべての人々の人権が守られるよう願います。」
(5)「入管難民法」改悪について
二つ目は<「入管難民法」改悪について>です。
「2021年に廃案となった『出入国管理及び難民認定法(入管難民法)』の改悪案を一部だけ修正したものが、今年5月9日に衆議院で可決され、6月9日に参議院で可決、成立しました。これに対し、わたしたち日本基督教団と在日大韓基督教会は強い憤りをもって抗議します。政府の法案は『難民申請者』や、在留資格を失った『無登録外国人』(非正規滞在者)を、さらに窮地に追い込む改悪法となっています。本来ならば、世界人権宣言および難民条約に基づいて難民認定制度を抜本的に改正し、日本がすでに加盟している国際人権諸条約に沿って入管収容制度を改正すべきです。私たちはこの『改悪』入管難民法の実施に反対し、廃案を求め、難民申請者や無登録外国人一人一人の命と生活を支える市民社会の働きに連帯して行きます。」
(6)多民社会をめざして
難民認定と受け入れの問題は、さまざまな日本社会の問題の中でも、とりわけ私の関心の高いものです。最初のエレミヤ書22章にもあったように、「寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。」というのは、聖書の神様の戒めでもあります。
私たちは、日本に向かって助けの叫びをあげている人たちをどのように迎え、どのように共に歩むのかが問われているのだと思います。そして、さまざまな外国人を日本に迎えることは、日本の将来にとっても意味のあることだと信じます。日本政府は、「異次元の少子化対策」と言って、子どもを産みやすい環境、子どもを育てやすい環境を作っていくことに力を注いでいます。それはそれで必要なことでしょう。しかし限界はあります。私はある程度の外国人を日本に迎えながら、多民社会を形成していくことこそが異次元の少子化対策になると思うのです。
(7)ウクライナにおける戦争について
そして三つ目は、<ウクライナにおける戦争について>です。
「2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻してから、すでに一年半が過ぎました。現在も戦争は終わる気配がありません。その間も子どもたちを含めた尊い命が奪われ続けています。 『主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。』(イザヤ書2章4節) 一刻も早く戦闘が中止され、ウクライナおよびロシアの兵士たちの命が救われることを強く望みます。社会インフラ・ライフラインの復興とともに、傷ついた人々の心のケアのために世界中の教会が力を尽くすことを願います。 ロシアの核による威嚇や使用は主の前で決して許されません。すべての為政者たちの良心が呼び覚まされ、私利私欲と傲慢な思いを捨て、正しい選択を行うように切に祈り求めます。現在行われている『戦争という名の大量殺人』が、一刻も早く中止されることと、そのために主なる神が働いてくださることを心から願います。」
ウクライナ戦争については、私も何度か語ってきていますが、ここでもそれが語られています。最近の戦況を見ていますと、ロシア側に対する攻撃が増えてきているのが気になります。ロシアでも戦争に駆り出される兵士たちは、ロシアの中でも少数民族であったり、経済的に貧しい人たちが多かったりすることも見落としてはならないでしょう。そしてロシアの中で反戦の声を挙げられない人たちがあり、海外に逃れたロシア人に対しては差別やバッシングがあることも忘れてはならないでしょう。
(8)自由、真実、正義、愛という4本の柱
今日は、今年度の年間聖句でもある詩編85編をお読みいただきました。その中の11節は、今年度の年間聖句です。その続きの12節も続けて、もう一度お読みします。
「慈しみとまことは出会い 義と平和は口づけする。 まことは地から芽生え 義は天から目を注ぐ。」詩編85:11~12
すてきな言葉だと思いませんか。この言葉は私の愛唱聖句でもあります。
慈しみとは「愛」と言ってもよいでしょう。まこととは「真実」と言ってもよいでしょう。「義」は正義と言ってもよいでしょう。愛と真実が出会い、正義と平和が口づけをするのです。そして真実は大地から芽を出し、正義は天から降ってくる。大地から出たものと天から降り注いだものが出会い、そして口づけをする。愛、慈しみのないところでは真実もありません。正義のないところでは平和もありません。そこでこそまことの平和が成立するのです。
カトリックの第二ヴァチカン公会議の招集者となった、今から3代前のローマ教皇、ヨハネ23世(在位1958~63)は、こういう言葉を遺しています。
「平和は、自由、真実、正義、愛という4本の柱の上に建設される」
これも先の詩編に通じる言葉であり、同時に真理を言い当てたうがった言葉、そして美しい言葉であると思います。
(9)日本の原子力政策について
4つ目、そして最後は<日本の原子力政策について>です。
「2011年の東京電力福島第一原子力発電所爆発において『絶対安全』『経済に必要』という『神話』に彩られてきた日本の原子力政策は、完全に崩壊し、12年を経た今もなお事故収束は全く目処が立っておりません。それにも拘わらず、日本政府は原発の新規建設や60年を超える運転を認めることを盛り込んだ『GX(グリーン・トランスフォーメーション)実現に向けた基本方針案』をとりまとめ、福島第一原子力発電所で増え続けるALPS処理水(トリチウムなど放射性物質を含んだままの汚染水)を地域住民や漁業関係者との約束を無視して、また近隣諸国の反対の声を聴くことなく、今年中に海洋投棄することを決定しました。
わたしたち日本基督教団と在日大韓基督教会は、ALPS処理水の海洋投棄や、日本政府が提唱する『基本方針』に断固抗議をし、今なお、強いられたヒバクによって痛み、脅かされている命と連帯して行きます。」
(10)トリチウム汚染水の処理方法はある
これも大事なことを語っていると思います。トリチウム汚染水の問題は、私は決して風評被害の問題ではないと思っています。それをどんなに薄めようと、海に流すことがいかに危険であるかを知る必要があるのではないでしょうか。もう海に流すより他に方法がないと言って、薄めて流すことにしたように伝えられていますが、実際にそれを処理する方法が少なくとも二つ開発されていると聞いています。ひとつは近畿大学の井原辰彦教授を中心に開発された、小さな孔のあるフィルターを通してアルミニウムでトリチウムを除去する技術。もうひとつは、水とトリチウムの沸点の違いを利用して、水だけを蒸発させて濃縮されて何千万分の一の容量になったトリチウムだけを永久保存する方法です。ただ費用が海に流すよりもかなり高いそうです。しかし私たちは、ここで取り返しのつかない方向へ進んで行くのではなく、できる限りの人知を尽くして、より安全な方法を模索していかなければならないと思います。それは漁師さんたちにとっても、安心できる道ではないでしょうか。
(11)平和を造るとは
私たちのもうひとつの年間聖句、新約聖書のマタイによる福音書5章9節の言葉です。
「平和を造る人は幸いである その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9
ここで「平和を造る」とは内容的に何を意味するか。それは決して武力によるものではありません。また誰かの犠牲の上に成り立つのはまことの平和ではありません。
最後にもう一度、先ほどのヨハネ23世の言葉を思い起こしましょう。
「平和は、自由、真実、正義、愛という4本の柱の上に建設される」
「平和を造るものは幸いである」という時には、この4本の柱の上に「平和を造る」という思いが込められているのだと思います。